第六百四十九話 彼について(五)
「えっと……」
彼は、隣に座る奏恵の目を見つめながら、なにをどう話すべきか、迷いに迷っていた。
皆代奏恵。
魔暦百八十二年八月十二日生まれ。
つい先日、四十歳を迎えたばかりだ。
そういえば、今年の誕生日は例年とは比べものにならないくらい賑やかだったということで、奏恵がとても喜んでいたことを思い出す。
例年通りならば、幸多と統魔を含む家族にくらいにしか祝って貰えなかったはずだ。あるいは、幸多か統魔のいずれか、または両方が任務で連絡を取れなくなっていたとしても、不思議ではない。
我が子が導士になるということは、つまり、そういうことだ。
それは、ともかく。
現代魔法社会における四十歳という年齢は、まだまだ若い部類に入る。
実際、外見からは推定年齢すら割り出すのが困難なのが魔法社会であり、それは、魔法時代黄金期のころから時代を経て、さらに進化している。
魔天創世によって激変した地上の環境に適応するための生体強化技術である魔導強化法は、人体がこの魔界の如き天地に順応するためだけに発揮されるものではなく、人間の持つ生命力そのものを大きく増幅させることとなった。
よって、魔法医療等によって美容に気を使わなくとも、長い間、若々しさを保つことができるのだという。
少なくとも、魔法時代以前の旧時代人、魔法時代以降から現代に至るまでの旧世代人とは、比較にならないものだ。
そんな若々しさ、瑞々《みずみず》しさは、奏恵特有のものではなく、極めて一般的な、ありふれた代物ではあるのだが、それはそれとして、幸多の母は客観的に見て美人だろうと想う。
望実、奏恵、珠恵の長沢家の三姉妹は、子供のころからその妖精のような可憐さで知られていたという話を、彼は、幸多が祖父母からよく聞かされるのを聞いていた。
その可憐さが成長に伴って洗練され、成人年齢になるころには、美人三姉妹として周囲に知られるほどになっていた、という。
そんな奏恵の容姿は、幸多に強く受け継がれているようだ。
艶やかな黒髪もそうだったし、褐色の虹彩もそうだ。普段は常に穏やかな微笑を湛えている顔の造作も、幸多と奏恵はよく似ていた。幸多の父、幸星も、幸多は奏恵に似ている、とよくいっていたものである。
それはつまり、幸多が女顔だということになるのか、といえば、そんなことはなかった。中性的ですらない。
しかし、どことなく似ているのだ。
幸多のことを常に客観的に見ている彼だからこそ、よくわかる。
幸多自身には、きっと、わからないのではないか。
そう思えてならない。
「あなたは、幸多じゃない。そうなんでしょう?」
「……突然、なにをいうのかと思えば……おかしなことをいうんだな。母さんはさ」
彼は、図星を衝かれて、しどろもどろになってしまうのを自覚しながらも、奏恵の考えを否定した。
奏恵の真っ直ぐすぎる視線から目を逸らし、伊佐那家本邸の庭園を見遣る。
夏の正午過ぎ。
太陽は高く、頭上には雲一つ見当たらない。突き抜けるような青空がそこにあって、熱を帯びた風が敷地内に入り込んできては、冷風へと変化し、頬を撫で、通り過ぎていく。
伊佐那家本邸の各所に設置された魔機が、気温を調整してくれているのだ。
そのおかげで、この八月下旬の猛暑日を健やかに過ごすことができている。
そのわりには、平常心ではいられないような状態なのが、彼にとっては困りものなのだが。
「幸多みたい?」
「え?」
「よく、おかしなことをいっていたのよ。小さい頃の幸多」
想わず奏恵を見れば、幸多の母もまた、庭園に目を向けていた。風に揺れる木々と池の水面に浮かぶ波紋が、どこか爽やかさを感じさせる。
「小さい頃……そう、本当に小さい頃の幸多は幸多は、わたしと幸星さんのいうことを聞いてくれなかったのよ」
