第六百二十二話 特異点(二十六)
時空の歪みを感じる。
この遊園地の広大な敷地を包み込む虹色の結界。
それが砂部愛理の星象現界であり、空間展開型とも星域とも呼ばれる代物だということは、間違いない。
ただし、砂部愛理の星象現界がこの結界の中でしか効果がないわけではあるまい。
そんな不完全な能力ではない。
もっと完全で完璧な時間操作。
時空転移。
マモンは、触手の玉座で眠り続ける特異点の少女を一瞥し、そして、視界を過る魔素の乱れに着目する。この結界内に満ちた膨大な魔素は、彼女の星神力そのものであり、それらが大いに乱れ、歪み、揺れている。
見ているだけで感覚が狂いそうになるのは、それらが時間の流れを乱しているからにほかならない。
砂部愛理の覚醒が近い。
そうなれば、再び時間転移が起きるのか。
それとも、今度こそ〈時の檻〉を脱し、状況は変わるのか。
マモンには、わからない。
マモンが理解できるのは、爆煙の真っ只中を貫くようにして降り立ったドミニオンと幸多が、こちらに向かってくる様子だけだ。
マモンは、苦笑とともに大太刀を振り翳し、無数の触手を動かしてみせた。
ドミニオンの光輪が数多の光条を放ち、触手による砲撃と相打ちになって爆砕の乱舞を引き起こせば、激震の只中を突っ切るようにして、幸多が肉迫してきた。
幸多は、裂帛の気合いとともに薙刀を振り下ろし、マモンを斬りつけようとしたが、当然のように反応され、大太刀に防がれる。そして、白衣の様々な箇所から伸びてきた機械の触手が幸多に絡みつこうとしてきたため、素早く飛び退き、叫んだ。
「横陣」
幸多が事前に仕込んでおいた防塞の転送形式である。
瞬間、幸多の前方に五つの防塞が横一列に出現し、展開した。殺到する触手を撥ね除け、マモンの視界を妨げる。
今までにない幸多の行動の数々に、マモンは、興味が尽きなかった。思わず、尋ねる。
「それ、さっき考えたの?」
「ああ、そうだよ!」
「へえ、やるじゃん」
マモンは、素直に感心しながらも、大量の触手でもって巨大な防壁の数々を打ち倒した。すると、幸多の姿は見当たらない。
声は確かに防壁の向こう側から聞こえたというのに、だ。
ふと、倒れた盾を見れば、通信機が張り付けられていた。
幸多の声は、そこから聞こえていたのだ。彼は通信機越しに普通に返答してきたのだろうが、通信機が最大音量であれば、叫んだ風に聞こえもする。
マモンは、彼が頭を使って戦っていることに感動すらした。
(〈時の檻〉が、彼に戦術を練る猶予を与えたってことか)
だとしても、ここまで色々と考え、実行に移すことができるのは、並の胆力ではあるまい。
そして、閃光がマモンの視界を灼いた。彼は、仕方なく右に飛び退き、巨大な光芒によって多数の触手が消し飛ばされるのを目の当たりにする。
光芒を発射したのは、ドミニオンだ。
ドミニオンの左腕から発射された極大の光芒。超密度の魔力の奔流というだけでなく、悪魔に対する強力な抑制力を持ってもいた。
いまの攻撃で破壊された触手は、もはや再生できない。
「なるほど。これが悪魔と天使の戦闘か」
マモンは、ドミニオンが初めて戦う天使であり、だからこそ、興味深く、注意深く、経過を見ていた。
悪魔の一撃も、天使の一撃も、互いに必殺のものとなりうる。
それが、悪魔と天使の戦いの不文律であり、なにものにも覆すことができない絶対の法理である、という。
神のいない世界で、神の理に抗うべく悪魔と名乗ったものたちも、自分たちの存在意義を否定することはできない。
それこそが、この戦いの掟だ。
悪魔と天使の戦いの掟。
マモンは、しかし、損傷した触手を体から切り離して見せると、別の触手を生やすことで、ドミニオンの攻撃が無駄だということを示して見せた。どれだけ触手を攻撃されたところで、痛くもかゆくもないのだ。
