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第五百九十九話 特異点(三)

 バアル・ゼブルは、咄嗟とっさに飛んだ。前方へ。肉の森から果汁かじゅうの河を超え、穀物こくもつの丘へと至る。

 が、そんなことをしても無駄だということもまた、はっきりと理解していた。

 なぜならば、敵は、彼の体内にいるのだ。

 彼自身が体内に取り込んだ。

 大量の肉とともに消化し、己が力の一部に変えてしまおうとしたのが間違いだったのだ。

 失態に気づいたときには、もう遅かった。遅すぎるというべきか。

 凄まじい痛みが、バアル・ゼブルの背中に走った。縦に亀裂が入ったかと思うと、その縁に暗紅色の指がかかり、裂け目の奥からアザゼルの体が抜け出してくる。

 バアル・ゼブルは、凄まじい痛みにのたうち回ることすらできないまま、アザゼルが復活するのを待つことしかできなかった。動けなかった。抵抗しようがなかったのだ。

 物理法則など完璧に無視した事象だが、魔法力学的にはありえないことではない。

 いや、ありえないことなどありえない――というのが、魔法力学だ。

 バアル・ゼブルは、マモンからの受け売りの言葉を脳裏のうりに浮かべながら、ようやくアザゼルの足の爪先が彼の背中から出てくるのを見た。

 バアル・ゼブルの魔眼の視界は広い。

 だから、背後で起こっていることもはっきりと見て取れるのだ。

「きみがただの生物じゃなくてよかったよ。胃とかないからね」

 などと、アザゼルは、傷ひとつない魔晶体ましょうたいを見せつけるようにして、バアル・ゼブルを見下ろした。バアル・ゼブルの背中は割れたままであり、そこから大量の魔力が噴出し続けている。

 致命傷だろう。

 放っておくだけで死ぬ、などということはないにせよ、二度と復元しないのだから、生き延びることができたのだとしても、これから先、不便極まりないことには違いない。

「胃液に塗れなくて済んで、良かった」

 アザゼルの言葉は、いつだって響かないし、重みがない。ただ空疎くうそで、空気中に満ちた魔素に押し潰されて消えていくだけだ。

 その軽薄さがどうにも気に食わないというのは、バアル・ゼブルとマモンの数少ない合意点であり、だからこそ、マモンは行動を起こしたのかもしれないし、バアル・ゼブルは、そんな彼を応援したのだ。

「胃液って臭いらしいじゃないか」

「クソが」

「さっきからそればかりだね、きみ。余裕がないんじゃないか?」

「うるせえ」

 バアル・ゼブルは、気力を振り絞って立ち上がると、振り向き様に両腕を振り抜いた。虚空に無数の亀裂を走らせ、アザゼルを攻撃するが、そのときには、アザゼルは、頭上に移動している。

「無駄だよ、無駄無駄。きみがなにをしようとも、おれには届かない。おれときみは違うんだ。おれは悪魔で、きみは半端者はんぱもの。頭も、能力も、魔力も、なにもかもが半端なきみたちが、完全な悪魔であるおれにかなうわけがない」

 アザゼルは、眼下にバアル・ゼブルを捉え、彼の悪足掻わるあがきを見ていた。割れた背中から魔力を垂れ流す彼の姿は、悪魔に相応しいとさえいえるのだが、しかし、それは滅びへと向かっているといってもいいものでもある。

 バアル・ゼブルが四つの目でアザゼルを睨んだ。顔面にある二つの目と、額の上の二つの亀裂〈魔眼〉からなる四つの目。その全てに憎悪の火を灯していた。そしてそれは、怒りにも等しいものだ。

 憤怒ふんぬが、炎の如く燃え盛っている。

「それが道理というものさ」

 アザゼルは、告げ、右手を鳴らした。超高密度の魔力の渦がバアル・ゼブルの全身を飲み込み、穀物の丘全体を消し飛ばす。

 アザゼルの魔法の後には、なにも残らなかった。

 いや。

「む……?」

 アザゼルは、全てが消し飛んだはずの空間にわずかばかりの魔力の残滓ざんしを見出すと、透かさず追いかけた。

 

