第六百三十六話 特異点(四十)
マモンは、全身をのたうち回るような痛みの中で、空から地上へと落下していく中で、幸多だけを見ていた。幸多の全身が青白い燐光を帯びているように見える。気のせいなどではあるまい。確かに彼は全身から青白い燐光を発していた。
それがなんなのか、正確なことはなにもわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
幸多がマモンに痛撃を叩き込むことができたのは、紛れもなくその力のおかげだということだ。
体中、あらゆる部位が、あらゆる箇所が、悲鳴を上げている。復元できない。再生できない。直らない。
このままでは、幸多にこそ、斃されかねないと思うほどの状態だった。
絶体絶命の窮地。
(馬鹿げてる)
マモンは、幸多が先に地面に降り立ち、こちらを見上げて構える様を見た。幸多には、傷一つ見当たらない。満身創痍なのはこちらの方であり、それがあまりにもありえない状況だからこそ、だろう。
マモンは、闇を視た。
この虹色の結界に覆われ、虹色の光が乱舞する領域にあって、それは異様としか言いようのない存在感を放っていた。凄まじい重力を感じたし、圧力もあった。一瞬にして押し潰され、消滅してしまうのではないかという感覚。
そしてそれは、マモンの勘違いなどではなかった。
マモンの視界の真ん中で、その闇は、静かに広がりを見えた。黒衣が揺らめき、黒い太陽が出現する。
黒い後光。
その先に闇の翼が大きく広がれば、黒衣の奥に赤黒い双眸が煌めいたのだ。
サタンの降臨である。
「ああ……」
マモンは、思わず声を上げたが、もう遅すぎたのだと理解した。
この場にサタン自らが出向いてきたということは、マモンを処断するため以外には考えられない。マモンの身勝手な行動を許しては、他の悪魔たちに示しがつかないからだ。
サタンは、悪魔の王だ。
絶対者なのだ。
だから、ここにいる。
でなければ、サタン自らがこんな場所まで足を運んでくるわけがない。
サタンの行動には、全て、理由がある。
「サタン様――」
しかし、マモンは、赦しを請おうなどとは想わなかった。
ただ、本能の赴くままに行動した結果がこれなのだ。
疑問には解が必要であり、解を求め続けた結果がこのザマならば、致し方があるまい。
そして、だからといって、サタンに逆らうつもりもなかった。
元より、自分はサタンの計画のための存在であり、サタンによって存在意義を与えられたものに過ぎない。
サタンが不要と判断したのであれば、それまでのことだ。
ただ一つ、無念なことがあるとすれば。
(後少し、だったのにね)
マモンは、虹色の光を放ち続ける少女を見遣り、そこで彼の意識は途絶えた。
「あれは……」
幸多は、前方上空に出現した黒点に目を奪われた。
それは、最初、ただの黒い点だった。
地上に降り立った幸多と落下中のマモンの間に出現した、黒点。
だが、次第に大きくなると、黒衣であることがわかった。背後に黒い光の輪が出現し、闇の翼が広がりを見せれば、それが何者なのか、瞬時に理解できる。
血の気が引くような感覚と全身総毛立つような感覚が鬩ぎ合い、頭の中に混乱が膨張する。
「サタン!?」
「サタンだと!?」
火水や風土が悲鳴を上げるのも無理からぬことだったし、導士たちが混乱に陥るのも道理としか言い様がなかった。
悪魔一体ですら敵う相手ではないというのに、そこに〈七悪〉の首魁が加わったのだ。
絶望的としか言い様がない。
そんな矢先だった。
サタンがわずかに身動ぎしたかと思うと、マモンの体が吹き飛んでいた。
「え?」
幸多は、サタンの黒衣が揺らめく向こう側で、マモンが吹き飛ばされていく光景を目の当たりにして、愕然とした。
黒い太陽の向こう側で、マモンの小さな体が爆ぜ、粉々に砕け散っていくのだ。
サタンがなにかをしたのは、疑いようがなかった。
サタン。
〈七悪〉の首魁にして、〈憤怒〉を司る悪魔。
多数の鬼級幻魔を率いる、幻魔の中の幻魔。
特別指定幻魔壱号。
「幸多くん!?」
