第六百四十話 ただ、きみのためにできることを
幸多は、突如、なんの前触れもなく時間が静止したのを実感した。
空も雲も風も、周囲にいる人達も、誰も彼もが動きを止める中で、愛理の発する虹色の光だけが相変わらず激しく輝いていて、光の中の愛理もまた、幸多に助けを求めていた。
なにが起こったのか、幸多にはわかった。
師が、美由理が、星象現界・月黄泉を発動させたのだ。
その原因もわかっている。
〈時の檻〉が失われたことで自由になった雷光の柱が、他にも存在していた雷光の柱とともに戦団本部へ向かって飛んでいくのを目の当たりにしているのだ。
そして、それらが空中で合流し、天を衝くほどの巨体を誇る雷光の怪物が誕生したのが、幸多の居場所からでもはっきりとわかった。
それが禍御雷に仕組まれた機能だということも、マモンがそれを意図していたということも、想像がつく。
マモンは、鏡磨が蘇生したことを予定外のものだといい、鏡磨自体を速やかに処分した。
禍御雷は、死んでこそ意味があるのだ、と。
事実、全ての禍御雷が死ぬことによって、とてつもない巨体を誇る幻魔が誕生したのだ。
しかも、戦団本部に、だ。
そのまま戦団本部で暴れ回れば、いくら星将たちがいるとはいえ、大打撃を食らいかねない。
だから、美由理は、月黄泉を発動した。
静止した時の中では、美由理と幸多を除く何者も動けないからだ。
(いや……)
幸多は、凍り付いた時の中であっても、幸多に向かって必死になって手を伸ばそうとする少女を見て、考えを改めた。
愛理も、静止した時間の中を動き回れるのだ。
おそらく、彼女もまた、時空に干渉する星象現界を発動しているからこそ、だろうが。
やがて、時が再び流れ始めた。
すると、雷光の巨人が一瞬にして氷漬けになって消し飛んだのが、なんとはなしにわかった。美由理の全力の攻型魔法が、真の禍御雷を撃滅したのだ。
幸多は、そこに美由理の意地を見た。導士たるものかくあるべし、と、無言で語りかけてきているような、そんな気さえした。
幸多ならば月黄泉の発動を理解し、己の戦いを見届けるに違いないと確信しているのではないか。
そして、その確信は間違いではない。
幸多は、美由理の戦いを見届けた。
遥か南方、大社山を超え、空白地帯をも越えた向こう側で繰り広げられたのだろう戦団本部の戦いを、感覚だけで把握した。
時間の静止と解除、雷の巨人の消滅によって、美由理がなにかを伝えたかったのではないか、と思えてならなかった。
言葉では伝えられないこと。
言葉だけでは、伝わらないこと。
幸多は、愛理に向き直った。
愛理の全身から放たれる光は、ますます強く、激しくなっている。全周囲の空間が歪み、彼女の姿そのものが希薄になり、光の中に溶けかかっているようだった。
もはや、彼女の力の暴走を止めることはできない。
幸多は、魔法使いではない。
彼女の力を抑え込むことなどできるわけがなかった。だが。
「愛理ちゃん。きみの力は、きっと、時間や空間に作用するものなんだと思う。とんでもない魔法だ。それこそ、師匠に匹敵するか、それ以上の」
「お兄ちゃん?」
愛理は、幸多が突然言い出してきたことに困惑を隠せなかった。
「きみが魔法を制御できなかったのは、たぶん、その大きすぎる力が原因だったんだ。時間も空間も自由自在に操り、支配する、神様みたいな力。馬鹿げたほどに巨大すぎる力だ。きみほどの才能と実力があっても、制御できなくて当然だったんだ」
幸多は、愛理の目を真っ直ぐに見つめた。白銀の虹彩、その内側に光が、〈星〉が瞬いている。星象現界が発動しているのだ。そしてその星象現界こそが〈時の檻〉であり、いままさに愛理自身を飲み込もうとしている虹色の光に違いなかった。
愛理の足や肩の一部が光の中に溶けて消えた。
幸多は、愛理が伸ばしてきた手に、自分の手を重ねた。握り締めても空を切るが、構わない。
重要なのは、伝えることだ。
言葉では伝えられないこともある。伝わらないこともある。
行動でしか、伝えられないことだって、あるのだ。
「愛理ちゃん。これからきみになにが起きるのか、ぼくには想像もつかない。でも、きみになにが起こったとしても、これから先、なにが待ち受けているのだとしても、ぼくは必ず、きみを助けに行く。これは約束だ。絶対だ」
