第六百二十一話 特異点(二十五)
ドミニオン。
主天使という天使の階級の一つであり、個体名ではない。
事実、ルシフェル率いる天軍には、彼以外にも多数のドミニオンがおり、いずれもが同等の力を持っている。
上位妖級幻魔と鬼級幻魔のちょうど間くらいか、鬼級幻魔に多少近い程度の魔素質量を持つ。
しかも、それぞれが異なる人格を持ち、個性を持っており、識別のためにそれぞれ異なる名を持っていた。
彼だけは、個体名を持たなかった。
ドミニオン、と、最初につけられた名を使い続けていたし、そのことで不便を被ったこともなかった。
ドミニオンは、ドミニオンで在り続ければよかった。
それ以上に求めるものはなく、それ以外に目的もない。
自分が誕生した意味はそこにあり、存在意義もまた、ドミニオンで在ることにこそ在るのだと、思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
そのことを理解したのは、つい先程のことだった。
いや、もしかしたらずっと以前から、この意識が誕生したときから、心のどこかに抱き続けていたものなのかもしれない。
「人類生存圏が危うい。〈七悪〉が動いている」
「ええ、そのようですね」
ドミニオンが、白銀の大天使が突如として話しかけられたのは、ちょうど地上の様子を見守っていた頃合いだった。同時に、多少の驚きを覚えたものだが。
白銀の大天使メタトロンは、この天界ロストエデンにおいて、天使長ルシフェルに次ぐ立ち位置にあるのだが、天使たち直接命令を下すことは愚か、交流を持とうともしないことで知られていた。
ドミニオン自身、彼と直接言葉を交わした回数は限られている。
記憶の中にあるのは、アザゼルと対峙したときくらいのものだ。
それが、突然、なんの前触れもなしに話しかけてきたものだから、驚き以上に当惑が勝った。
だが、そんなことよりも大事なことがある。
地上が災害に巻き込まれ始めている。
いわゆる大規模幻魔災害の頻発は、〈七悪〉がなにかしらの行動を起こし続けていることの証左だが、それがなにを意味するのかまでは、天使たちはまるで把握できていなかった。
「大いなる計画が結実するに早すぎる。〈七悪〉の中で、なにかしら問題が起きた可能性が高い」
「仲間割れが起きた、とか?」
「普通ならばありえない話だが、しかし、半端者どもを野放しにしていることを考えれば、ありえなくもない」
「半端者……」
ドミニオンは、白銀の天使の蒼く澄み渡った瞳を見つめ、考え込んだ。
メタトロンは、なにか焦っている。
常になにを考えているのかわからないのがメタトロンという天使だというのに、いま、彼の考えが手に取るようにわかった。彼が感じている焦燥が、表情に現れているのだ。
ドミニオンには、それが不思議でならなかった。
「ルシフェルは放置しろという。確かに、大いなる計画が動き出すのだとすれば、当分先のことだ。なにも案ずることはない――などという彼の言い分もわからないではない」
「……けれども、不安が付きまとう、と?」
「ああ。ただの思い過ごしならばそれに越したことはないが、しかし、どうにも気になって仕方がないのだ」
メタトロンは、ロストエデンの縁に立ち、遥か眼下を見下ろした。
ドミニオンもそれに倣って地上を見下ろすと、遥か彼方に小さな列島が見えた。
かつて日本列島と呼ばれた小さな列島は、魔天創世の影響を受け、大きくその形を変え、さらに列島全土が幻魔の跋扈する魔界と成り果てている。
そんな列島のほんのわずかな一部地域が、人類生存圏である。
央都、と、人類は名付けた。
人類復興の中央中心の地、という意味と願いを込めているらしい。
その央都を襲う大規模幻魔災害の頻発は、天軍にとっても予期せぬものだったが、しかし、いずれもが人類の手でどうにかできる程度のものでもあったから、ほとんど介入しなかった。