「これは……!?」
「わかりません! これは……サタンが出現するのは、今回が初めてなんです!」
幸多は、火水と風土の悲鳴にも似た疑問に対し、大声で返答した。
新事態。
状況は、一変した。
無限に近く繰り返されてきたかのような〈時の檻〉は、愛理が暴走する中で、終点を確かに大きくずらしていた。それが故に、サタンが現れる事態へと発展したのだろうが、だとすれば、なぜ、こうなったのか。
なぜ、サタンが現れ、マモンを攻撃したのか。
マモンを滅ぼしたのか。
幸多には、まるで理解できなかった。幸多だけではあるまい。この場にいる全員が、この状況を説明できないだろう。
「マモンは……幸多くんがやったのよね……?」
火水が幸多に一応確認したのは、そうでなければ信じられない光景だったからにほかならない。
「いえ……あれはきっと、サタンがやったんだと思います」
幸多は、拳を握り直しながら、サタンを睨んだ。マモンの肉体は、もはや跡形もなく消え失せていて、死骸すら残っていない。
幸多が考えるのは、マモンのことではない。
サタンのことだ。
サタンは、この拳で殴りつけられるのかということである。
マモンには、届いた。通用した。痛撃となった。だが、サタンは、どうか。
幸多がマモンを殴りつけたのは、無意識的な反応に過ぎない。
体が、動いた。
気がついたときには殴りつけていたのだ。
そして、それが無意味ではないということを身を以て理解した。
なぜなのかは、わからない。
普通、幻魔の肉体たる魔晶体を殴りつけた場合、幸多の拳にこそ大打撃を受けるものだ。魔晶体は、堅牢強固な外骨格であり、通常兵器で傷つけることなどできなければ、当然、拳で殴りつけてどうにかなるようなものではない。
下位獣級幻魔ガルムの魔晶体ですら、幸多の打撃ではどうにもならないほどなのだ。
鬼級幻魔であるマモンの魔晶体ならば、なおさらだ。
だが、通用した。
それどころか、マモンの顔面を変形させ、腹を突き破りかけるほどの痛撃となった。
直撃の瞬間、幸多の拳とマモンの魔晶体の間で青白い燐光が生じ、火花が散ったのは覚えている。そして、確かな手応えを感じてもいた。
いまの自分ならば、マモンと殴り合うことができる。
理由は、わからない。
いや、きっと――。
(ドミニオン……)
幸多は、光となって消えた天使のことを想った。粒子状になって消えていく天使が、幸多に残してくれた力。
あの白銀の左腕の力。
そうとしか、考えられない。
「そう……よね。確認したかったの……よ」
火水が、肩で呼吸をしながら、いった。彼女が消耗し尽くしているのは、見ずともわかった。長時間に渡って星象現界を駆使してきたのだ。いまも意識を保っていられるだけで凄まじいというほかない。
そして、だからこそ、幸多は、マモンに専念できたのだ。
「でも、マモンですら手一杯だったってのに、よりによってサタンが、どうして……?」
「落ち着け。いま、サタンがしたことを考えるんだ。サタンはなにをした?」
「なにをって……マモンを吹き飛ばした……?」
「そうだ。奴の目的は、マモンを処断することなんじゃないのか?」
「なんで?」
「そんなこと、知るものか」
風土が火水の当然の疑問に対して、吐き捨てるようにいった。風土にしてみても、当たり前の回答だっただろう。
サタンの考えなど、風土にわかるわけもない。
突然この場に現れ、本来、配下であり貴重な戦力であるはずの悪魔を消滅させてしまったのだ。
そこにどんな理由があるのかなど、想像しようもない。
だが、幸多には、思い当たる節があった。
マモンの言葉だ。
「特異点」
「え?」
「特異点か。きみと、あの子のことだな?」
風土は、呆然とする火水よりも、冷静に幸多に問うた。風土も消耗し尽くしていたが、まだ多少、頭が回った。
「ええと……マモンがいっていたんです。特異点には手を出してはならないとサタンから厳命されていた、と。だからぼくは殺せないともいっていました」
「うん?」