「お兄ちゃん……」
愛理は、幸多の手を握り返そうとして、指先から光の中に溶け始めていることに気づいた。自分の力が暴走している。その暴走が自分を消し去ろうとしているのか、それとも、幸多のいうように、神様のような力を発揮しようとしているのか、想像もつかない。
けれども、愛理は、幸多の目を見るだけで、不安が吹き飛ぶのだ。
愛理には、魔法使いがいる。
愛理をあらゆる困難や苦悩から救ってくれる、この世界で最高の魔法使い。
その彼が約束してくれたのだ。
なにも恐れることはない。
「うん……! 待ってる……! 愛理、お兄ちゃんのことずっと信じて待ってるから、だから――」
愛理の全身が虹色の光の中に解けて消えると、その声の余韻すらも残さずに消えてしまった。
当然のように虹色の光も消えて失せ、空間の歪みも、時間の異常も、なにもかもが正常化していくのがわかる。
幸多が身につけていたものも、元通りだ。元の通り、ぼろぼろの闘衣である。
なにひとつ異変はない。
少なくとも、愛理の星象現界によってもたらされた異変は、全て、元の状態に戻っていた。つまり、出雲遊園地は壊滅状態のままだということだが。
そして、幸多は、愛理のいなくなった虚空を見つめたまま、立ち尽くしていた。
「お、おい、だ、だいじょうぶ……か?」
「大丈夫なわけないと思いますが」
「そりゃあそうだけど……よお……」
音波空護は、立ち尽くす幸多に真っ先に駆け寄ると、茫然とする彼に声をかけたものの、反応がないためにどうすればいいものかと困惑した。部下の意見もわかる。
あれだけの死闘を潜り抜けて、まったくの無傷だとは思えなかったし、なにより彼は完全無能者だ。魔法による治療が不可能であり、負傷しているのであれば、自然治癒に任せるか、医療処置を受けるしかない。
状況は、終了した。
少なくとも、空護にはそう思えた。
出雲遊園地を取り巻く幻魔災害は、禍御雷・天燎鏡磨の死亡と、機械型幻魔の殲滅、マモンの消失、サタンの撤退によって終了したのだ。
いや、砂部愛理の消失が最後だったか。
空護がそんなことを考えていると、杖長たちが駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 幸多くん!」
「無事か! 皆代閃士!」
火水と風土は、壊滅状態の園内を駆け抜け、やっとの思いで幸多の元にやってきたのだ。
二人とも、精も根も尽き果てている。
長時間に及ぶ星象現界の酷使が、その消耗の最大の要因である。
もし、それさえなければ、もう早く駆けつけられただろうが。
「幸多……くん?」
火水は、虚空に手を差し出したまま微動だにしない幸多の前方に回り込むと、その顔を覗き込んだ。
それによって判明したのは、幸多が、立ったまま気を失っていたということであり、火水は、速やかに幸多を出雲基地に運び込む手配をしたのだった。
壊滅状態の出雲遊園地については、いまこの場にいる導士たちだけでどうにかなるような問題ではなかった。
機械型幻魔の死骸が大量に転がっていることもあれば、遊園地の関連施設が倒壊しまくっているという事実もある。
なにもかもが破壊され尽くしていて、原型を保っているものは何一つなかった。
幻災隊のみならず、復旧業者の手配も必要だろう。
風土は、火水が幸多を心配するあまり、大慌てで搬送の準備をする様を横目に見ながら、出雲遊園地がしばらくもすれば元通りになるのだろうということを想像して、なんともいえない気分になった。
魔法社会は、深く負ったはずの傷痕をあっという間に覆い隠してしまう。
これだけの損害を受け、多数の負傷者が出たというのに、数日後にはなかったことになるのだ。
それは、いいことなのか、悪いことなのか。
風土には、わからない。
ただ一つ言えることがあるとすれば、ここに皆代幸多がいてくれて良かった、ということだけだ。
彼がいなければ、なにも解決しないまま、永久に同じ時間が繰り返されたのではないか。
あるいは、砂部愛理がどこかへと消え去るまでに風土も火水も導士たちも皆殺しにされただけで終わったのではないか。
どちらにせよ、最悪の結果に終わったに違いない。
幸多がいたからこそ、状況は好転した。
それだけは、確かなことだ。