最近、天軍が人類に介入にしたことといえば、特異点・本荘ルナの処遇に関することだが、それも結局は失敗に終わった。
本荘ルナは戦団の一員となり、そうなった以上は放っておくしかない、というのが、ルシフェルの考えであるらしい。
ドミニオンにはまったく理解の及ばない次元の考えが巡っているのだろうが、だからこそ、彼は困惑を隠せなかったものだ。
いまも、そうだ。
遥か地上では、確かに騒乱が起きていた。
多数の幻魔が、改造された人間たちが、戦団と激しい戦闘を繰り広げたのであり、戦火は、さらに空白地帯をも襲った。
何千体もの幻魔が衛星拠点に殺到し、星将たちによって逆に蹂躙されていく光景は、〈七悪〉が望んだものなのか、どうか。
ドミニオンにはわからないし、ほかの天使たちにもわからないに違いない。
結局、悪魔の考えを理解できる天使など、いるわけがないのだ。
「なにを気にしているのです?」
「特異点だ」
「特異点……」
反芻し、視線を定める。
出雲市大社山の中腹を切り開いて作られた遊園地、その敷地全体が虹色の結界で覆われている。
天上からでは、その内側を見通すことができなかった。
「あの中に、ですよね」
「そうだ。皆代幸多は、そこにいる」
「皆代幸多」
またしても、メタトロンの言葉を反芻するようにしてつぶやくのは、その名を口にすると、意識がひりついたからだ。
そこに自分にとっての縁があるのだから、当然だろう、と、ドミニオンは考える。
そして、メタトロンにも。
「きっとそれは、おれの縁なんだろう」
「だから、あのときも飛び出したわけですね」
「そうだ」
メタトロンは、ドミニオンの追求を否定しなかった。
あのときとは、対抗戦決勝大会の夜のことだ。
どういうわけか、アザゼルが会場そのものを消し飛ばそうとした、あの夜のこと。
もし、メタトロンが出撃しなければ、あの会場にいた多くの人命が失われていたのは間違いないだろう。
皆代幸多も死んでいたかもしれない。
可能性は、極めて高い。
アザゼルは、大悪魔だ。
〈七悪〉に名を連ねる、〈嫉妬〉の悪魔。
その力は、ドミニオン程度ではどうしようもないものであり、埋めがたい差がある。
「だが、今回は釘を刺された。ルシフェルめ、おれの独断専行は許せないらしい」
「まあ、それはそうでしょう。あなたはその縁に縋り、大いなる計画を台無しにしてしまいかねない」
「同じようなことを言われたよ」
ドミニオンがメタトロンに目を向けると、彼は、困ったような顔をしていた。
縁に囚われたものは、結局、そうなってしまうのだろう、と、ドミニオンは、彼の目を見つめながら思うのだ。
衝動を止められない。
止めたくても、止めようがない。
だから、ルシフェルは、メタトロンに命じた。ルシフェルの命令は、天使に対しては絶対だからだ。そして、だからこそ、メタトロンはルシフェルに相談したのかもしれない。
自分を絶対命令で拘束させるために。
そうでもしなければ、すぐにでも飛び立ち、地上に介入してしまいかねない。
天使の使命を忘れ、目的を忘れ、大願を忘れ、人類の守護者たるを忘れ――思うがままに暴れ回り、縁のために全てを費やしかねないのだ。
それが、ドミニオンには理解できてしまう。
「だから、わたしに?」
「ああ。きみに」
メタトロンは、そういうと、ドミニオンの欠けた左手に力を与えた。超高密度の魔力が結晶化し、永久に失われたままだった左腕が、新たな力を得て、誕生した。
それがドミニオンの白銀の左腕である。
「これは命令でもなければ、強制でもない。ただの頼みだ。おれからの。きみへの」
ドミニオンは、新生した左腕を見て、それから、メタトロンの顔を見た。彼がなにを考えているのか、ドミニオンにははっきりとわかった。
同じ縁で結ばれた縁だ。
だから、彼は、頷き、羽撃いた。
天界から地上へと急降下し、虹色の結界の中へと突っ込んだのである。
そして、いまやドミニオンは、〈七悪〉の一柱、〈強欲〉のマモンと対峙している。