第六百五話 特異点(九)
「……だったら、なんだっていうんだ」
幸多は、マモンを睨み据えた。
マモンには、余裕があった。人間に擬態していたときからなんら変わらない雰囲気は、彼がこの状況を全く意に介していないといわんばかりだ。
愛理を腕に抱き抱えたまま離そうともしないのは、どういう了見なのか。どういう意図なのか。なぜ、愛理だけは無事なのか。
愛理は、全身、血にまみれている。
その様子から察するに、愛理以外の避難者がマモンによって殺されたか、傷つけられたのだろう。そして愛理は気を失い、マモンの腕の中にいるのだ。
理由は、わからない。
「なんでもないよ。きみは魔法の才能がないから、そこにいる。特異点くん」
「特異点……」
幸多は、マモンの言葉を反芻すると、柄を握る手に力を込めた。
「ずっと、聞きたかった」
「ん? ぼくに? きみが?」
きょとんと、マモン。幸多の予期せぬ発言は、彼の興味をそそった。好奇心は、マモンの行動原理そのものだ。だから、つい、聞き返してしまう。
「なにかな? 答えられることなら、答えてあげてもいいよ」
「特異点についてだ。どういう意味なんだ? どうして、ぼくが特異点なんだ?」
「そう……なんだよね。ぼくもそれが知りたいんだ」
「はあ?」
「疑問なんだよ。疑問には、解が必要だ。解がなければ、ぼくの心は満たされない。胸の奥にさ。大きな孔が空いたままなんだ。だから、こうして行動を起こしたんだよ」
「だったら」
幸多は、マモンを強く睨み付け、地を蹴った。一足飛びに間合いを詰める。
「愛理ちゃんを離せよ!」
「……どうして?」
一瞬にして幸多とマモンの間に横たわっていた距離はなくなったが、しかし、幸多の斬撃は、マモンには一切届かなかった。
軽々と躱されてしまうのだ。
無論、幸多としても、全身全霊の力を込めて斬りかかれないという事情はある。
愛理が、マモンの腕の中にいるのだ。
人質に取られているも同然であり、マモンが愛理を盾にしてこないとは限らなかった。そうである以上、幸多は全力で攻撃できなかったし、先程までの投擲による攻撃も、牽制程度で精一杯だった。
愛理に当たることのないように細心の注意を払わなければならない。
「どうして? 特異点が、ぼくが狙いなんだろ!?」
幸多は叫び、薙魔を振るう。
マモンは、踊るように斬撃を躱して見せて、幸多を軽く蹴り飛ばした。力を込めていない蹴りは、しかし、闘衣の装甲部を容易く粉砕し、幸多を吹き飛ばす。そして、彼は小首を傾げた。
「うん?」
マモンが、動きを止めた。
幸多は、マモンの動作に合わせて薙刀を振り、切っ先が幻魔の側頭部に直撃する瞬間を見た。しかし、砕け散ったのは薙魔の刃のほうであり、衝撃が幸多の両手を貫き、柄を手放さなければならなかった。そのまま見えない力に弾き飛ばされ、空中で身を翻して着地する。
さらに飛び退いて距離を取ると、マモンの背中から伸びてきた金属質の触手が虚空を薙いでいた。触手のように見えるそれらは、先端に金属製の刃があった。虚空を切り裂き、地面を削り取るそれらが、一瞬にして天燎鏡磨を切り刻んだことを思い出す。
幸多は、警戒し、距離を取ったが、触手はさらに追いかけてきた。
「双閃!」
透かさず、二十二式双機刀・双閃を呼び出すと、両手に二刀一対の短刀を掴み取った。怒濤の如く押し寄せてくる無数の触手を、二刀を振り回して打ち払う。
金属同士が激突する音が、乱舞する。
「きみは、なにか勘違いをしているようだね。幸多くん」
「なんだって!?」
幸多は、全ての触手を打ち据えるなり、マモンとの間合いを詰めた。一足飛びに距離を詰めるが、しかし、今度は巨大な金属板が幸多の行く手を阻む。
「きみには手を出しちゃいけないんだよ。サタン様の御命令だからね」
「サタンの……命令……?」
「でも、だからといって、疑問は湧くんだ。特異点とはなんなのか。どうして、特異点なんてものが存在するのか。なぜ、特異点を放置しているのか。ぼくは、疑問が浮かぶと解が欲しくなるんだ。適切な答えが」
