第六百二十六話 特異点(三十)
マモンは、虹色の光によって照らされた結界の内側が激変していく様を見ている。
星神力そのものたる極彩色の光が、分厚い魔素の層を貫き、触れるもの全てを変化させていく光景だ。
大地を埋め尽くすように散らばる彼の触手が分解され、あるいは復元され、あるいは本来在るべき場所へと回帰していく光景は、さすがに今回が初めてのことかもしれない。
これほどまでの触手を展開したのが、今回が最初だからだ。
それだけ、南雲火水と矢井田風土の星象現界が厄介だったからにほかならない。
いまもなお、火水は、触手が擬態したマモンを次々と葬りながら、本体への血路を開かんとしている。その勢いたるや凄まじいとしか言い様がなかったし、星将に匹敵するのではないかと思えるほどだった。
だが、もう遅い。
〈時の檻〉は、その終点へと至った。
そうなった以上、再び、始点へと戻るだけだ。
そしてそうなれば、二度は同じ手は通用しない。
マモンに残る記憶はわずかだが、そのわずかばかりの記憶を頼りに対策を立てることは難しくない。地上の導士を殲滅することなど、なんの問題にもならない。
今回は、多少の油断があった。
数え切れない回数の時間転移が、マモンの頭をも混乱させたというべきかもしれない。
しかし、それだけの回数の時間転移を経験したことによって、マモンは、この〈時の檻〉に関して一つの結論を導き出していた。
それこそ、砂部愛理が時間転移を認識していないということだ。
「ぼくが今回の――きみたちがいう大規模幻魔災害を起こしたのは、砂部愛理が目的だということは、教えたよね?」
「ああ、聞いた」
「わ、わたしが目的? ど、どういうことなの!? マモンくん!」
愛理は、全身の発熱に身悶えしながら、それでも問わずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。混乱が混乱を呼び、頭の中がぐるぐると回り続けている。なにがなんだかわからないし、理解できない。
「まだ、そんな風にいってくれるんだね、砂部愛理。優しいのか、それとも、愚かなのか」
「優しいんだよ、愛理ちゃんは」
「そうだね、そういうことにしておいてあげていいよ。どうせ、解剖するんだし」
「させないっていってるだろ!」
「どうやって?」
幸多の怒声が、マモンの耳朶に突き刺さる。なぜか、不快だった。どういう理屈なのか、まるでわからない。
疑問が増えた。
解を求めなければ、ならない。
「きみは、ぼくには勝てない。どう足掻いても、ぼくを斃せない。きみだけじゃない。きみたちが束になってかかってきたところで、ぼくを斃すことなんてできっこないだろう」
マモンは、断言した。
火水と風土は、惜しい。惜しいところまでいっているが、まだ、足りない。
あと星将が二人ほどいれば、状況は好転し、マモンを打ち破ることもできるかもしれない。
が、杖長二名が力を合わせた末、星将に肉迫した程度では、どうにかなるものではないのだ。
ドミニオンと幸多、多数の導士が協力したとしても、だ。
力の差は、如何ともしがたい。
「それに、この〈時の檻〉を突破できない限りは、たとえ奇跡が起きてぼくが倒れたとしても、意味がない。また、繰り返さなければならなくなる。そしてそれは、ぼくにとっても同じことなんだ。きみたちを皆殺しにして、砂部愛理を確保したとしても、〈時の檻〉が存在する限り、時間転移は繰り返されてしまう。砂部愛理を殺せばその限りじゃないんだろうけれど」
「そんなこと、させるわけないだろ!?」
「きみには防げないでしょ。なんたって、ぼくは彼女とずっと一緒にいたんだから」
殺そうと思えば、いつだって殺せた、と、マモンは言外に告げた。幸多の表情が歪むのを見て、多少なりとも満足する。
理由はわからないが、どうやら、マモンは自分が幸多を嫌い始めているという事実を認識した。
幸多を見ていると、感情が、心が、ざわつくのだ。
「でも、ぼくは彼女のことを、特異点のことを徹底的に調べたいから、手を出さなかった。殺さなかった。殺したのは、ほかの人間だけだよ」
「やっぱり、そうだったんだな」