アザゼルに左腕を切り取られたドミニオンとは、わけが違う。
「残念だったね」
「どうだかな」
「ん? どういうことかな?」
余裕ぶったドミニオンの反応が気に食わず、思わず彼は問い返してしまった。そして、そのとき、視界の片隅を過った影に気づき、そちらに目を向ける。
見れば、触手の玉座が崩壊を始めていて、そこから落下を始めた愛理を幸多が受け止めたところだった。そして、そのままその場から飛び離れ、マモンの猛攻を回避してみせる。
さらには無数の防壁が触手の進路上に出現し、幸多の撤退を支援した。それもこれも、幸多の戦術に違いない。
「……思った以上にやるね」
マモンは、ドミニオンの側に到達した幸多が、全周囲に防塞を展開する様を見て、つぶやいた。
皆代幸多という人間を見くびっていたのは確かだ。
そして、ドミニオンも、見下していた。
ドミニオンなどという天使は、不完全極まりない存在だからだ。
ルシフェルを筆頭とする大天使たちとは明確に異なる存在である彼らは、結局、天軍の尖兵に過ぎず、使い捨てられるだけの駒に過ぎない。
半端者。
マモンの脳裏にそんな言葉が過った。だから、だろう。思わず、口を突いて出た。
「結局、ぼくもきみと同じなのかな」
「なにをいっている?」
「いや、こっちの話。気にしないで欲しいかな」
「気にはしないが」
「それなら良かった。でも、本当によくやったね、幸多くん。魔法も使えないくせに、このぼくを出し抜くなんて」
マモンが赤黒い双眸をより禍々しく輝かせたものだから、幸多は、愛理を抱える左腕に思わず力を込めてしまった。力を弱めながら、告げる。
「魔法が使えないからさ」
「うん?」
「使えないから、考えるしかないんだ」
「魔法士は頭を使わないってこと?」
「そういうことをいってるんじゃないよ」
幸多は、マモンが苛立たしげに触手を振り回す様を見た。彼の背中から伸びる機械仕掛けの触手の数は、一向に減らない。潰しても潰しても再生するし、ドミニオンが吹き飛ばしても、新たな触手が生えてくる。
その数たるや数百本を超えているだろうし、それらが怒濤のように押し寄せてくるのを止める手段がない。
ドミニオンが左腕を掲げ、魔法を放つ。
白銀の光芒が防塞の結界ごとマモンの触手を吹き飛ばせば、幸多たちの前方に魔法壁が構築された。
そして、光芒の範囲から逃れたマモンが、透かさず背後に向き直り、触手の群れで薙ぎ払おうとしたのは、そこに巨大な魔素質量が出現していたからだ。
凄まじい密度のそれは、星神力の塊であり、周囲の空間をねじ曲げるほどの爆発力がそこにあった。
星装を纏った火水が、マモンに向かって突っ込んできたのだ。
マモンは、その姿が何度も見た火水の姿と様変わりしていることに気づきつつも、だからといって怖じ気づくなどありうるわけもなく、触手の鞭を叩きつけようとした。
しかし、火水の周囲に展開する金剛石の盾が触手の群れを受け止め、逆巻く暴風が彼女を加速させる。一瞬にして、間合いが詰められた。羽衣が大蛇となってマモンに殺到し、さらに炎の槍が爆炎を噴き出しながら肉迫する。
「名付けて! 四天火水風土!」
「長いよ」
マモンは、苦笑とともに火水の槍を大太刀で受け止めて見せたが、大太刀の刀身が一瞬にして融解し、爆炎が彼の顔面を灼いた。
そのとき、マモンは、人間を初めて敵と認識した。
炎の槍が暴風のようにマモンを切り刻み、大打撃を与えるが、それはマモンにとっては喜ばしい感覚だった。
未知の事象と遭遇しているという感覚。
知るべきこと、知らなければならないことが増えた。
人間とは、なにか。
なぜ、人間如きが、この大悪魔たる自分に痛撃を与えることが出来るのか。
興味が湧いた。