マモンは、幸多が金属板を飛び越えてくるのを見て、後退った。距離を取り、触手を動かす。すると、無数の触手が同時に蠢き、先端部を変形させた。刃から、蛇の頭をした砲口へ。
砲口から発射されるのは、赤黒い光線であり、それらは中空の幸多を貫き、蜂の巣のように穴だらけにした。
幸多が血を吐きながら地面に落下したが、着地すらも失敗したのは、それだけ大打撃を受けたからにほかならない。
常人ならば即死するはずの、致命傷。
「それなのに、きみも、本荘ルナも手出し無用っていわれてしまった。だったら、第三の特異点を研究するしかないだろう?」
「第三の……特異点……」
幸多は、全身を苛む激痛が中々収まらないことに苛立ちさえ覚えながら、手を付き、起き上がろうとした。視界がぼやけている。体中が悲鳴を上げていて、いまにも壊れそうだった。
それでも、立ち上がらなくてはならない。
でなければ、愛理を助けられない。
幸多の脳裏に過るのは、愛理の笑顔であり、悲壮な決意に満ちた表情だ。幸多を奮い立たせるために懸命になって叫んでくれた少女の顔。
いま、愛理は、マモンの腕の中にいる。そしてマモンは、彼女を人質として利用するつもりもなさそうであれば、大事にしてもいた。
そこから導き出される結論は、一つしかない。
「まさか、愛理ちゃんが特異点だっていうのか?」
「そのまさかだよ」
マモンは、血まみれの幸多を見遣りながら、静かにうなずいた。
「この子が、砂部愛理が第三の特異点なんだ。ぼくが発見した、ぼくだけの特異点。だったら、どのように調べたって、解剖し尽くしたって、問題ないよね?」
当然の権利を主張するかのようなマモンの発言に対し、幸多は、全身の血液という血液が沸騰するかのような感覚に襲われ、無意識のうちに立ち上がっていた。
「ふざけ――」
だが、幸多の怒声は、轟音に掻き消された。
いつの間にか幸多を包囲していた無数の触手が、その砲口から光線を発射したのだ。そして、数多の赤黒い光が、全周囲から一点へと集中し、閃光が舞った。
神々しい光だった。
それは空から降ってきて、禍々しい光線の尽くを弾き飛ばし、マモンの触手をも吹き飛ばしていく。
爆煙が視界を埋め尽くしたが、その爆風の中心に降り立った魔素質量がなんであるかについては、マモンも想像がついた。
「……随分と、遅かったね。もう少し早く介入してくると思ってたんだけど」
「お互い、事情があるものだ」
「複雑なのは、調べ甲斐があるから嫌いじゃないよ。でも、解がないのは、嫌いだな」
マモンの発言に応じるようにして爆煙が消し飛び、一体の天使が姿を現した。
人間たちがいうには、天使型幻魔だ。それも、最初に発見された天使型幻魔だった。その名は、マモンも知っている。
「ドミニオン、だっけ?」
「そうとも。我が名はドミニオン。主天使なり」
ドミニオンは、マモンに向かって、敢然と名乗って見せた。
悪魔同様人間に酷似した姿態の持ち主ではあるが、属性としては相反する存在に思えてならない。悪魔が闇ならば、天使は光に属するかのようだった。
頭上に戴く光の輪に始まり、身に纏う神々しい衣も、白銀の装甲に覆われた片腕も、なにもかもが神性を帯びているかのようだ。
禍々しさこそが全ての悪魔と対極を成す。
それこそが、天使の全てだ。
「そのまんまだね。まあ、ひとのことはいえないけどさ」
マモンは、苦笑を交えつつ、自嘲も忘れなかった。
悪魔たちももまた、伝承にある悪魔の名前をそのまま用いている。マモンもそうだったし、アスモデウスもアザゼルも、バアル・ゼブルも、サタンさえも、そうだ。
だが、それが幻魔というものだったし、そればかりはどうしようもないのだろう。
故に、天使たちが古来人類によって想像されてきた天使の名を用いるのも、道理なのだ。
そんな幻魔たちのやり取りを、幸多は、ドミニオンの光の翼の内側で聞いていた。
ドミニオンの光の翼が、幸多をマモンの集中攻撃から守ってくれたのだ。
幸多は、わけがわからず、混乱しかけていた。