第六百五十三話 彼について(九)
幸多は、抱え込んでいた膝から左手を離すと、手のひらを開いてみた。
降りしきる大雨が手のひらをびしょ濡れにしてしまうが、既に全身ずぶ濡れなので関係がなかった。大事なのは、この左手の感覚だ。
心象世界である。
欠けた腕が普通に存在していてもおかしくはないが、現実世界の幸多の左前腕もなにひとつ欠けることなくそこに存在していたということもあって、なんだか不思議な感覚があった。
左前腕と右眼は、サタンによって奪い取られた。
そこに嵌め込まれたのが義眼であり、装着されたのが義手である。
いずれも、現代最高峰の技術の結晶である生体義肢だったのだが、愛理の星神力に耐えきれず、崩壊してしまった。
つまり、幸多の右眼も左手も再び失われたはずなのだ。
だが、マモンとの戦闘の最中、突如として生えてきたことを覚えている。
それがどういう理屈なのか、幸多にはまるで想像もつかなかったし、きっと理解もできないに違いなかった。
その直前、声を聞いたことを覚えている。
「ドミニオンは……彼は……なんだったんだろう」
「そこか……」
彼は、少しばかり、困った。
幸多が左手の感覚を確かめるように、握り、開き、指を動かす様を見つめながら、雨の勢いが増していくのを感じている。
いまや未来河は氾濫寸前だ。
土手に座る幸多の足や尻が、溢れ出した川水に漬かり始めていた。が、そもそも土砂降りの雨に打たれて濡れそぼっていたのもあって、気にならないのかもしれない。
仮に未来河が氾濫したとしても、幸多は気にも留めないのではないか。
幸多が気にしているのは、あの天使のことだ。
天使型幻魔。
「彼は、ぼくに謝ったんだ。済まなかったって……」
「うん。聞いたよ。覚えてる」
ドミニオンがマモンの攻撃から幸多を庇い、その結果、魔晶体を崩壊させる羽目になった。その瞬間の記憶、映像が脳裏を過る。
きっと、幸多も同じ光景を思い出している。
だから、彼もその記憶を覗き見ているのだ。
幸多と同じ情報を共有している。
感情までは、完璧に共有するには至らないのだが。
それが困ったところだと、彼らは想っている。
結局、自分たちは人間などではなく、ロボットのような存在に過ぎない。精神的な存在ではなく、もっと機械的な、物理的な存在。
故に幸多の感情の機微が、理解できない。
彼の苦悩が手に取るようにわかっても、寄り添ってあげることはできない。
一緒に悩み、苦しみ、嘆き、叫ぶことなど、できるわけもない。
ただ、この荒れ狂う心象世界に振り回されるだけだ。
「あのときは、なにをいっているのかわからなかった。でも、いまなら、わかる気がする。ううん」
幸多は、頭を振ると、なにか思いついたかのように立ち上がった。ずぶ濡れの体が多少重く感じるのは、着ている服が濡れているからなどではなく、精神状態そのものを反映しているからに違いない。
「わかったんだ」
「わかった?」
なにが、などと、彼は問わない。
彼も、わかったからだ。
いままさに、幸多がなにを考えているのかが、意識の中に飛び込んでくるような感覚があった。
嵐が来る。
豪雨が渦を巻き、巨大な竜巻となって、氾濫を始めた未来河のただ中へと突っ込んでいけば、幸多と同じ姿をした少年たちが巻き込まれていく。洪水が逆巻き、天まで昇っていく光景は、天変地異そのものだが、心象世界ならばありふれたものでもあった。
この世界には、幸多の心情がそのまま反映されるのだ。
サタンと対峙したときなどの荒れ具合たるや、今現在の比ではない。
「ドミニオンは、ぼくに力を託すために舞い降りた。でも、それだけじゃなかった。ドミニオンは、ぼくに謝りたかったんだ。それがたとえ自分の非ではないことであっても」
「……だと想う」
