第六百二十八話 特異点(三十二)
砂部愛理の全身から放たれていた虹色の光が弱まり、律像すらもその形を変えていく様を見て、マモンは、憮然とした。
四天火水風土を纏う火水の猛攻に対しては、大歯車でもって弾き返し、さらに触手で擬態を作ることで対処するものの、状況は変わらない。
「終点が……遠のいた?」
マモンは、愛理が次第に超高密度の星神力を制御していく光景を見ていた。
莫大極まりない星神力が、彼女の小さな体に収まっていくのだ。この結界内の時の流れそのものが、彼女に掌握されていくような、そんな感覚すらある。
彼女は、特異点だ。
マモンが発見した、彼だけの特異点。
時空を司る大特異点。
だからこそ、この大混乱が起きている。
砂部愛理。
この〈時の檻〉の内外に干渉する、時空の支配者。
「いや、そんなわけがない」
マモンは、無数の擬態の大攻勢によって火水が遠ざかっていくのを確認し、愛理に視線を戻した。
愛理は、幸多の左腕を抱きしめたまま、ほっとしたような顔をしていた。暴走する魔法を制御したのだ。安堵もするだろう。
「いっつも、お兄ちゃんが助けてくれるね!」
「それは違うよ、愛理ちゃん。ぼくはただ、きっかけに過ぎないんだ。きっかけを与えただけで――」
「そういうの、なんていうか知ってる?」
「ん?」
「謙遜っていうんだよ」
愛理は、満面の笑みで、幸多を見た。幸多は、少しばかり困ったような顔をしたが、同時に安堵もした。愛理が少しでも元気になってくれたのであれば、それで良かった。
愛理を助けること。
それがこの戦いの一つの目的だ。
最初は、天燎鏡磨と彼が呼び出した機械型幻魔の殲滅のための戦いだったが、それはもはやただの過程となり、いまや愛理を救い、愛理が無意識に作り出した〈時の檻〉から脱却することが最大の目的となっている。
そのことを思えば、彼女が安心したような表情を見せてくれる、ただそれだけのことが嬉しかった。
「なんだか、全部解決したような様子だけどさ。ぼくのこと、忘れてない?」
「忘れるものかよ」
幸多は、統魔のように口が悪くなるのを自覚しつつも、マモンを睨んだ。
マモンは、機械仕掛けの無数の触手を展開しながら、その触手でもって擬態を作り出すことで、火水の猛攻を凌いでいる。それだけ火水と風土の合性魔法とでもいうべき星象現界が強力無比だということだろうし、火水を直接マモンにぶち当てることができれば、戦況は大きく変わるかもしれないとも思えた。
幸多は、考える。
どうすればマモンを出し抜き、マモンに致命的な、決定的な一撃を叩き込むことができるのか。
それはもちろん、幸多にできることではない。
幸多は、所詮魔法不能者だ。イリアたちのおかげで戦闘手段こそ得たが、それだけでは鬼級幻魔には、悪魔には届かない。
だから、いまや星将に匹敵するかもしれない杖長たちと、二十名あまりの導士たちを頼りにするしかない。
幸多に出来ることといえば、この数十回に渡って繰り返されてきた時間の中で得たマモンの戦い方を伝えておくことであり、マモンを出し抜く方法を考えることだ。
そうした幸多の考えは、マモンに見透かされているのか、どうか。
そのときだった。
「それなら良かった。この程度のことで全部終わってハッピーエンドなんて、許されるわけないからね」
マモンの声は、間近で聞こえた。
幸多は、激痛に顔を歪ませると、こみ上げてくる熱い液体を口から吐き出した。鉄の味がした。血だ。痛みは、体の複数箇所から生じていて、どれが致命傷なのかもわからなかった。腹にも胸にも背にも、それ以外の様々な箇所にマモンの触手が突き刺さり、体内を巡っている。体中をズタズタに引き裂き、破壊していくために。
前方のマモンの体がばらばらに崩れていった。触手で作られた擬態だったのだ。