(うん。それは、覚えてる)
彼は、幼い頃の幸多のことを思い出そうとして、胸がちくりと痛むのを認めた。
それは決して遠い記憶ではない。
十年と少し前の記憶。
統魔と出逢う、少し前までの想い出たち。
「幸多は、あの子は、生まれながらの魔法不能者だったでしょ。しかも、完全無能者なんていう稀有な存在だった。この魔法社会に生まれて、その事実を受け入れることがどれだけ難しいことか、わたしたちには想像もつかなかった。けれども、幸多が一生魔法を使えないという事実は受け入れなくちゃならなかったし、生まれてくれただけで、生きていてくれるだけで、それだけで本当に幸福だったのよね」
(それも……わかるかな)
彼は、奏恵がもはや自分を幸多とは認識していないことを実感しながら、彼女の幸多への愛情の深さに感じ入るような気分だった。
幸多は、なにも持たずに生まれた。
誰もが生まれ持つ魔法の才能だけでなく、あらゆる生物、あらゆる物質、非物質にすら宿るはずの魔素すらも、一切、持っていなかった。
けれども、愛された。
両親と親類縁者の愛情だけは、たっぷりと、幸多一人に注ぎ込まれたのだ。
皆代家の祖父母も、長沢家の祖父母も、初孫の幸多のことを目一杯可愛がってくれたし、奏恵の姉妹も幸星の兄弟も幸多を本当に愛してくれていた。
愛が、幸多を護ってくれたのだ。
幸多が、他人に惜しみなく愛情を注ぎ込める人間に育ったのは、紛れもなく、そうした周囲の膨大な愛のおかげだ。
愛がなければ、幸多の人生は、もっと暗く重いものになっていたのではないか。
そんな風に、彼は考えることがある。
子供のころは、わからなかった。
結局、彼の頭脳も精神も、幸多と一緒に成長し、発達するしかないのだから、仕方のないことだった。
そして、成人年齢に達すると、この現代魔法社会の構造が見え始めた。
そうすると、魔法不能者というのが、いかにこの社会で生きにくいのか、というのが理解できるようになった。
完全無能者ならば、尚更だろう。
魔法が一切使えないというだけでなく、魔法の恩恵を受けることすらほとんどできないのが、幸多なのだ。
物心ついたばかりの幸多には、納得できなかったとしても、致し方のないことだ。
子供に全てを理解し、受け入れろというのは、酷な話だろう。
「でも、幸多はそうじゃなかった。そりゃそうでしょうね。誰もが魔法を使えるのが、この魔法時代から続く現代社会における常識だもの。自分だって魔法が使えて当然だって想うのは、当然だった」
「うん……」
彼は、奏恵の述懐に頷くしかない。
奏恵が思い描いているのは、子供のころの幸多のことだ。
幸多がどのように生まれ落ち、どのように成長し、どのように暴れ回り、どのように周囲に迷惑を振り撒いたのか、彼には、自分のことのようにわかっていたし、即座に思い出すことができた。
幸多が記憶の奥底に封印している想い出を紐解くのは、彼には簡単なことなのだ。
幸多の記憶を封印したのもまた、彼なのだから。
手痛い失敗や、両親や周囲の人々を大変困らせるような大事件を引き起こしたような記憶。
そうした記憶は、時として、幸多の成長の妨げになりかねない。
だから、封印する。
幸多には、使命がある。
この世に生まれ落ちたのは、偶然などではない。
定められた使命があり、そのためには、生きていかなければならないし、相応に成長してもらわなければならない。
彼らは、そのためにこそ、存在する。
「でも、いえ、だから……わたしと幸星さんは、幸多の手本になろうとしたのよ。魔法を使わなくても生きていけることを証明しようとしたの」
奏恵の独白は、彼にはとっくに知っていたことだった。
それでも、奏恵本人の口から説明されると、得も言われぬ幸福感があった。
幸多が愛されている。
その事実が、彼には幸せなのだ。