第六百十二話 特異点(十六)
美由理の星象現界・月黄泉は、この世界の時間を静止するという、物理法則もなにもあったものではない究極の魔法だ。
魔法そのものが物理法則を無視したものであるという事実を踏まえた上でも、無法極まりないというのが月黄泉の評価であり、月黄泉の詳細を知っている誰もが口を揃えていうのだ。
美由理は、無法者だ、と。
この世界の原理原則の外にいる存在、理外のものである、と。
魔法が発明されて二百年以上が経過したいまでも、時間に干渉する魔法は発明されていない。
空間干渉、空間転移系の魔法は大いに発明され、発展していったが、時間そのものに直接干渉するような魔法は、一切、発明されなかった。
魔法は万能に極めて近く、全能に程遠いとはよくいったものである。
死者を完璧に蘇生することも不可能だったし、時間を操ることも出来ない技術だからだ。
しかし、美由理が時間に干渉して見せた。
星象現界・月黄泉によって、時を止めて見せたのだ。
これにより、魔法で時間を操ることも決して不可能ではないのではないか、と考えられるようになった。
とはいえ、誰もが真似の出来るものでもないということもまた、わかりきってもいた。
星象現界は、魔法士固有の魔法である。
魔法士ごとに異なる魔法の元型たる〈星〉。
その象を世界に現す技術が星象現界なのだ。
時間に干渉する魔法は、美由理だけのものかもしれなければ、誰にも真似の出来ないことなのかもしれなかった。
もちろん、そんなことで戦団魔法局の時間魔法の研究が頓挫するわけもなく、加熱している一方らしいのだが、いまのところ成果は上がっていない。
時間に干渉する魔法の使い手は、現在、伊佐那美由理ただ一人なのだ。
そこに、愛理が加わった。
しかも、美由理とは異なる形での時間への干渉だった。
美由理は、時間を静止する。星象現界・月黄泉の発動中は、世界の時間が止まる。その間、なにものも、それを実感することはかなわない。
幸多以外の何者にも、だ。
美由理は、星象現界の能力を説明するのに苦労したそうだ。なにせ、誰にも認識できず、どのような機材を用いても観測できないし、記録もできないのだから、証明のしようがない。
時間を止めているとしか思えないような現象の数々を引き起こすことで、ようやく、月黄泉の能力が時間静止であると認識されることとなったという。
月黄泉を体験した幸多の証言は、美由理が本当の意味で時間を支配していたことを裏付けるものとなり、大きな騒ぎとなったことはいうまでもないだろう。
そして、愛理である。
愛理が無意識に発動した魔法は、おそらく、星象現界だ。
幸多は、愛理の瞳の奥に〈星〉が瞬くのを見た。それが本当に星象現界に必要不可欠な〈星〉なのかどうかは幸多には判断しようがないものの、そうとしか思えない煌めきを見たのだ。
そして、時間転移が起きた。
愛理が星象現界を発動させられるなど想像したこともなかったし、それが時間に干渉するどころか、時間を巻き戻す能力だというのには、驚嘆を禁じ得ない。
だが、しかし、いまはそのことをじっくりと考えている暇はなかった。
この状況を打開しなければならない。
でなければ、マモンのいうとおり、〈時の檻〉の中で、永遠に繰り返され続けるだけだ。
それでは、未来に進めない。
愛理が戦団最高峰の導士となる未来へ。
幸多は、そんな愛理を見たいと想った。
時間に干渉する能力を持った二人の導士が、規格外の能力を持った統魔とともに戦団を引っ張っていく、そんな未来を実現させたいと想った。
幸多は、魔法士ではない。
彼女たちと並び立つなどという烏滸がましいことはいえないし、いわない。
ただ、統魔が戦団導士たちの先頭に立ち、そこに美由理や愛理が並び立つ光景を見たいと想った。
そのためにこそ、この〈時の檻〉を突破しなければならないが、杖長たちに詳細を説明している暇はない。いや、説明したところで、どうにもなるまい。
二人が美由理の星象現界を知っているとして、愛理が時間転移を引き起こしているなど、理解してくれるものか、どうか。
