第六百十七話 特異点(二十一)
時間転移が起きたのは、これで何度目なのか。
幸多だけはなにひとつ変わらない状態のまま、そこに立っていた。
先程、マモンと愛理を見つめていたはずの場所に立ち尽くし、全身の傷の疼きに耐えながら、情景が変転する様を見ていたのだ。
混乱は、起きない。
死んでいったはずの人達が当然のような顔をして周囲にいて、死んだはずの天燎鏡磨がいまにも復活しようという状況。
「また、ここか」
幸多は、一人つぶやくと、ふらつく体を引き摺るようにして鏡磨に近づいていく。
混乱は起きていない。
幸多の思考は極めて明瞭であり、故にこそ、淡々と決まり切った作業を行うようにして、鏡磨との距離を縮めていくのだ。
杖長たちが幸多の姿に驚きの声を上げ、心配してくるのもいつものことだ。二人が無事だという事実に安堵をすることもない。
もう、そういう反応をするのも面倒になるくらい、同じ光景が繰り返されてきた。
終わらせなければならない。
この繰り返される時間から抜け出し、なんとしてでも、愛理をマモンの魔の手から解放しなければならないのだ。
そのためには、どうすればいいのか。
「杖長!」
幸多が誰もが驚くほどの大声を上げたのは、鏡磨の死体へと歩み寄っている最中のことだ。
「な、なに? どうしたの?」
火水は、幸多らしからぬ剣幕に度肝を抜かれながら、風土に目配せした。風土は頷き、二体の星霊、風神と金剛を前線へと送り込む。
天燎鏡磨は斃したが、機械型幻魔が大量に残っている。
それらの掃討を部下たちだけに任せるほど、二人も楽観的ではない。
が、同じくらい、幸多のことが気がかりだった。幸多は、突如、満身創痍の姿になっていた。なにかしら強力無比な魔法攻撃を受けたとしか思えない状態だった。
そんな彼が大声で叫んでいる。
彼らしくないと思えるほどの大音声。
風土は火水に幸多を任せつつも、そちらにも気を配った。
火水は、幸多に駆け寄りつつ、彼がなぜ、鏡磨の死体に近づいているのかがわからず、困惑を隠せなかった。
幸多は、といえば、裂魔の召喚を済ませている。全身の損傷が少しずつ、だが、確実に回復していて、痛みも遠のきつつあった。これならば、マモンが出現する頃には万全の状態になっているだろう。
《死なない》
そんな声を聞いた気がするが、それが幻聴なのは明白だ。
聞き覚えのある、しかし、聞き慣れない声。
いまも頭の中から消えてなくならないくらいだ。
凄まじく強烈な印象が残っている。
だが、その声のおかげで意識を保つことができたのもまた、間違いない。
幻聴が、いまにも崩れ落ちそうな意識を支えてくれたのだ。
おかしな話だ。
なにもかもが異様で、異常だった。
異常な時間が、無限に近く繰り返されている。
「これから起こることを全部説明しますので、しっかり聞いてください」
「え、ええ?」
火水は、幸多の側に降り立つと、なにを言い出すのかと思った。わけがわからない。
「これから起こること?」
「まるで未来を視てきたみたいにいうな?」
「はい、視てきましたから」
「えーと……」
「きみがこんな状況で冗談をいうとは……」
「思えないわよね?」
「……そうだな」
「冗談じゃありませんから」
幸多は、杖長たちの反応に苦笑した。以前と同じ、当然の反応。未来を視てきたなどという世迷い言を誰が信じるというのか。
星象現界の使い手ともなれば、この世に時間に干渉する魔法が存在することは知っているだろう。
伊佐那美由理の星象現界・月黄泉が時間を静止する、神の如き魔法だという事実を、である。
だが、その事実を知ったところで、未来から過去に時間転移してくるものの存在を想像することなど、できるわけもないのだ。
考えが、あまりにも飛躍しすぎている。
「まず、天燎鏡磨から雷の柱が立ち上って、鏡磨が生き返ろうとします」
「え?」
「なにを……いっているんだ?」
幸多の間近で聞いていた火水も、通信機越しに聞いていた風土も、困惑する以外になかった。幸多の目の前に横たわっているのは、鏡磨の死骸である。異形化した、ただの死骸だ。もはや魔素も脱けきって、なんの力も宿っていないただの物体。
