第六百三十八話 特異点(四十二)
幸多は、愛理に向かって走った。
愛理の暴走は、収まっていない。それどころか、マモンとの戦闘中にも加速し続けているような有り様だった。
彼女が内包していた莫大な星神力が、虹色の光となって放出され続けているのだ。乱反射する虹色の光が、触れるもの全てを分解し、あるいは改変している。
過去、現在、そして未来が、〈時の檻〉の中で交錯しているのだが、それを為しているのが、愛理の光であり、彼女の力なのだろう。
愛理の星象現界。
それは、マモンすらも敵わないものであり、サタンですら手を出そうとしないものだった。
そう、あのサタンがなにもしないのだ。
そのことが不思議だったが、特異点に手を出さないというサタン自身の方針に従ったまでのことなのかもしれない。
いずれにせよ、幸多は、サタンのおかげで愛理に意識を向けることができた。癪に障るが、いまは、感謝するしかない。
愛理が、虹色の光の中心で、足掻き続けている。
助けを求めているのだ。
それを放置して、復讐心に駆られ、サタンに挑みかかるなど、言語道断だった。
いまになって自分が許せなくなってくる。
サタンに立ち向かったところでどうにもならないことを誰よりも理解しているはずなのに、心も体も、動いてしまうのだ。
これでは、以前と同じだ。周囲に迷惑をかけるだけの愚か者に過ぎない。
散々学び、散々教わり、散々理解したはずではないか。
自分が如何に脆弱な存在であり、サタンが如何に凶悪な存在なのか。
それがわかっていてなお挑みかかろうというのは、無謀どころの話ではない。
(ぼくは……なにを……!)
幸多は、拳を握り締め、歯噛みして、大地を蹴った。愛理の元へと一直線に突き進む。
邪魔するものはなにもなかった。
時空をねじ曲げる虹色の光も、幸多にはなんの影響も及ぼさないのだ。
武装を強制的に転送させ、闘衣を私服へと置き換えてしまったが、そんなことは問題にはならない。幸多の肉体には、なんの影響もないのだ。
だから、幸多の足は止まらなかったし、愛理の目の前まで一瞬で辿り着けたのだ。
ほかの誰にも同じことはできなかったに違いない。
もっとも、そんなことはどうでもいいことだ。
大切なのは、愛理を助けることだ。救うことだ。暴走を終わらせることだ。
「愛理ちゃん! ごめん!」
「お兄ちゃん?」
愛理は、きょとんとした。
肩で息をするほどの全速力を出し、眼下にまでやってきた幸多が突然頭を下げて謝ってきたのだ。愛理には、意味がわからなかった。だが、幸多の謝罪は続く。
「愛理ちゃんを助けるって約束したのに、ぼくは、あいつらに気を取られてしまったんだ!」
「お兄ちゃん……」
愛理は、彼がなにを謝ってきたのかを理解して、そんなことか、と想った。苦笑する。同時に、想いが溢れ出そうになった。
幸多のそんな素直なところが大好きだった。
自分に正直で、嘘をつくのが下手で、真っ直ぐ過ぎる余りに周囲とぶつかることも少なくなさそうな、どうにも生きにくそうな性格の持ち主。
太陽のように眩しくて、いつだって光り輝いている。
だから、幸多は、愛理にとっての魔法使いなのだ。
幸多は、いつだって、愛理の行く先を指し示してくれる気がした。
「でも、もう大丈夫!」
なにが大丈夫なのか。
幸多は、自分でも無責任な発言だと想わないではなかった。だが、愛理を心配させたくなかったし、不安がらせるわけにもいかなかったから、声を励まして断言するしかない。
「ぼくが愛理ちゃんを助ける!」
「お兄ちゃん……!」
愛理は、幸多が顔を上げ、伸ばしてきた手に向かって、自分自身の手を伸ばした。
愛理の全身が光を放ち続けている。
虹色の光。
時間と空間をねじ曲げ、過去と現在、そして未来を交錯させる時空魔法。愛理の周囲に無数の律像が渦巻いているが、幸多の目には見えない。幸多の目に映るのは、愛理であり、愛理が放つ虹色の光だ。その光によって時空が歪んでいることは理解しているが、関係なかった。