たとえ幸多が突然重傷を負う光景を目の当たりにしたとしても、幸多が突如、わけのわからないことを言い始めたとしても、幸多が錯乱しているとしか受け取られないのではないか。
だから、幸多は、歯を食い縛って立ち上がり、鏡磨の死体に目を向けるのだ。
杖長や導士たちは、機械型幻魔の掃討戦を展開しようとしていた。
禍御雷・天燎鏡磨は死亡したのだ。死体など放置しても問題ないと考えているに違いない。
実際、幸多だってそう想っていた。そう確信していた。死者が蘇ることなど、ありえない。
全てが終われば、幻災隊が回収し、技術局によって解剖されるだろう、と、多くの導士と同じように考えていた。
禍御雷には、機械型同様、二つの心臓が与えられている。人間の心臓と、DEMコアである。そのどちらかが破壊されるだけでは死なず、完全に斃すには、両方を打ち砕く必要がある。
鏡磨は、杖長によって両方の心臓を破壊され、死亡した。
であれば、その死骸を放置するのは、当然の判断だ。なにも間違っていない。
魔力が霧散し、欠片すら残っていない抜け殻からあれだけの魔素質量が発生するなど、通常、ありえないことだった。
幸多は、機械型幻魔との激戦が繰り広げられていく中で、ただ一人、鏡磨の死体に近づいていた。幸多は満身創痍の傷を負っていることもあってか、戦力に数えられていないのだろう。
だから、杖長たちにも咎められなかった。
鏡磨の死体を見下ろす。
火水の背後からの一突きで心臓を抉られ、さらにDEMコアをも破壊されたがために絶命した鏡磨の顔は、なにかを見て、嘲笑ったまま凍り付いていた。
(ぼくだな)
幸多は、鏡磨が最期に自分に目を向けてきたのを思い出した。
今際の際、彼が幸多を嘲笑ったのは、どういう理由なのか。
幸多には想像もつかない。
どうでもいいことだから、かもしれない。
あの瞬間の鏡磨の心境などに興味はなかったし、いま考えなければならないのは、これからどうするべきなのかということだ。
このままでは、今までと同じ結果になる。
雷光の柱が立ち上り、それに反応して鏡磨が息を吹き返すのだ。
そして、鏡磨が星象現界を発動し、導士を全滅させた上で、マモンに斃される。
それがこれまで何度となく繰り返されてきた出来事だ。
運命と言い換えてもいい。
運命を塗り替えるには、〈時の檻〉を抜け出すには、どうすればいいのか。
幸多は、考える。
あの雷光の柱を発生させないのが一番いい気がするのだが、その方法が思いつかない。なぜ、どうやって発生したのか、その理由も原因も理屈もわからないのだから、どうしようもない。
(だったら)
幸多の脳裏には、一つの光景が浮かんでいた。
天満大自在天神を発動した鏡磨が、マモンに一蹴される瞬間だ。
何度となく繰り返されてきたその光景は、復活した鏡磨が不滅の存在などではないことを示していた。
だから、幸多は、待った。
周囲では、杖長率いる導士たちと機械型幻魔の戦闘が、激化の一途を辿っている。ただでさえ破壊され尽くしていた出雲遊園地が、跡形もなくなるのではないかというほどの激戦。
魔法が乱舞し、破壊が散乱する。
死が踊り、滅びが謳う。
その最中にあって、拍動が聞こえた。
そして、幸多は、何度目、何十度目かの雷光を見た。
鏡磨の死体がわずかに跳ねたかと思うと、強烈極まりない雷光が、その背中当たりから天に向かって立ち上り、柱となったのだ。
巨大な雷光の柱。
見るからに禍々《まがまが》しく、邪悪極まりない力の塊。
(ああ、そうか)
幸多は、ようやく理解した。
なぜ、あのとき、幸多は確信したのか。
なぜ、あの瞬間、杖長たちに駄目だといったのか。
なぜ、知っていたのか。
全ては、繰り返されていたからだ。
あれは、最初ではなかったのだ。
だから、確信があった。だから、声を上げた。だが、どうしようもなかった。
いまは、違う。
誰が反応するよりも早く、幸多は、鏡磨の眼前にいる。
鏡磨の心臓が再び動き出す音を間近で聞き、莫大な雷光が大気を掻き乱す様を目の当たりにしている。
あのときとは、違う。