全ての生物の行き着くところ。
終着点。
そこからなんらかの変化がもたらされるなど、想像もつかなければ、想定しようもなかった。
魔素の抜け殻に変化が生じること自体ありえないことだったし、ましてや、死者が蘇生するなど、あるわけがなかった。
だが。
「それを放置すると鏡磨が星象現界を発動し、誰も敵わなくなるので、即座に蘇生を阻止します」
「えーと……」
「……彼はどうやら本当のことをいっているらしい」
「それは……わかるわよ。こんな嘘をいう意味がないもの」
風土と火水は、多少の混乱を感じながらも、幸多が鏡磨の死体を真っ直ぐに見下ろす様が正気そのものだと言うことを認めた。狂っているようには見えないし、混乱しているわけでもなさそうだった。
彼は実際にそのような体験をして、ここにいる。
それならば辻褄の合う現象を二人は目の当たりにしていた。
幸多が、突如傷だらけになったという現象であり、幸多がいつの間にか全く別の場所に移動していたことだ。
本当に未来から過去に舞い戻ってきたのかどうかはともかく、なにかしら強い魔法の影響下にあったのは間違いない。
でなければ、幸多が不可視の攻撃を受けたことになるし、そのような機械型がどこかにいるということになる。
しかし、そんな幻魔は確認されていない。
「鏡磨は、ぼくが止めを刺します。問題はその後です。機械型を殲滅するのは当然として、その後、奴がやってくるんです」
「奴?」
「まさか、マモンか?」
「はい」
幸多が、風土の察しの良さに嬉しくなっていると、拍動が聞こえた。雷鳴のような鼓動とともに閃光が生じ、鏡磨の死体から雷の柱が立ち上る。
「まじ!?」
「きみの言ったとおりだな!」
火水と風土は、鏡磨の死体から立ち上った雷光と、雷鳴の如き拍動に全身が総毛立つような感覚を覚えた。凄まじい魔素質量がそこにあり、大気を掻き乱し、大地を鳴動させている。
鏡磨の体が反応し、両目が見開かれた。双眸が赤黒く輝けば、彼の手が自身の体から聳え立つ雷光の柱に触れようとする。
「何度も、何度も、気の遠くなるくらい何度も」
幸多は、鏡磨の心臓に裂魔の切っ先を突き刺して、そのまま胴体を両断した。鏡磨が幸多に向かって何事かを言おうとしたが、なにも言えないまま絶命する。
この光景も、何度視たことか。
少なくとも十回以上は、視ている。
それだけ鏡磨に止めを刺してきたということだが、後味の悪さに変わりはない。
頭がおかしくなりそうだった。
人を殺してしまったような錯覚がある。
既に人間であることを止めた怪物であっても、その姿は人間そっくりで、豊かな感情と自我、人間性すらも持ち合わせていたのが鏡磨だった。
彼は一度、火水によって殺されている。
そして蘇った彼は、完全なる化け物なのだが、それでも、幸多は、止めを刺したのだ。手には、刃が心臓を突き破った感触が残っていたし、絶命させた感覚が幾重にも折り重なって、頭の中で反響している。
それでも、幸多は、手を止めない。相変わらずその存在感を示す雷光の柱を仰ぎ見て、その終着点に瞬く虹色の結界に目を細める。
「繰り返してきましたから」
「繰り返してきた……」
「きみの言葉は嘘じゃない。それはおれが保証しよう」
「風土に保証されるまででもないけど」
火水は、幸多が、突如動き出した鏡磨に対し、なんのためらいもなく大太刀を突き刺した様を目の当たりにして、考えを改めた。
未だ頭の中には混乱と疑問が渦巻いているが、彼が既に体験してきた未来をなぞるかのように行動していることは、その迷いのなさからもはっきりと理解できる。
月黄泉が、時間に干渉する星象現界が存在するのだ。
幸多が未来から過去へと転送されてきたとして、なんら不思議ではない。
それがどういう目的で、どんな意味を持っているのかなど、いまはどうでもよかった。
いま考えるべきは、彼が自分たちになにを要求するかということだ。