本体は、触手とともに地中を潜行し、幸多の目の前に現れていた。余裕を以て土埃を払うマモンの様子には、幸多は、絶望感すら抱いた。
マモンを出し抜くことなど不可能なのではないか。
「お兄ちゃんっ!?」
愛理の悲鳴が、幸多の耳にこだまするようだった。何度も聞いた悲鳴だ。そのたびに時間転移が起きたことを覚えている。
それが、終点。
〈時の檻〉の始点へと至るための引き金であり、マモンは、その引き金を引くためにこそ、幸多に致命傷を与えたのである。
「確かに、終点はずれた。でも、ずれただけだ。消えたわけじゃない。だって、〈時の檻〉は解消されていないもの。今もなおどこかに終点はあり、それは、彼女の絶望によって引き寄せられる」
愛理の全身が虹色の光を放ち始めたのを見て、マモンはほくそ笑んだ。
「〈時の檻〉から脱出したかったんじゃないのかよ……!」
「そうだけど、でも、それはぼくが主導した結果じゃないと意味がないよね」
幸多が思わず伸ばした右腕が空を切ったのは、マモンの体がまたしてもばらばらに崩壊したからだ。触手による擬態。
擬態と化した触手は、しばらくすると力を失い、崩壊するようだった。
「ぼくがこの手で〈時の檻〉を破壊しなければ、意味がないよ。そうしないと、砂部愛理を手に入れられないじゃないか」
別の地点に現れたマモンが、当然のように告げてきて、幸多は、彼を睨み付けることしか出来なかった。未だ、幸多の体内は傷つけられ続けている。内臓が切り刻まれ、神経という神経の繋がりが断たれていくような感覚。
立っていられなくなるのも時間の問題だったし、なにより、すぐ左隣の少女がまばゆい光を放っていることのほうが気にかかった。
愛理が、絶望的な表情で幸多を見ていた。
「お兄ちゃん――!」
いまにも消え入りそうな叫び声とともに放たれる虹色の光は、愛理が無意識のうちに編み上げた膨大な星神力そのものだったのだろう。
だから、それが起きた。
幸多は、視界が真っ白に燃える様を見た。そしてそのまま半端に欠けていくのを目の当たりにすると、左腕の感覚が失われていくのを認めた。
見れば、左前腕が虹色の光に包まれたかと思うと、ゆっくりと、しかし、確実に分解され初めていたのだ。
視界が欠けたのは、右眼が、左前腕と同様に虹色の光に灼かれ、分解され始めていたからだ。
そして、愛理の体が虚空に浮かび上がったのは、彼女を抱きとめていた幸多の左腕がなくなってしまったからなのだろう。愛理の全身から放たれる膨大な星神力が、彼女の意志とは関係なしに魔法を発動させ、その小さな体を空中へと運んでいく。
「お兄ちゃん!? だいじょうぶ!? だいじょうぶなの!? お兄ちゃん!」
「大丈夫。ぼくは、なんの心配もいらない。こんなことでは死なない。死なないんだ」
幸多は、凄まじい激痛に全身を苛まれながらも、強気に振る舞うことで愛理の不安を少しでも和らげようとした。
愛理の力が暴走しているのは、幸多が致命傷を受けたからだろう。
それまで安定しかけていたのだ。
それが突如として不安定化し、爆発した。
どう考えても要因は、幸多だ。であれば、幸多が毅然と振る舞い、愛理の不安を取り除いてあげる以外にはない。
左前腕が失われたからと右腕を伸ばしても、もはや届かない高さにまで愛理は浮かび上がり、虹色の光を放ち続けている。
彼女が放つ虹色の光線は、触れるたものを分解する力を持っているようだった。
見れば、風土の導衣の一部が消滅しており、ドミニオンの光の翼が溶けていた。風土もドミニオンも、愛理の光から逃れるため、その場から飛び離れるしかない。
愛理の光は、時空の光だ。
時間回帰の、〈時の檻〉の。
だから、幸多の生体義肢が溶けて消えたのだろう。
そして、魔素を宿さない完全無能者の肉体だけは、残った。
当然、体内に蠢いていたマモンの触手も消え去った。