第六百話 特異点(四)
呼吸が、荒い。
体温が上がっている。
鼓動が、加速し続けている。
脈打つ心臓が、血の流れが、細胞の疼きが、幸多の意識を席巻している。
常に全身全霊の力を込めて戦い続けているからだ。そして、そうしなければ相手の攻撃に対応できない。
天燎鏡磨の星象現界・天満大自在天神は、武装顕現型の星象現界だ。
麒麟寺蒼秀の星象現界・八雷神に似て非なるそれは、身振り手振りで攻撃魔法を発動するという点ではよく似ていた。
ただ右手を振るだけで巨大な雷球が槌のように打ちつけられ、軽く右足で虚空を蹴れば、雷撃が虚空を駆け抜けた。
幸多は、鏡磨の一挙一動を見逃すことができなかった。一瞬でも見逃せば、その瞬間、痛撃を喰らうことになる。
鏡磨の動作の一つ一つが、極めて疾い。
星象現界によって強化されているのだから当然だ。圧倒的な威力と超反応、超高速の戦闘速度――それこそ、星象現界最大の強みなのだ。
星象現界を発動するだけで、総合的な戦闘能力が大幅に増幅する。
鏡磨の戦闘能力は、コード666を発動した後よりも格段に上がっていて、比較にもならないほどだった。
歩くだけで落雷が生じ、動くだけで雷撃が跳ね回る。
わずかな動作が致命的な一撃に繋がりかねない。
「星将もいなければ、杖長は全滅してしまった。きみたちに未来はない、ということだ。少し、残念だよ」
鏡磨は、生き残ったわずかばかりの導士たちが懸命に戦おうとする様を見遣りながら、しかし、同情などはしなかった。
戦団に入ったということは、こういう状況に直面する可能性を受け入れたということにほかならない。
命の危機に直面する可能性を。
死に瀕する明日を。
呆気なく殺される未来を。
実際、二名の杖長を始め、多数の導士が呆気なく命を落としている。
鏡磨の星象現界の前に、為す術もなく散っていったのだ。
鏡磨は、ただ、この全身に満ちた莫大な星神力を振るうだけで良かった。
自分は全能の存在になったのではないか、という錯覚がある。
それがただの錯覚だということは承知しているが、しかし、自分にこれほどまでの才能があったということには、驚きを禁じ得なかったし、いつにない興奮が鏡磨の意識を包み込んでいた。
昂揚しているのだ。
その高揚感たるや、敵対企業を徹底的に打ちのめしたとき以上だった。
幸多は、無論、そんな鏡磨の余裕ぶりを見ているだけではなかった。
鎧套・武神を身に纏った幸多の戦闘速度は、鏡磨になんとか食らいつける程度にはあったからだ。
幸多が飛びかかり、斬魔でもって斬りつければ、さすがの鏡磨も直撃を嫌って飛び退いた。その移動の際に左足を軽く掲げたものだから、幸多は、透かさず左に飛んだ。
広範囲に渡って降り注ぐ雷の雨は、蒼秀の伏雷によく似ている。破壊力も、精度も、範囲も、蒼秀のほうが遙かに上回っているようだが、そんなことはなんの慰めにもならない。
幸多にしてみれば、鏡磨のそれも十二分に破壊的だった。
「もっと、歯ごたえのある戦いが出来るかと期待したのだがね」
「杖長たちに斃された奴の言えたことか!」
「それは、禍御雷だろう」
鏡磨は、音波空護が放った巨大な魔法弾に対しては、全周囲に琥珀色の雷球を展開することで対処した。雷球が防壁となり、空護の魔法を弾き飛ばす。そしてそのまま、空中に浮き上がると、無数の雷撃を雨のように降らせた。
いや、雨などではない。
大瀑布の真っ只中にいるかのような雷撃の嵐が巻き起こり、破壊に次ぐ破壊が、ハイパーソニック小隊を襲った。
小隊を覆う魔法壁が打ち砕かれ、空護を始めとする導士たちが次々と雷に撃たれ、灼かれていく。
あっという間だった。
ハイパーソニック小隊が全滅すると、鏡磨は雷球を解除して、空中から幸多を見下ろした。
幸多は、黒焦げになった空護たちの亡骸が、重力に引っ張られるままに崩れ落ちていく様を見ていることしか出来なかった。
声も、出ない。
「きみは、どうするかね?」
「どういう……意味だ?」
幸多は、斬魔の柄を強く握り締めながら、鏡磨に視線を移す。その目を睨み据えた。雷光を帯び、輝く双眸には狂気しか感じられない。
正気ではない。
いや、そんなことは最初からわかっていたはずだ。
彼が禍御雷として襲来したときから、天燎鏡磨にあるのは、狂気だけだった。
狂っていなければ、このような惨状を引き起こすことなど、出来るわけがない。
「平伏し、頭を垂れ、許しを請うのだ。そして、わたしに忠誠を誓え。そうすれば、きみは助けてやってもいい」
「なにを……」
いっているのか。