「縁だって、ドミニオンはいった。それがなにを意味する言葉なのか、いまならわかるよ。うん。きっと、そういうことなんだと想う」
「うん……」
彼には、幸多が一人納得していくのを見ていることしかできない。
結局、彼らは、幸多を支え、補うためだけの存在だ。幸多の心の問題は、幸多自身が解決しなければならないのだ。彼らがなにをいったところで幸多には響きようがなければ、幸多だって反応しようもないだろう。
いままでがそうだった。
ならば、なぜ、いまになって、幸多とこうして直接話し合うことができているのか、という疑問への解は、それこそ、ドミニオンにあるのだから、なんともいいようがない。
ドミニオンがもたらした膨大な情報が、幸多にこの領域を、心象世界を認識させてしまった。
幸多は、ドミニオンを理解した。ドミニオンが彼に与えてくれた力と、そこから流れ込んできた大量の情報が、いままさに洪水の如く幸多の頭の中を席巻している。
ドミニオンがなぜ、謝ったのか。
ドミニオンがなぜ、あの場に現れたのか。
縁とはなんなのか。
あのとき見た天上の光景は、誰の目線のものだったのか。
今ならば、はっきりとわかる。
『んだよ。おれが悪ぃってのかよ』
残響のような声が聞こえて、幸多と彼は、そちらに目を向けた。大洪水によってもはや原型を留めていない土手の上に、一人の少年が立っている。天燎高校の制服を身につけており、胸元の校章が三年生であることを示していた。
その顔を一目見ただけで、誰なのかわかった。
曽根伸也。
『おれは……なにも悪ぃことなんてしてねぇ――』
そういって、曽根伸也の姿が掻き消えると、重なるようにして天使型幻魔の姿が現れた。ドミニオンである。
頭上に光の輪を戴き、背中から光の翼を生やしたそれは、まさに神々しいとしか言い様がない姿であり、この混沌とした心象世界に安定をもたらしてくれるのではないかと期待したくなるくらいだった。
無論、幸多の精神状態が反映される世界にドミニオンの残滓が影響するはずもないのだが。
『済まなかった……ただ、それだけをきみに伝えたかったんだ』
ドミニオンの声が、心象世界に響き渡る。
そのためだけに天から舞い降りてきたドミニオンは、実際にその通りの言葉を残し、散っていった。
幸多は、いままさに目の当たりにした映像がなにを意味するのかを頭では理解しながらも、心ではわかりたくないという気分で一杯だった。
「ドミニオンは、曽根伸也だったんだ」
「厳密には、違うけどね」
「わかってる。わかってるけど……」
幸多は、ドミニオンの姿が掻き消えていく様子から目を離せなかった。
ドミニオンと曽根伸也の姿が重なり、消えてなくなる。
ドミニオンは、曽根伸也ではない。
曽根伸也の死後、その死体から溢れ出した膨大な魔力を苗床として誕生した幻魔が、ドミニオンなのだ。よって、ドミニオンと曽根伸也に深い繋がりなどあろうはずもないのだ。
幻魔と人間の間に連続性はない。
それこそが絶対の道理であり、覆されざる聖なる領域なのだ。
そこを覆されれば、人類の存在価値を問わなければならなくなる。
人間と幻魔の間に連続性があり、人間が幻魔に生まれ変われるというのであれば、全人類が幻魔になるべきではないか、などという暴論が罷り通りかねない。
人類は、幻魔へと進化するべきであり、そのためにこそ人類は滅び去るべきだ――などという、いまや滅び去った幻魔主義者の暴論が取り沙汰されることになるかもしれない。
だから、というわけではないが、ドミニオンと曽根伸也を同一視する必要はない。
ないのだが、幸多は、考え込んでしまうのだ。
ドミニオンのいう縁について。
幻魔に残る、人間の記憶について。
そして、それが幻魔の行動原理と関わるのだとすれば、幻魔とは、一体、なんなのか。