第六百五十一話 彼について(七)
「幸多はよく大怪我をしたわ。どうしてだと思う?」
不意に、奏恵が彼に問いを投げかけた。
伊佐那家本邸の母屋。
その縁側には、二人しかいない。
ほかの合宿参加者や臨時指導教官、伊佐那家の人々は、二人がなにやら話し合っている様を遠目に見て、邪魔をしてはならない雰囲気だと察知したのである。
真白だけは、奏恵に話しかけようとしたが、黒乃に口を塞がれて、暴れ出したところを義一に取り押さえられることでようやく収まったのだが。
そんな事情は露知らぬ彼と奏恵は、二人だけの時間を感じていた。
こんな時間が訪れることになるとは、彼自身、考えたこともなかった。
「空を飛びたくて、高いところから飛び降りたから……かな」
「大正解。やっぱり、幸多の記憶もちゃんとあるのね?」
「……えーと」
「ふふ。いいのよ。あなたがいつだって幸多のことを護ってくれていたから、いまの幸多があるんだって、いま、やっと理解できたから」
「困ったな……」
奏恵の笑顔の穏やかさには敵わない、と、彼は、どうしようもなく理解してしまう。幸多の魂が、そういっているのだ。
母には敵いっこない、と。
だから、彼もどうしようもない。幸多ではない自分だが、幸多とともに奏恵から生まれ落ちたという事実に変わりはないのだ。
「目を離せば最後、近くの山まで走っていって、崖の上から飛び降りるんだもの。そりゃ大怪我も一つや二つじゃ済まないわよね」
「うん……」
幼い頃の幸多は、魔法使いに特に強い憧れを持っていた。
誰もが魔法を当たり前のように使う世界にあって、自分だけ魔法が使えないことの不公平さを恨むのではなく、羨んだのだ。
ただ、魔法が使いたいという欲求だけが、幸多を駆り立てていた。
だから、奏恵のいうように、両親の目を盗んでは、魔法使いの真似事をして、大怪我をした。
全身に軽い打撲を負う程度ならまだましなほうで、大量に血を流すほどの大怪我を負うことも少なくなかった。
そのたびに奏恵や幸星が大騒ぎをしたことは、覚えている。
けれども、その程度の傷は、幸多の体にはなんの問題もないものだったから、両親や周囲の人々は、不思議に思いつつも安堵したことだろう。
「それで、そのたびにね、意識を取り戻したばかりの幸多は、よくわからないことをいったのよ、まるで幸多らしくないことを」
奏恵は、病院に運び込まれた幸多が、全身に包帯を巻き付けられた状態にも関わらず、平然と起き上がっている様を見て驚愕したことを昨日のことのように覚えている。そして、幸多は、奏恵を見るなり、こういうのだ。
『また、やっちゃったんだ?』
他人事のような、確認するような言葉だった。
幸多ならば飛べなかったことを泣き叫ぶなりするのではないかと思えたし、事実、そういう事例が過去に何度もあったから、奏恵は、それが幸多ではないだれかの言葉なのではないか、と思ったりもした。
幸多の中にいる、誰か。
『ごめん。止められなくてさ』
とも、その誰かは言った。
そんな謝罪を聞いて、奏恵は、幸星と顔を見合わせたものだ。
それは紛れもなく、幸多本人の謝り方ではなかった。幸多ではない第三者としか受け取りようのない言葉遣いだったのだ。
そのときから、ずっと、奏恵は幸多と幸多の中にいる誰かを見守り続けていた。
幸多が大怪我をする頻度は、成長とともに減っていった。
その最大の原因は、統魔だろう。
統魔を家族に迎え入れてからというもの、幸多は、魔法士になりたいなどとは言い出さなくなった。魔法の訓練と称した無茶もしなくなった。
統魔という才能の塊が側にいることで、幸多は、自分が魔法不能者だと自覚するようになっていたのだろう。
その代わりといってはなんだが、統魔の魔法の実験台になって大怪我する頻度が増えたのは、奏恵と幸星の頭を悩ませることになったが。
ともかく、だ。
奏恵は、隣に座る少年が幸多本人ではないのだと見抜いていたし、だからといって、不快感だとか不安だとか、そういったものは一切感じていなかった。
むしろ、感謝さえしている。