幸多は、声にならない声で叫んでいた。喉が張り裂け、血が噴き出すほどの絶叫とともに飛びかかり、斬りつける。しかし、斬撃は、雷光の帯に受け止められてしまう。雷光の帯は、そのまま斬魔の刀身に絡みつくと、刀身を粉々に打ち砕いてしまった。
そして、閃光が瞬き、幸多の全身に激痛が走った。
鏡磨は、幸多の全身を覆う分厚い装甲が一瞬にして崩壊する様を見ていたし、彼の全身から鮮血が噴き出し、地上に落ちていくのも見届けていた。
弱い。
弱すぎる。
他に視線を移せば、攻撃の機会を窺う導士たちの姿が散見された。
十数名。
鏡磨は、それら導士を雷光の帯で薙ぎ払い、皆殺しにして見せると、ゆっくりと地上に降下した。
降り立った先には、幸多の姿がある。
彼は、機械装甲の残骸の中で血反吐を吐きながら、それでも立ち上がろうととしていた。鏡磨の雷に斬られ、灼かれた傷口からは止めどなく血が流れているというのに、だ。
「生命力だけは、杖長以上だな」
鏡磨は、幸多の傷口が塞がっていく様を見ていた。見る見るうちに、瀕死の重傷が軽傷へと変わり、負傷した事実さえも掻き消していく様は、魔法でも使っているのではないかとさえ思えるほどだった。
「本当にきみは完全無能者なのか?」
「だったら、どうだっていうんだ」
「聞いているのだよ。きみが何者なのか、と」
幸多は、鏡磨がこちらを警戒一つせずに棒立ちに突っ立っているのを見ていた。全身を苛む激痛が急速に収まっていき、傷口という傷口が塞がっていくのが感覚的にわかる。呼吸が落ち着き、鼓動も安定していく。
ただ、それで状況が良くなるわけもない。
依然、鏡磨の圧倒的優勢であることに変わりはないのだ。
導士たちは、幸多を残して全滅してしまった。頼りの杖長二名が真っ先にやられた上、多数の導士たちが一瞬にして皆殺しにされたのだ。
残っているのは、幸多ただ一人。
「特異点。それがきみを示す言葉だそうだが、どういう意味か、わかるかね?」
「わかるわけないだろ……!」
「ふむ……それもそうか。まあ、いい。そのことは後でじっくり調べれば良いのだからね」
「じっくり調べる……?」
「そうだとも。きみを連れ帰り、調べさせてもらうとしよう」
「冗談――」
「――ではないよ」
幸多の怒声は、鏡磨の雷光に掻き消された。凄まじい雷光の奔流が幸多を飲み込み、吹き飛ばしたのだ。意識が消えてなくなるのではないかというほどの痛みがあった。
けれども、幸多の意識は途絶えず、激痛を余す所なく味わうこととなったのだが。
いつの間にか倒れ伏していたのは、いま直撃を食らった雷撃による結果だ。
地面に手を付いて顔を上げれば、すぐ目の前に鏡磨の足があった。気がついたときには、顎を蹴り上げられ、雷撃による追撃を受けていた。
「きみに選択権はないよ。マモンにとってのわたしがそうだったように、きみは、わたしの実験動物になってもらう。そして、特異点がなんなのかを解明し、わたしこそがサタン一派を殲滅して見せようじゃないか」
鏡磨は、空中の幸多に次々と雷撃を浴びせながら、その肉体の堅牢さ、強固さに驚きを禁じ得なかった。常人ならばとっくに塵と化しているはずだ。形が残っているだけでも尋常ではないというのに、幸多は、意識すら残っている。
それこそが、マモンの主君たるサタンが彼を特異点と呼ぶ理由なのか、どうか。
鏡磨にはわからないが、興味は湧いた。そして、特異点こそがサタン一派を出し抜く数少ない方法なのではないか、と、思ったのだ。
幸多は、連続的に浴びせられる雷撃の凄まじさに意識が混濁しかけていたものの、それでも自分が生きていることを理解していたし、拳を握り締めていた。なんとかして鏡磨を殴りつけることはできないか、と、彼は考えている。
あるのは、そのことだけだ。
せめて、一矢報いなければならない。
でなければ、やっていられない。
それだけでは失われた命の数に全く釣り合わないが、しかし、自分に出来ることと言えば、いまやそれくらいしか残されていないのだ。
その矢先だった。
「あれ? なんでまだ生きてるの?」
少年の声が、幸多の脳に直接響くように聞こえてきたかと思えば、彼は地面に叩きつけられた。いや、違う。
鏡磨による攻撃が止んだのだ。
それによって、幸多は、鏡磨が声の主に意識を向けたのだと理解し、幸多自身もまた、少年に目を遣った。
聞き覚えのある声だった。
忘れもしない、マモンの声。
見れば、マモンは、人間のような姿でそこにいた。
天満大自在天神によって破壊され尽くした遊園地の一角。
翡翠色の髪の少年は、幸多のよく知る少女を抱き抱えるようにして、そこにいたのだ。
「愛理ちゃん!」
気がついたときには、幸多は叫び、マモンに飛びかかっていた。
マモンは、幸多を一瞥し、鏡磨に視線を戻した。
疑問が、渦を巻く。