「あ、わかってたんだ?」
「当たり前だろ!」
幸多は、凄んで見せたが、そんなものが通用する相手ではないことくらい理解していた。相手は幻魔だ。人類の生命倫理や社会通念の外側にいる存在にほかならない。
人間の命など、塵芥ほどにも思っていない。
だから、平然と改造することができるのだし、解剖などと言い出せるのだ。
それが、幸多の心に火を点けるのだが、その一方で、愛理のことが気にかかって仕方がなかった。
〈時の檻〉の終点。
マモンは、そういった。
幸多の脳裏には、時間転移が起きる瞬間の光景が過っていた。
愛理が覚醒し、幸多を見て、叫んだ。
それが幸多にとっての時間転移の全てだ。
そして、気がつくと、天燎鏡磨が死んだ直後に舞い戻っている。
マモンの言い方からすれば、そこが始点なのだろう。
〈時の檻〉。
確かに、檻の中にいるような気分ではあった。
無限に近く繰り返される時間は、悪夢を見ているようでもある。
だが、現実だ。
夢などではない。
「でも、何度が繰り返すうちに、一々殺す必要がないことに気づかされたんだ」
「どういうことだ?」
「砂部愛理の星象現界は、自動的なんだよ」
「自動的……」
「たぶん……いや、きっと、最初に〈時の檻〉が発動したときに、そう紐付けられたんだろうね。始点と終点が定まったんだ」
マモンは、愛理の不安げな、いまにも消え入りそうな表情を見つめながら、いった。
ほかの避難民を傷つけるまでもなく意識を失った愛理の姿を見たとき、マモンは、〈時の檻〉の原理の一部を垣間見た気がした。
愛理が無意識に発動した星象現界は、彼女の意志とは無関係に同じ時間を繰り返している。その始点も終点も、彼女の意志とは直接関係がなく、〈時の檻〉そのものと紐付けられているのではないか。
終点とは、最初に幸多が彼女に呼びかけ、愛理が覚醒した瞬間である。
それから何十回と繰り返してきて、確信に至っている。
始点も終点も、〈時の檻〉の中の時間経過によって定められており、いままさに終点へと至ったのだ。
「さあ、終点だ。時間転移が始まる。幸多くん。きみが懸命に考え抜いた作戦は、つぎはまったく意味を為さなくなる。絶望的だね?」
「くっ……!」
「お兄ちゃん、わたし、わたし……どうしたらいいの!? わかんない、わかんないよ!?」
愛理は、幸多の左腕に強くしがみついたまま、彼に助けを求めた。幸多ならば、なんとかしてくれるのではないかという期待があった。いや、願望といっていい。幸多以外に助けを求められる相手がいないということもあったし、混乱もあった。
愛理は、いままさに人生最大の混乱の中にいた。なにもかも理解できなかったし、理解できることも瞬時に頭の中に散乱してしまっている。なにが正しくてなにが間違っているのか、自分がどういう状況に置かれていて、なにが起こっているのか、なにもわからない。
幸多に縋り付くしかないのだ。
「時間転移がきみの星象現界なら、制御できるはずだ。制御できない星象現界など、存在しない」
「そんなこと、突然いわれたって……!?」
愛理は、急に割り込んできた導士に目を向けたものの、しかし、どうにもならなかった。
「そうか」
幸多は、愛理の全身から放たれる爆発的な光の中で、ようやく全てに得心が行くような気がした。
「そういうことだったんだね」
「お兄ちゃん……?」
幸多の穏やかな声音によって、愛理は、少しだけ落ち着きを取り戻した。全身が燃えるように熱いことに変わりはない。しかも、その熱は、胸の奥底から全身を灼き尽くすかのように溢れていて、止まらないのだ。
「愛理ちゃんがこれまで魔法の制御に失敗してきた原因が、これだったんだ。たぶん、きっと」
幸多は、愛理の目を見つめた。美しくも稀有な白銀の虹彩が、あざやかに輝きを放っている。そして、瞳孔の奥深くに煌めきがあった。
〈星〉の煌めき。
魔法の元型であり、魔力が星神力へと至り、星象現界を発動するために必要不可欠な、大いなる力。
愛理は、それを無意識に抱え続けていたのではないか。
だからこそ、魔法の制御に失敗するようになったのではないか。
それならば、全てに納得がいく気がした。