第六百四十八話 彼について(四)
幸多を乗せた義一の法機が伊佐那家本邸に辿り着けば、既に夏合宿の訓練が始まっている時間帯だった。
上空からでもわかったのは、参加者たちが伊佐那家本邸の広い広い敷地内を走り回っていたからである。
九十九真白、黒乃、金田朝子、友美、菖蒲坂隆司の五人だ。
いずれも戦団印の運動服を身につけ、大汗を流しながら、教官に追い立てられるように走り回っている。
伊佐那家本邸の敷地は、広い。とにかく広い。その広い敷地内を、この八月中、合同訓練の場として相応しく大きく作り替えられており、起伏に富んだ地形が母屋や道場を取り囲んでいた。
美由理が、この合宿中に考案した訓練用競走路である。
それまではなんの変哲もない、起伏もなければ変化もない、ありふれた景観だった。障害物など一切ない、塀の内周を走り回り続けることを訓練としていた。
それだけでは訓練にならないのではないかと考えた美由理は、麒麟に許可を取り、大規模な工事を行った。
その結果、伊佐那本邸の外周部を駆け巡る複雑怪奇な競走場と化したのである。
その競走路を駆け回っているのが、義一と幸多を除く五人であり、その最後尾を法機に跨がって涼しい顔で追いかけているのは、臨時教官として派遣された第七軍団杖長・躑躅野莉華である。
躑躅野莉華は、その名からわかるとおり、第九軍団・味泥小隊の一員である躑躅野南の年の離れた姉妹だ。似ても似つかない容貌と性格の持ち主ということだったが、幸多にはよくわからない。
躑躅野莉華は、赤黒い髪をミディアムショートにし、若葉色の瞳を持つ、どうにも暗い印象の消えない女だ。運動服ではなく導衣を纏い、法機に跨がって訓練生たちを追い立てる様は、鬼教官の様相を呈している。
「大変なときに帰ってきちゃったかも」
「まあ、いいんじゃないかな」
彼は、そういって法機から飛び降りると、転身機を作動した。運動服も転身機に登録してあり、一瞬して運動服に着替えた彼は、競走路に降り立つなり、全速力で駆け出した。
「相変わらず疾いなあ」
義一は、幸多の脚力と速度、そして全力ぶりに、彼がとんでもない重傷を負ったという報せが嘘だったのではないかと思えてならないほどだった。
幸多は、最後尾の躑躅野莉華を追い抜きながら挨拶すると、さすがの杖長も度肝を抜かれたようで、危うく法機から落下しかけていた。
さらにそのまま訓練生たちに追い着けば、彼が追い抜く度に隣の導士が愕然としたようだった。
皆、義一が幸多を迎えに行ったことは知っていたが、まさか、帰ってくるなり訓練に参加するとは思ってもみなかったのだ。
「おいおい、大丈夫なのかよ!?」
「重傷だってきいたけど!?」
「無理しちゃ駄目だよ!?」
「いくら頑丈だっていってもさ!?」
「わかってんのか!?」
三者三様ならぬ五者五用の反応を見せる訓練生たちをごぼう抜きに抜き去った彼は、風を切る感覚を久々に実感したのだった。
何十時間、何百時間もの間、繰り返される時の中に閉じ込められていたという感覚があるが、それ以上の長い年月を感じている。
その繰り返される時の中であっても、幸多は風を切るように戦ってはいた。
しかし、あの空間に開放感などはなかったし、自由もなにもあったものではなかった。
いまは、自由だ。
自由すぎてどうにかなるのではないかというくらいの、感覚。
実際、このままではどうにかなってしまうのは間違いない。
わかりきっている。
だから、なんとかしなければならないのだが、なんともならないこともまた、彼は確信していた。
だから、いまは、訓練に身を投じるしかないのだ。
午前の訓練を終えれば、昼食が待っている。
今日の昼食は、幸多の母、奏恵が手によりをかけて作ってくれたものだった。
もちろん、伊佐那家には専属の料理人もいて、常日頃から腕を振るっているのだが、幸多が退院してきた今日だけは自分の手で我が子の好きな料理を作りたい、という奏恵の願望を叶えることとなったのだ。