「……つまり、マモンは、きみや砂部さんに手を出したから、サタンに処断された……と?」
「はい。おそらく、ですが」
幸多は、風土の推測を肯定すると、サタンが上空から眼下を見渡す様を見遣った。
サタンの全身を覆う黒衣は、さながら影のように悪魔の体に絡みつき、目深に被ったフードからは紅い光が漏れている。幻魔特有の禍々《まがまが》しく赤黒い双眸。背からは黒い翼が生えており、その後ろに黒い光の輪が浮かんでいるのだ。
それはさながら黒い日輪のようであり、放たれる黒い光が、サタンの顔を影に隠しているようだった。
《御明察》
サタンの声が、幸多たちの脳裏に響いた。
赤黒い光を放つ双眸が、幸多たちを見下ろす。邪悪の権化としか言いようのない眼差しであり、幸多は、それだけで気圧される感覚を覚えた。凄まじい重圧だった。その場に立っていることすら億劫になるほどの、圧力。
すぐにでも逃げ出したい。けれども、逃げられるわけがないという強迫観念。
「え?」
「なんだ?」
火水と風土が、愕然としたようにして顔を見合わせた。
幸多には、二人の反応の理由が理解できた。以前、闇の世界で聞いたサタンの声とは明らかに異なる代物だったのだ。そして、幸多の脳内に記憶されたサタンの声は、戦団技術局によって解析され、導士たちに共有されている。
だから、火水と風土も疑問を持ったに違いない。
「その声、本当にサタンなのか?」
《それ以外のなにに見えるのかな?》
脳内に響くという点では同じだったし、凄まじい重圧を感じるというのも変わらないのだが、声といい、口調といい、以前のサタンとは別人のように幸多には思えてならなかった。
サタンとは、まさに悪魔の権化のような存在だった。
おどろおどろしく、威厳に満ち、冷酷無比であり、凶悪極まりない、そんな怪物染みた声色だったし、口調だったはずだ。
しかし、今目の前にいるサタンは、昔ながらの知り合いのような気安さで話しかけてきている。
《ぼくはサタン。〈七悪〉を一柱にして、〈憤怒〉を司るもの》
サタンは、そのように名乗り、幸多たちを見下ろすのだ。
だから、だろう。
「サタン」
幸多は、我知らず飛び出していた。
「幸多くん!?」
「止めろ! 引き返せ!」
火水と風土が叫び、即座に魔法で幸多を捉えようとしたが、遅かった。いや、幸多が早すぎたのだ。
一瞬にしてサタンとの間合いを詰めた幸多は、黒衣がわずかに揺らめく様を見て取り、サタンが躱そうとするのを見切った。拳を振り抜いている。
だが、幸多の拳は、サタンに当たらなかった。サタンの右手が幸多の左拳を受け止めたからだ。その右手は、まるで人間のそれそのものであり、幸多の記憶の中のサタンの手とは一致しない。
《こうして逢うのは今回で三回目だね、幸多くん》
「だったら、なんだ!」
幸多は、サタンの余裕に満ちた反応に対し、叫ぶしかなかった。本能が、咆哮している。サタンを目の前にして、冷静ではいられない。
一度それで失敗しているというのに、だ。
命が燃えて、魂が叫び、体が動く。
どうしようもない。
《仏の顔も三度まで、とは、よく聞くけれど、悪魔の貌は何度までだと想う?》
「顔を隠した奴がいうことか!」
《引っかかるの、そこ?》
サタンは困ったような声を上げて、幸多がおもむろに繰り出してきた蹴りを足で受け止めて見せた。直撃の瞬間、青白い燐光が走り、火花が散った。
《……仕方がないな》
サタンは、幸多の体を軽々と地上に投げ飛ばすと、魔法の網が彼を受け止める様を見た。おそらく、幸多がサタンに接近するのを食い止めるべく編み出された魔法だろう。幸多を受け止めるために再利用するのは、頭が良い。
サタンは、少しばかり苦笑して、そして、幸多が魔法の網の上からこちらを睨み付けてくるのを見ていた。
大量の情報子が幸多を取り巻いている様が、サタンの目には視えていた。
恐らく、大天使メタトロンがドミニオンに与えた力、その名残だろう。
それがマモンに痛撃を与え、サタンへの攻撃を許す遠因となったのは、疑いようがなかった。
サタンは、フードに手をかけた。




