第六百十六話 特異点(二十)
「やった!?」
誰かが上空で声を上げるのも無理のない話だった。
鬼級幻魔が大打撃を受けたのだ。
マモンは、頭を真っ二つに切り裂かれ、足を薙ぎ払われて、しかし、それでも、倒れなかった。背中から伸びた触手が彼の体を空中に固定し、火水と風神を吹き飛ばしたのだ。
「やれやれ」
マモンの下半分だけの頭部で、口が動いていた。人間ならば間違いなく絶命しているはずの致命傷だが、彼は、痛痒すら感じていないとでもいわんばかりの口振りだった。実際、その通りだということはわかっている。
だから、幸多は銃撃を続けていたのだし、星霊・金剛もまた、猛烈な勢いで突進していたのだ。
しかし、銃撃の尽くは触手の壁に阻まれ、金剛もまた、触手の集合体が構築した機械型幻魔とぶつかり合う羽目になってしまった。
「少し遊んでやったら、これだ。いい加減力の差を理解しなよ。ぼくはまだ、力の一部しか出していないんだよ?」
そんなことを言っている間にも、マモンの頭部も足も再生していく。あっという間の復元。並の幻魔とは比較にならない回復速度。
さすがは鬼級幻魔というべきなのだろうが。
そんなことは、わかりきっていたことではある。
幻魔を滅ぼす方法は一つしかない。
心臓を、魔晶核を潰すことだけだ。
それ以外のあらゆる損傷は、致命傷にはならない。
「だったら、なんだ?」
「本当、なんなのよ?」
「うん?」
マモンは、風土と火水に睨み付けられ、困ったような表情をした。彼らの言葉の意味がわからない。意図が伝わってこない。解のない疑問が生じる。
「おれたちが力の差を理解したとして」
「それで諦めるとでも?」
「……ああ、そういうことか。可哀想に。それが戦団の導士だもんね。絶対に勝てない相手でも、逃げる事なんてできるわけがないし、戦って死ぬことのほうがマシなんだ。そういう考え、本当に愚かで、浅はかだと思うよ」
「誰かの為に死ねるのなら、それは本望というものだ」
「同感……!」
「全く……理解できないな」
マモンが心底呆れ果てたような顔をしたときだった。火水と風土が二人同時に愕然とした表情を見せ、わけもわからないまま崩れ落ちていった。
幸多は、はっと二人を見たが、なにが起きたのか、瞬時には把握できなかった。
「だったら、今すぐ死になよ。ぼくのためにさ」
そういったときには、マモンの攻撃は完了していたし、南雲火水と矢井田風土の二名は、絶命していた。地中に潜った触手が、彼らを背後から襲いかかり、心臓を食い破ったのだ。
ただ、それだけのことだ。
それだけのことで、戦況は、またしても一変した。
いや、マモンからすればなにひとつ変わっていない。
戦力差は最初から圧倒的で、戦団側に有利な時間など、一秒たりとも訪れていないのだ。
幸多がようやくマモンの攻撃を理解したときには、全てが遅かった。
「マモン! おまえっ!」
幸多は、マモンを睨み付け、引き金を引いた。しかし、弾丸はマモンに届かない。触手に食らいつかれ、投げ捨てられて終わるだけだ。
「なに? 怒ればどうにかなるというわけ? 漫画やアニメじゃあるまいし、きみの隠された能力が解放されて、ぼくが倒れるなんてこと、あるわけがないだろう」
マモンは、嘲笑い、触手を展開した。無数の触手が蛇のような口を開き、禍々しい光線を吐き出す。四方八方への掃射は、地上や空中に待機していた導士たちを皆殺しにするためのものであり、幸多の重装甲を引き剥がすためのものだった。
幸多は、地上を滑走することで砲撃を回避しつつ、マモンとの距離を詰めた。触手がうねりながら幸多を包囲しようとしてくるが、銃撃で弾き飛ばして距離を離し、あるいは跳躍して触手そのものを飛び越える。着地とともに再度滑走し、マモンを眼前に捉えると、少年染みた彼の顔にわずかばかりに歪んでいた。不快感が浮かんでいる。
「きみは、なんなの?」
