第六百三十三話 特異点(三十七)
頭上には、どこまでも透き通るような蒼穹が広がっていた。
雲一つないとはまさにこのことだったが、それにしたって透明すぎやしないかと思わないではない。
それくらい綺麗な空だった。
穢れ一つ見当たらない青空。
かつて人類が汚染し尽くした空とは思えないほどに綺麗なのは、魔法時代が到来したおかげだといわれている。
魔法時代の到来は、ただ人類に多大な恩恵をもたらしただけではない。
人間社会の発展の犠牲にされてきた地球の自然環境そのものを回復させるためにも、魔法は、その大いなる力を振るったのだ。
人類が宇宙へと進出するための原動力ともなれば、母なる星・地球を復活させるための力ともなったというわけである。
もっとも、宇宙への進出に成功し、外宇宙へと旅立った人類はともかくとして、地球に残った人類の大半は死滅してしまったのだが。
残されたわずかばかりの人類が、地上のほんの少しの土地で人間社会の再興を始めたばかりというのが、この地球で起きている最近の出来事だ。
なぜ、そんなことを考えてしまったのかは、わからない。
ただ、青空の透明さに心打たれるものがあったからかもしれない。
(なんだ……これ……?)
幸多は、自分が見ているこの光景が一体なんなのか、まったくわからず、茫然としてしまった。
遥か高空の景色だということは、なんとなくわかる。
宇宙が近い。
手を伸ばせば、遥か彼方の星に指がかかりそうな、そんな距離感。
決して地上ではない。
どこか、高いところ。
「ああ、そうだった」
不意に、思い出したような声が聞こえてきて、幸多は、意識をそちらに向けた。綺麗な、透き通るような男の声だった。耳にするだけで心が洗われるような、そんな声音。
声だけで人心を掌握できるのではないかと思えるのは、きっと気のせいではあるまい。
あるまいが、なんだか胸がざわついた。
幸多の胸の奥底で、なにかが反応するのだ。
それがなんなのか、まるでわからない。
そもそも、自分が一体なにを見ているのか、あるいは見せられているのかもわからないのだ。
疑問ばかりが沸き上がる。
幸多の見ている景色がゆっくりと動いた。頭上の蒼穹から、瓦礫が無造作に積み上げられた廃墟同然の場所へ。
そこが地上ではないということは、高度からも明らかだ。
視界の彼方に水平線が有り、眼下に黒々とした海が横たわっている。海洋上には、赤黒い大地が見えたりもした。
それは紛れもなく、魔天創世によって幻魔以外の生物が死に絶えたあとの地球だった。
つまり、この視点の持ち主がいるのは、地球上の何処かだということだ。
そして、視線が動き、黄金色の光とともに、先程の声の主が視界に入り込んでくる。
それは、光そのもののような存在だった。黄金の、神々しい光の化身。神も翼も光輪も、身に纏う装束すらも、なにもかもが黄金一色に染め上げられた存在。
大天使。
そんな言葉が幸多の脳裏に浮かんだのは、ただ天使と呼ぶにはあまりにも迫力がありすぎたからかもしれない。
主天使ドミニオンや、座天使オファニムとは、次元そのものが異なるのではないかと思うほどの威容であり、存在感があった。
思わず目を瞑りたくなるほどの輝きだったが、しかし、幸多が目を瞑ることもできなければ、視線を逸らすこともできなかった。
(これは……誰かの記憶なんだ)
たぶん、きっと、おそらく――。
そうとしか考えられないような状況だった。
夢とも違う。
夢ならば、もう少し思い通りに体を動かせてもいいはずだ。だが、幸多の意志とは無関係に全てが進んでいく。
「紹介しておこう。彼はドミニオン。我らがロストエデンの新たな住人だよ」
黄金の大天使は、そういって、視点の主に対しドミニオンを紹介した。ドミニオンとは、幸多の知っているドミニオンだ。
いままさに目の前で消滅した天使型幻魔。
(ロストエデン……)
幸多が気になったのは、それだった。
黄金の天使が発した言葉。それがこの天空に浮かぶ神殿の残骸のような場所の名称なのだろうか。
(失われた楽園とか、そういうことか……?)