そして、料理人たちが手伝ってくれたことによって、奏恵は、人数分の料理を用意することができたというわけである。
幸多の好物といえば、鶏の唐揚げだ。
魔法を駆使することによって揚げたて、出来たての状態を長時間維持することができるのもまた、魔法社会の利点だろう。
彼は、食卓に並んだ数々の料理の中でも、やはり、山盛りの唐揚げに目を付け、真っ先に手を伸ばしたが、それは、そうするのが自分らしいと考えてのことだった。
皆代幸多ならば、必ずやそうするだろう。
それも、大量に手元の皿に取り寄せるに違いない。
食い意地だけは人一倍あるのが、幸多という人間だった。
それを知っているから、彼もそうするのだ。
そして、賑やかで豪華すぎる昼食の時間は、あっという間に過ぎ去っていった。嵐のような時間だった。我先にと料理を取り合うことになったのは、九十九兄弟という競走相手がいたからだ。
九十九兄弟は、奏恵に懐いている。奏恵を本当の母親のように想っているようであり、奏恵もそんな二人が可愛くて仕方がないらしかった。
幸多が嫉妬するのもわからないではない。
だから、九十九兄弟は、奏恵の手料理と聞いた瞬間目の色を変えたのだろうし、普段とは比べものにならないほどに食べまくったようだった。
結果、九十九兄弟は、満腹過ぎて動けないといった有り様だ。
そんな様子を横目に見た幸多だったが、いまは、一人、縁側に腰を下ろしていた。午後の訓練までは、多少、時間がある。
風鈴が、涼やかな音を響かせている。
屋敷内を通り抜ける風は、夏の熱気とは無縁なほどに涼しく、柔らかい。
「お帰りなさい、幸多」
「あ、ああ、ただいま、母さん」
幸多は、危うくどもりかけたものの、すぐさま反応して、奏恵を振り返った。
すると、幸多の隣に腰を下ろした奏恵が、彼の顔を覗き込むようにしてきた。母の顔が、目の前にある。
相変わらず、美人だった。
望実、奏恵、珠恵の三姉妹は、昔から美人三姉妹で知られていたし、有数の魔法士としても知られていたという。
そんな三姉妹の一人から、幸多のような魔法不能者が生まれることの複雑さについては、彼も考えることがある。
致し方のない、覆しようのない事実なのだとしても、だ。
もし、幸多が魔法士として生まれ落ちていたのならば、奏恵の人生は大きく変わっていたに違いない。
そればかりは、疑いようのないことだ。
時折、幸多がそのことで心苦しく想っていることも、知っている。
もし自分が生まれてこなければ、などと考えていた時期もあったほどだ。
魔法社会において、魔法不能者の子供を抱えることほど苦しいことはない。
それは、成長するにつれて、理解していった。
「なにを……考えているのかしら?」
奏恵が、幸多の褐色の瞳の奥を覗き込みながら、質問した。
幸多は、最愛の我が子だ。血を分けたたった一人の息子。もちろん、統魔にも同じだけの愛情を注いでいるという自信はあるが、それはそれとして、幸多のことは、彼以上に考えなければならないことが多かった。
幸多は、普通の子供では、ない。
決して。
断じて。
だから、奏恵も、彼女の夫の幸星も、幸多から目を離すまいとしていたし、だからこそ、最悪の事態を免れることができたに違いないという自負もあった。
「母さんこそ……」
「わたしは、あなたのことを考えているわよ」
奏恵が、当然のように言い切ると、幸多がバツの悪そうな顔で視線を背けた。
縁側から見えるのは、広々とした敷地内に作り上げられた庭園であり、その向こう側に横たわる競走路である。その複雑極まりない形状をした競走路を先程まで走り回っていて、おかげで誰もが疲労困憊という有り様だった。
彼ですら疲れているのは、久々に全力を出したからだ。
結果、何周も先回りすることとなり、杖長・躑躅野莉華に呆れられる羽目になった。
「あなたは、誰なのか。そのことをずっと考えているの」
「え……?」
彼は、奏恵の核心を突くような一言にぎくりとした。
夏の風が、伊佐那家本邸の庭園を駆け抜けていく。
風鈴が、鳴った。




