第六百三十四話 特異点(三十八)
再び、暗転する。
アザゼルとの対峙は一瞬で終わり、またしても空の世界に戻ってきた。
黄金の天使がロストエデンと呼んでいた廃墟同然の領域である。
空中に廃棄された人工物をそのまま再利用したかのようなその場所には、黄金の天使ともう一体、女性型の天使がいた。
黄金の天使の傍らに寄り添うように佇む美しい天使は、視点の主に微笑を投げかけたようだが、視点の主はまったく気にしないように視線を動かした。
その視線の先には、指輪が山のように積み上げられている。正確な数はわからないが、数百個はあるのではないか。
幸多は、ふと、央都各所で起きた指輪大量消失事件のことを思い出した。一時期央都四市を騒がす大事件として取り扱われたものの、気がついたときには全ての指輪が元の場所に戻っていたため、消失などしていなかったのではないかということで落着した事件である。
それも二度、三度と起こっており、そのたびに大騒ぎになりつつも、指輪を売りたいがための仕込みなのではないかと邪推する声もあり、次第に騒がれなくなっていった。
いま、彼の目の前にある指輪が大量消失事件と関連している可能性があるのだが、しかし、だからといってどうすることもできないのも確かだった。
これは、過去の映像だ。
誰かの記憶。
ドミニオンならざる何者かの。
おそらくは、天使の。
(そんなものを……どうして?)
幸多の疑問は膨れ上がるばかりだったが、考えている間にも映像は切り替わっていく。
気がつくと、ロストエデンの端から遥か地上を見下ろしている。地上。魔天創世によって幻魔の世界に作り替えられた天地。
幻魔を除くあらゆる生物が死に絶え、海は真っ黒く、大地は赤黒く変容してしまった。新種の生命ともいうべき結晶樹がそこかしこに生えてこそいるが、それが新世界の証なのだとして、喜べるはずもない。
どこもかしこも幻魔だらけだ。
空中を飛び交う飛行型幻魔の群れがいれば、赤黒い大地を駆け抜ける幻魔の軍勢もあった。幻魔の軍勢同士の激突は、即ち、〈殻〉同士の領土争いであろう。
あらゆる大陸、あらゆる大地、あらゆる地域で、殻主たる鬼級幻魔の野心を満たすための闘争が繰り返されている。
リリス文書にあった通りだ。
かつて〈殻〉バビロンを主宰した鬼級幻魔リリスは、ノルン・ネットワーク上に事細かに様々な記録を残した。己が経験してきたことや今考えていること、これからなにをしようとしているのかなど、赤裸々《せきらら》に綴られた文書の数々は、日記とまでいわれるほどの更新頻度であり、戦団は、リリスが残した記録のおかげで近隣の〈殻〉に関する情報を得られたのだ。
もし、リリス文書がなければ、戦団の活動は、もっと慎重なものとならざるを得なかっただろうし、ここまで急激な人類生存圏の発展はなかっただろう。
幸多がそんなことを思い出してしまったのは、高空や地上、あるいは水上で繰り広げられる数多の戦いを目の当たりにしたからであり、央都の外の世界の広さと、幻魔の数の多さに瞠目し、驚嘆さえしたからだ。
幸多は、央都の内側しかしらない。
央都だけが世界の全てだった。
それは、多くの央都市民にとっては当たり前のことであり、人類生存圏の外に広がる世界について考えるのは導士の役割であり、一般市民は、目の前の日常にこそ全力を尽くせばいい、というのが、戦団の考えでもあった。
幸多は、戦団に入り、導士となった。となれば、外の世界についても知らなければならないし、考えなくてはならないのだが、しかし、これほどまでの世界の広がりを目の当たりにした導士は、幸多以外にはいないのではないかと思えてならなかった。
それほどまでにロストエデンから見渡す世界は広く、天地に渦巻く幻魔の数が多すぎた。
どこもかしこも幻魔だらけであり、そんな幻魔たちが相争う様を見れば、人類復興など夢のまた夢と思わざるを得ない。