幸多にできることといえば、一つしかない。
愛理の手を掴み取ることだけだった。
掴み取り、握り締め、引き寄せる。
それだけのことしかできない。
幸多は、魔法士ではない。魔法を使うことのできない魔法不能者であり、魔素を内包しない完全無能者なのだ。
だから、できることには限りが有り、それだけでは解決できないことばかりだということも、理解している。
十六年、生きてきたのだ。
この不自由極まりない、けれども莫大な生命力を宿した肉体で、生きてきた。
だから、この体でできることとできないこと、助けられるものと助けられないもの、救えるものと救えないものの区別はついた。
愛理は――。
「お兄ちゃんっ……!」
愛理の絶叫が、幸多の耳に突き刺さった。鼓膜を突き抜け、脳髄に刻まれるのではないかというほどの叫び声だった。
抱き寄せたはずの愛理の体が、幸多の体を擦り抜けたのだ。
幸多は、透かさず背後に向き直り、愛理の体が光を放ちながら浮かび上がる様を見た。手を伸ばし、愛理を掴もうとするも、幸多の手は、彼女の体を擦り抜けてしまう。
虹色の光が散乱し、幸多の体に触れてはその身を包むものを変えていく。闘衣、銃王、武神、護将、見知らぬ鎧套、闘衣、私服、寝間着――様々な変化は、時空の乱れを実感させた。
「助け――助けてっ!?」
「愛理ちゃん!」
幸多の目には、愛理が混乱しているのが見て取れていた。莫大な星神力が、彼女の全身から溢れたかと想えば、その小さな体へと収斂していくのがわかる。
ふと見上げれば、遥か頭上にあったはずの虹色の結界が目前に迫っていた。
結界そのものが収縮をし始めている。
〈時の檻〉が、術者の元へと、愛理の元へと還ろうとしているかのようだった。
「暴走が……収まる……?」
「いや、違う」
火水と風土は、周囲の時空の乱れが収まっていくのを肌で実感しながらも、それが愛理の暴走の終息ではないこともまた、理解しなければならなかった。
愛理の全周囲に並の星象現界とは比較にならないほどの密度の律像が浮かんでおり、彼女が放つ虹色の光もまた、その激しさを増していた。
周囲の時空が歪み続けており、加速度的に変化が起こり続けている。
激変に次ぐ激変。
まさに混沌そのものがそこに具現しているようだった。
やがて、〈時の檻〉が完全に愛理と一体化すると、彼女の放つ光は、柱の如く聳え立った。
巨大な虹の光の柱。
天をも貫き、宇宙へ至る。
「愛理ちゃん!」
幸多は、叫ぶことしかできない自分にもどかしさを感じながら、彼女に向かって手を伸ばす。光の柱の狭間、愛理は、助けを求めて喘いでいた。幸多に向かって手を伸ばしても、届かない。届いたとしても空を切ってしまう。
どうにもならない。
(どうしたらいいんだ……? ぼくになにができる? どうすれば、愛理ちゃんを助けられるんだ?)
幸多は、愛理だけを見つめ、愛理のことだけを考えていた。
だから、いままさに周囲で起こっている異常事態に気づきようがなかったのだ。
「お、おい! あれっ!?」
「雷の柱が……!」
叫んだのは、ハイパーソニック小隊の導士たちである。
天燎鏡磨の死骸から立ち上りながらも、虹色の結界によって阻まれていた雷光の柱が、〈時の檻〉の消滅とともにその本懐を遂げようとしていた。
見れば、雷光の柱は、出雲遊園地の外にも七本、天高く聳えていることがわかる。
それらが遥か上空で折れ曲がると、一点へと集まっていく。
雷光の向かう先は、葦原市――戦団本部。
しかし、幸多は、そんなことは、どうでもいいとさえ想っていた。
マモンが禍御雷に仕込んだのであろう雷光の柱が集まることによって起きる異変など、今目の前で起きている出来事に比べれば、些末なことに違いない。
このままでは愛理を救えない。
そのことのほうが、余程、大事だ。