「幸多が大怪我をする度にそんなことがあったわ。幸多の中の誰かさんが、幸多の代わりに謝ってくれるのよ。不思議でしょう?」
「それが……ぼくだ、と」
「違うの?」
「……えーと」
どういうべきなのか、彼は、迷った。
もはや奏恵が確信を以て彼のことを認識してしまっている。隠しようもなければ、誤魔化しようもない。
幸多が別人を演じる理由など、どこにもないのだ。
「幸多の中にいる誰かさん。いつも、幸多のことを護っていてくれたんでしょう? わたしには、わかるわ。本当にありがとう」
「ぼくは……」
彼は、奏恵に抱きしめられて、言葉を失った。
愛情とは、幸多だけに向けられるものだと、思っていた。
けれども、そうではなかった。
奏恵の膨大な愛は、どうやら、自分たちにも注がれるものであるらしい。
「――だとさ。いい加減、目を覚ましてやりなよ。きみのお母さん、心配してるよ」
彼は、外界から流れ込んでくる情報に聞き耳を立てながらも、その視線は目の前の少年に注いだままだった。
少年は、皆代幸多だ。
ここは、皆代幸多の心象世界とでもいうべき領域である。
つまり、心の中だ。
本来目に見えるはずのない領域を視覚化することができるのは、彼らの特権というべきかもしれない。
いま、幸多の心象世界は、未来河の河川敷をそのまま再現しているのだが、空はなんともいえない不思議な色模様だった。そして、未来河は、いまにも増水しそうなほどの勢いで流れている。
このままの勢いで流れ続ければ、万世橋の橋脚《きょうきゃk》が折れて、橋そのものが流されかねない。
そんな激流を見下ろすようにして、未来河南岸の土手に膝を抱えて座り込んでいるのが、幸多だ。
それが、彼にはどうにも理解できない。
理不尽極まるとは、まさにこのことだ。
「体は回復したんだ。意識だって、ぼくたちが取って代われるくらいに戻ってる。後は、きみ次第なんだけど」
「きみは……なんなのさ」
幸多が、膝に埋めていた顔を上げて、彼を見た。
幸多と同じ顔をした少年。同じ顔、聞き覚えのある声。
「声は……サタンにそっくりだけど」
「サタンにそっくり?」
彼は、幸多の発言に、思わず噴き出してしまった。
幸多が怪訝な顔をするのもわかるくらいの笑いぶりだった。
「違う違う、サタンが、そっくりなんだよ」
「うん?」
「サタンは誰に姿を似せてたっけ?」
「ぼく……だと思う」
「だったら、その声質も真似てると考えるものじゃないかな?」
「……なるほど。だから、どこかで聞き覚えがあったんだ」
幸多は、ようやく得心した。
サタンの声が聞こえたとき、周囲の反応が変だったことも思い出す。それはきっと、あの黒衣の中から幸多の声が聞こえてきたからだ。
そして、幸多が聞き覚えがあるように思えたのは、実際に聞いた記憶があったからだ。
「じゃあ、やっぱり、きみの声だったんだ」
「いや、だから――」
「ぼくに何度も呼びかけてきた声のこと、だよ」
幸多は、自分そっくりの少年の言葉を遮るように、いった。
幸多は、何度も、声を聞いた。その声とサタンの声が酷似していることには気づいていたが、まさかその声が自分の声だとは想ってもみなかった。
「でも、なんでだろう? ぼくの声だって、わからなかったな」
「きみは、自分自身の声をちゃんと聞いたことなんてないでしょ。インタビューでもニュースでも、この世にはきみを取り扱った動画で溢れているというのに」
「そりゃあ……まあ……時間が勿体ないし」
自分に関するニュースやインタビュー動画を見るくらいならば、訓練に時間を費やすほうが余程有意義だ、と、幸多は暗に言った。
彼が幸多の心の中に常駐しているのであれば、それくらいいわずともわかるだろう、という思いだったし、実際、彼には幸多の言いたいことが伝わっていた。
「確かに勿体ないよ。この時間すらさ」
彼は、幸多の考えが手に取るようにわかるからこそ、いま、この時間が無駄だとも思ってしまう。
一刻も早く、外の世界に。
けれども幸多は、またしても膝を抱え込んでしまった。
彼は、肩を竦めた。
濁流が、橋脚を飲み込み始めた。