「ぼくは、ぼくだ」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけどな」
苛立ちを隠せないといわんばかりのマモンの言動に対し、幸多もまた、怒りを露わにして、引き金を引く。至近距離からの銃撃。さすがのマモンの触手も間に合わない。
銃撃の連射は、太腿や脇腹に確かに小さな穴を開けた。魔力が漏出する様は、血が噴き出すのに似ていた。
「痛くはないよ。こんなもの」
マモンは冷笑し、傷口を一瞬にして復元してみせると、触手の津波で幸多を飲み込んだ。
幸多の全身を覆う装甲が瞬く間に破砕され、粉々に打ち砕かれるていくと、幸多自身の肉体もまた、傷だらけになっていく。満身創痍。ずたずたに引き裂かれた肉体が悲鳴を上げ、激痛に次ぐ激痛が意識を苛む。意識が混濁し、なにも考えられなくなっていく。
「サタン様は、きみを特異点と仰った。そして、手出しはするな、ともね。だから、きみは見逃してあげる。きみだけは、生かしてあげる。それで十分だろう? 生きていられるんだから。他の全員死んでしまったけれど、きみは、生きているんだから。胸を張りなよ。あの〈七悪〉と戦って生き延びたんだって」
マモンの勝利宣言にも似た発言とともに、幸多は、触手の津波の中から放り出された。全周囲から締め付けられ、押し潰されるようにして痛撃を受けた幸多の体は、全身の骨という骨が折れ、内臓が傷だらけになっていて、意識すら朦朧としていく。
普通ならとっくに死んでいる。
《死なないよ》
どこからともなく声が聞こえて、幸多は、立ち上がった。
《死ぬわけがない》
幻聴は、誰かの声に似ている気がしたが、それが誰のものなのか、幸多には皆目見当もつかなかった。ただ、聞き慣れた声だとしか思えない。
「うん?」
マモンは、満身創痍の幸多が、なんの補助もなく立ち上がったことに疑問を持った。
ありえないことだ。
幸多が特異点とはいえ、常人以上の回復速度を誇るとはいえ、だ。
全身傷だらけなのは相変わらずだったし、再生も終わっていない。
なのに、彼は、立っている。
「ありえない」
マモンはつぶやき、天に影が差すのを認めた。一瞬、この遊園地を覆っていた虹色の結界に異変が生じ、その異変がなにものかによる強引な侵入だということを認識する。
「ああ、きみがまだだったね」
マモンは、天から降ってきた影が、神々しい光を放ちながら幸多の側に降り立つ様を見て、告げた。
「ドミニオン」
天界から舞い降りた天使型幻魔は、光を帯びた衣を纏い、光の輪と光の翼を広げながら、幸多を一瞥し、マモンに視線を定めた。その秀麗な顔立ちが怪訝に歪む。
「……まるでわたしがここに来ることを知っていたような口振りだな」
「知っていたよ。知っていたとも。きみとこうして対面するのも、何十度目かな」
「なに?」
「どうやらきみは、ぼく以上に半端者らしいね。だから、認識できない」
「気にしなくていいんだ、ドミニオン。彼の言うことは、まやかしだと思っていい」
「ふむ……」
幸多の発言にも、ドミニオンは訝しむ以外にはなかった。幸多もまた、ドミニオンがここに来ることを端から理解しているような素振りを見せている。
なにかが、おかしい。
だが、そんなことに拘泥している場合ではないのは、確かだ。
幸多は満身創痍で、立っていられるのがやっとといった状態だった。ドミニオンの力でもってしても、彼を回復してやることはできない。幸多は、魔素を持たない完全無能者だ。回復は、自己治癒力に頼る以外にはなく、それが他者よりも圧倒的に強力なものであるとはいっても、いまは不安しかなかった。
「大丈夫。死なないよ」
幸多は、幻聴に聞いた言葉をそのまま口にして、マモンを見据えた。
全身、激痛が疼き続けている。
常人ならば発狂してもおかしくないような痛みの奔流のただ中で、幸多は、立ち尽くしていた。
マモンが動き、ドミニオンが反応する。
愛理が目を見開き、叫びが聞こえた。
そして、時は繰り返す。