元より、わかりきっていたことではあったのだが。
さらに、確信を深めてしまう。
少なくとも、幸多の代では不可能だろう。
幻魔を殲滅し、人類が地上の支配者として君臨する時代など、本当に来るのだろうか。
そのときだ。
「縁だよ」
聞いたことのない、けれども、どこか聞き覚えのある声が、幸多の脳内に響くようだった。それが視点の主の、見知らぬ天使の声だということは、なんとはなしに理解する。
視線は、背後に向き直る。
するとそこには、ドミニオンが立っていて、視点の主を見ていた。青白く輝く瞳は、天使の特徴のようだ。
従来型の幻魔や悪魔とは違うとでも主張するかのような輝き。
だが、天使の死骸から確認されたのは、幻魔と同じ結晶構造の肉体を持っているということであり、魔晶核を心臓としているということだった。
天使は、幻魔だ。
想像上の天使のような姿をしただけの幻魔に過ぎない。
そして、そのような幻魔は、様々に存在する。
女神のような幻魔もいれば、妖精のような幻魔もいる。
幻魔を見た目で判断してはならない。
外見が優美だからという理由で近づいていっては、殺されるだけのことだ。
幻魔は、人類の敵なのだ。
だが、ドミニオンは、人類の守護者と宣言した。
そのことが幸多にはどうにも引っかかるのだ。
ドミニオンの過去の行動は、彼のその発言とは矛盾していない。それどころか、肯定し、確信させるような力強さすらあった。
ここ最近、空白地帯の各地で発見されるようになった天使型幻魔は、集団で行動しつつ、幻魔と戦闘を繰り広げるというものばかりであり、戦団の導士たちに対しては一切手出しをしてこないという。
一方で、オファニムの例もある。
オファニムと名乗った天使型幻魔は、本荘ルナを攻撃した。
本荘ルナだけを、だ。
それは本荘ルナが人間ならざる未知の存在だったからなのか、どうか。
確かにそのとき、オファニムが導士たちを攻撃したという記録はない。
人類の守護者というドミニオンの言葉とは、一切矛盾していないように思える。
「縁……」
ドミニオンがつぶやき、視界が暗転した。
(縁……?)
そういえば、ドミニオンがそのようなことを口走っていたことを幸多は想い出した。脳裏を駆け巡るのは、様々な光景だ。見覚えのある町並みの、見たこともない場所。豪奢な邸宅の一角。屋敷内。誰かがいて、口論があった。泣き叫んでも、誰にも届かない。響かない。
これは、誰の記憶なのか。
視点の主の記憶などではあるまい。
天使が、人間の記憶を持っている理由がない。
天使も幻魔だ。
ならば、人間の死を苗床として誕生したかもしれない。十中八九、そうだろう。だが、だからといって、そこに連続性を、繋がりを見てはならない。
幻魔と人間の間に繋がりはない。
連続性はないのだ。
では、この記憶は、泣き叫ぶ男の子は、誰なのか。
厳しい眼差しでこちらを見下ろす男は、誰か。
《済まなかった……》
不意に、幸多の頭の中に響いたのは、ドミニオンの声だった。
「え?」
「幸多くん、避けて!」
はっと、幸多は、透かさずその場から大きく飛び離れると、マモンによる一斉射撃が幸多の立っていた場所を爆撃したところだった。爆風に背を押されるようにして移動し、着地とともにさらに飛ぶ。
意識が現実に引き戻されたのだという感覚とともに感じるのは、異様な体の軽さだ。全身を穿っていた痛みという痛みが消え失せていて、傷口も塞がっていた。体中の隅々にまで力が行き渡っているような錯覚。軽く地を蹴るだけで、想定外の距離を想像以上の速度で飛んでいる。
マモンが引き金を引いたまま、幸多に射線を向ける。無数の銃弾、砲弾が轟音とともに肉迫してくる様が、どうにも緩慢に見えた。
(なんだ? これは――)
幸多は、驚きながらも、自分が為すべきことを再認識した。
マモンをぶちのめさなければならない。