第六百五十話 彼について(六)
奏恵が夫の幸星と頭を悩ませる日々を送ったのは、赤羽医院でのことだ。
幸多がまだ奏恵のお腹の中にいる頃のこと。
その頃には、幸多が完全無能者だということが判明しており、だからこそ、二人は、大いに悩んだのだ。
幸多を生きていけるかどうかということに関しては、赤羽亮二が最善を尽くすと約束してくれていたし、彼に全幅の信頼を寄せていたこともあって、あまり深くは考えないようにしていた。
そのことよりも、それからのことを考えなくてはならなかった。
幸多を、完全無能者として生まれ落ちる我が子を、どうすればこの現代魔法社会に適応させることができるのか。
魔法不能者は、数多といる。
魔法不能者の割合は、千人に一人と言われていて、実際、それくらいの数がいるのだが、社会的に成功している人もいれば、戦団の導士として活躍している人もいる。
魔法不能者だからといって、生きていけないわけではない。
が、不能者差別が存在することを否定することも無視することもできない。
幸多は、ただの魔法不能者ではない。
完全無能者なのだ。
そんな幸多のためにできることは、なにか。
両親として、我が子のためにできること。
考え抜いた末に出した結論が、魔法を使わずに生きてみせるということだった。
そのために奏恵も幸星も央都魔法士連盟から職を辞し、山麓の一軒家に居を構えた。
そこで、幸多と、完全無能者と全力で向き合うことにしたのだ。
全ての時間を幸多に注ぎたかった。
そうすることでしか、自分たちの不安を解消できなかったし、そこまでしても不安は付きまとった。
本当にこれで正しいのか。
このやり方で幸多を成長させることができるのか。
魔法社会で爪弾きにされることのない、立派な人間として、育て上げることができるのか。
ずっと、心配だった。
そして、心配は的中した。
幸多は、物心ついたときには魔法に憧れを持っていたのだ。
それは、そうだろう。
いくら市街地から離れた山麓に籠もったところで、魔法社会と隔絶した生活を送れるわけではない。
奏恵と幸星が魔法を使わなくとも、央都には数え切れない数の魔法士がいて、毎日のように空を飛び交っている。
皆代家の直上を飛ぶ魔法士なんてほとんどいなかったが、ネットテレビを見れば、一瞬で魔法士と遭遇するものだ。
いくら幸多が完全無能者であり、奏恵と幸星が魔法を使わなくても生きていけるということを実践していたとしても、魔法社会の現実を教えないわけにはいかないのだ。
これから先、幸多は、魔法社会と向き合っていかなければならない。
魔法が実在し、誰もが使えるという現実を受け入れ、立ち向かっていかなくてはならない。
早かれ遅かれ、知らなければならないことだ。
そして、幸多は、魔法の存在を知り、魅入られたのだ。
「魔法を使いたい使いたいって、迷惑をかけたっけ」
「ううん。迷惑だなんて思わなかったわ。だって、当然の欲求だもの。誰もが当然のように魔法を使えて、どうして自分だけ魔法を使うことができないのか。疑問に思うのも当たり前だし、泣き叫びたくなるのだって、普通のことなのよ」
「そう……なのかな」
「そうよ。わたしは、結局、幸多の気持ちに寄り添ってあげることもできていなかった気がする。幸多が本当に望むものをあげられなかった」
「それは……仕方がないよ」
彼は、奏恵が心の底から懺悔しているような気がして、悲しい気分になった。ここにいるべきは自分ではなく、幸多であるべきはずなのだ。
なのに、幸多は、いない。
それが、彼にはどうにも気持ちが悪くて仕方がなかった。
「仕方がないなんて想いたくないし、諦めたくないのよ。わたしと幸星さんの子供なのよ、幸多は。赤の他人だなんて、想いたくないの。大切な家族だって、最愛の息子だって、想っていたいのよ」
「……その気持ちは、ちゃんと伝わっているよ」
痛いほど、と、彼は想う。
彼は、幸多ではない。けれども、幸多の感情はわかる。幸多がどれだけ両親を愛しているのか、どれだけ、両親に感謝しているのか。
彼は、奏恵の手を見た。膝の上に置かれた手は、華奢で、細い。そんな細い手で、我が儘放題、したい放題の幸多をよくもまあ、育ててくれたものだ、と、想わずにはいられないのだ。
「そう……だといいのだけれど」
「ぼくが、保証する」
「ふふ……やっぱり、あなたは、幸多じゃないのね」
「……あー……」
彼は、まんまと思惑に乗ってしまったという気分になって、奏恵を見た。そこで、奏恵が目元に涙すら浮かべていることに気づく。
涙が、日光を浴びて、煌めいていた。
「いったでしょう。小さい頃、幸多が、よくわからないことをいっていたって」
「うん……」
「あの子は、幸多は、自分が完全無能者で、絶対に魔法士になることができないことを知れば知るほど、魔法士への憧れを止められなくなっていったみたいで」
(……その通りだよ)
彼は、奏恵の推察を肯定しながら、視線を庭先に戻した。
吹き抜ける風の心地よさを肌で感じながら、このような感覚を抱くのは、いつ以来なのか、とも考える。
本当に長い間、幸多の中にいた。
こうして表出するのは、いつ以来なのだろうか。
もはや思い出せないくらい、ずっと昔のことだ。
「子供にはまだ早いといっても、聞いてくれなかったわ。本当に、魔法を覚え始めるのなんて、もっと遅くても良いのにね」
「そうだね……本当にそうだ」
彼は、奏恵に釣られて、くすりと笑った。
本当のことだ。
魔人と始祖魔導師が魔法時代の到来を告げ、全人類が魔法士となったのは遠い昔のことだが、それから二百年近くが経過したいまとなっても、魔法を習い始めるのは、小学校に通い始め、高学年になってからで十分だという考えが一般的だった。
家庭によっては、物心ついたときから魔法の基礎を学ばせ始めるところもあるようだが、大半が学校教育の過程で学ぶものである。
そして、中学生の頃にでも飛行魔法を自在に扱えるようになれば上出来なのだ。
一般市民の生活に必要な魔法の多くは、法器などの魔具、魔機を用いれば、簡易的な発動が可能だ。
だから、一般市民の多くは、魔法の基礎を学ぶだけでも十二分に魔法社会を満喫できるというわけだ。
しかし、幸多は違う。
いくら魔法の基礎を学ぼうとも、魔法の応用を学ぼうとも、一切使うことができないのだ。
だから、奏恵も幸星も、幸多をどのように育てるのか苦悩したに違いなかったし、幸多が魔法を使いたいと走り回るのも、仕方のないことだったのだろう。
「幸多は、魔法使いになりたがったのよ。いまにして想えば、魔法が使えない現実を突きつけられたから、余計にそう考えるようになったのかもしれない」
「……どうかな」
そればかりは、彼にもわからない。
仮に、完全無能者だと事実を突きつけられなかったとしても、幸多は、魔法使いになりたくてなりたくて仕方がなかったのではないか。
未成熟な子供だ。
本能のまま、感情のままに生きていた。
そして、それそのものは、決して悪いことではない。
周囲に迷惑をかけなければ、だが。
幸多は、周囲に多大な迷惑を掛け続けた。何度も、何度も、数え切れないくらい何度も。
大騒ぎになったことも少なくない。
だから、だろう。
彼は、奏恵が自分と幸多の差違に気づいた理由がそこにこそあるのだと、思い至った。