天使の姿をした幻魔たちの住処に相応しいかもしれないが、どうにも皮肉めいている気がしてならなかった。
幸多がそんなことを考えている内に、目の前が暗転した。
かと思えば、遥か眼下、広大な海を見下ろしていた。いや、広大な海に浮かぶ、小さな列島を見ているのだ、と、すぐに気づく。
かつて、日本列島と呼ばれていた小さな列島は、二度に渡る魔法大戦と魔天創世によって、その地形を大きく変えてしまったという。
幸多は、いま初めて、自分が住んでいる小さな島国の正確な形を見ていた。
戦団ですら全容を把握できていないのだ。
なぜならば、地上を見渡す手段がないからにほかならない。
かつて地球全土を見下ろし、地上のあらゆる場所を監視していたといっても過言ではない人工衛星は、その尽くが失われてしまった。
魔天創世の影響もあれば、魔法大戦の最中に撃ち落とされたものも少なくないという。
では、魔法を使えばいいのではないか、と誰もが考えるのだが、しかし、地上全土を見渡すほどの高度まで飛行するのは、いくらなんでも危険だった。
この天地は、魔天創世以来、幻魔の世界と成り果てているのだ。
幻魔は、どこにでもいた。
幻魔の〈殻〉は、どこにでもあった。
地上にも、水上にも、水中にも、海底にも、当然、高空にも。
飛行魔法で遥か高空まで飛び上がった結果、幻魔の〈殻〉に侵入してしまい、幻魔の軍勢を刺激することになっては、目も当てられないだろう。
だから飛行魔法等を用いての高高度への上昇は、戦団の導士でも堅く禁じられていた。
完全無欠の安全性が保証されているのであればいざしらず、そうでないのであれば、余計なことはするべきではない。
人類は未だか弱く、幻魔の動向次第では風の前の塵の如く、容易く消し飛ばされるのだ。
だから、というわけではないが、かつて撮影された衛星写真の記録映像とはまるで異なる列島の形状を目の当たりにして、幸多は、目を見開くような感覚だったし、驚きと興奮と疑問と不安を覚えた。
(ぼくは……どうなっているんだ?)
誰かの記憶を見ているような気がするが、それが勘違いである可能性もあったし、意味不明な夢を見ているだけの可能性も考え直さなければならない。
だとすれば嫌に現実的な夢だが、夢とはそういうものだったりするのだから、始末に負えない。
少なくとも、ドミニオンの記憶ではないことは確かだ。
ドミニオンを知っている別の何者か。
その視線の遥か先には、人類生存圏があった。赤黒い大地の片隅に央都四市が確かに存在しているのだ。そして、視点は、葦原市南方の海上に浮かぶ人工島へと向けられる。
(あれは……)
それが海上総合運動競技場であることは一目でわかったし、そこに大勢の市民が集まっていることも理解できた。
さらには、視点と競技場の狭間になにかが浮かんでいることも、だ。
月の光が、暗紅色の肌を照らし出す。
(アザゼル!?)
幸多が愕然としたときには、再び暗転が起き、アザゼルの姿を眼前に捉えていた。
視点の主がアザゼルと対峙したのだ。
そこへ、ドミニオンが現れた瞬間、アザゼルによって一蹴されたのは、力量差を考えれば当然のことだったのだろうが。
幸多は、軽い混乱を覚えた。
遥か眼下では、対抗戦決勝大会が終わろうとしており、目の前では、アザゼルとドミニオン、視点の主の戦いが繰り広げられようとしている。
幸多は、はたと思い出した。
対抗戦決勝大会の表彰式が行われていたちょうどそのとき、突如として大量の獣級幻魔が出現したことを、だ。
そして、後に判明したことがある。
それは、獣級幻魔を会場に送り込んできたのは、アザゼルの魔法だったということだ。
競技場で観測された固有波形と、幸多の体や光都跡地で観測されたアザゼルの固有波形が完全に一致したのである。
その事実が明らかになると、戦団は、競技場にアザゼルがいた可能性を探ったが、結局、空振りに終わっている。
競技場内のあらゆる記録映像をあたっても、アザゼルが擬態したと思しき不審人物の姿は見当たらなかったのだ。
まさか、このような遥か高空で天使と対峙していたとは、想いもよらないことだ。