 凄まじい痛みが、背中から断続的に襲いかかってくるのには、慣れた。

 痛覚そのものを遮断すればそれだけで済む。

 それくらいのこともできないバアル・ゼブルではなかったし、だから、どうということもないと思おうとしたのだが、そういうわけにはいかないらしかった。

 アザゼルによってつけられた背中の傷口は、どうすることもできなかったのだ。塞ぐことも、治療することも、ましてや復元することすらできない。

 理由は、わからない。

 バアル・ゼブルの肉体は、魔晶体である。幻魔の肉体と同じだが、密度や質量に大きな違いがあり、だからこそ、回復速度も並の幻魔とは比較にならないほどのものだった。

 それなのに、アザゼルの攻撃を受けた箇所というのは、まったく回復しなかった。

 しかも、だ。

 背中の傷口からは、常に魔力が抜け出しているのがわかった。

 だから彼は、空間転移の際、穀物の丘のすべてを喰らい尽くして見せたのであり、それによって少しでも魔力を確保したのだが、それもいつまで持つものか。

 バアル・ゼブルは、空間魔法の使い手だ。アザゼルの超強力な攻撃魔法が発動する隙を見逃さず、空間転移を行うことなど朝飯前だった。

 とはいえ、咄嗟とっさのことであり、自分がどこに移動したのかについては、少しばかり考える必要があった。

 痛みもある。

 断続的な激痛が思考を阻害し、冷静さを失わせるようだった。ここまでの痛みを感じたことは、彼のこれまでの人生でなかったのではないか。

 いや、ただ一度だけ、これ以上の痛みを経験したことがあった。

 生まれ変わりの痛み。

 そのことを思い出すだけで、吐き気がした。

 思考が乱れ、冷静でいられなくなる。血反吐を吐いた。なぜ、そんなものが悪魔たる自分の体から吐き出されるのか。

(半端者……だからかよ)

 バアル・ゼブルは、悪態を吐くと、ゆっくりと体を起こした。

 なんとか、この暗黒空間がどこなのかを考えようとする。

 暗黒空間。

 別名ハデスともいう闇の世界は、本来、〈クリファ〉全体が暗黒の闇に覆われた領域だった。それを〈七悪しちあく〉のために分割し、それぞれ好き放題にさせた結果、完全なる闇の部分というのは、極めて少なくなっていったようである。

(ってことは……ここは〈傲慢〉の間か?)

 アーリマンは、闇を司る。

 だからこそ、己が〈殻〉を闇の世界と名付けるほどの暗黒空間としたのだろうし、〈傲慢〉の間は、一切の光が存在しない、完全なる暗黒の闇の領土なのだ。

 となれば、バアル・ゼブルが必死に逃げ込んだこの空間は、アーリマンの領土と思えてくるのだが、しかし、違和感もあった。

 〈傲慢〉の間は、広々とした空間に長大な玉座があることで知られているからだ。

 その頂点に君臨するアーリマンによって、〈傲慢〉の間全体が睥睨へいげいされており、どこにいても、あの紅く輝く双眸が見えるはずだった。

 それが、ない。

 では、ここはどこなのか。

 〈嫉妬〉の間にも見えないし、〈色欲〉の間にも見えない。もちろん、無意識とはいえ〈強欲〉の間に戻るはずもない。

(まさか……な)

 バアル・ゼブルは、一瞬脳裏(のうり)を過った考えを振り払ったものの、しかし、ほかに考えようがないとも思った。

 この闇の世界には、七つの領域がある。

 〈暴食〉、〈傲慢〉、〈嫉妬〉、〈色欲〉、〈強欲〉、〈怠惰〉、そして、〈憤怒〉という〈七悪〉それぞれの領土である。

 封鎖されている〈怠惰〉の間には、万にひとつも逃げ込む可能性はない。サタンによって完全に封鎖されていて、彼の空間魔法でも入り込めなかったからだ。

 では、やはり、と、彼は考える。

 そして、暗黒空間の一点になにかがあることに気づいた。

 玉座だ。

 ただし、アーリマンの玉座とは形も違えば、配置も異なっている。アーリマンは、高所から他者を見下ろすのを好んだ。

 〈傲慢〉が故、だろう。

 闇に慣れた目が見つけた玉座は、どうにも異形だった。なにやら骨を組み合わせて作られたようにも見えるし、その骨も、異形のものばかりだった。特に背もたれは、竜の頭蓋骨を想起させた。

 正面から見れば、竜の口の中に座っているように見えるのではないか。

 そんな風に考えながら、バアル・ゼブルは、玉座の正面に回り込んだ。無論、全力で警戒しながら、だ。

 しかし、どれだけ警戒しようとも、自分にできることなど限られている。

 残る魔力はわずかばかりであり、高度な魔法を使うには、集中力が足りなすぎた。

 痛みと共に霧散していくのだ。

 そして、玉座の正面に回り込んだとき、なにものかが座っていることに気づき、彼は、思わず平伏へいふくしてしまった。

 無意識の反応。

 それがこの身に染みついたものであることは、誰よりもバアル・ゼブル自身がよく知っていた。

 己の支配者が、王が、目の前に居るのだ。体が震え、血の気が引いていくような感覚があった。

 結果的に、絶対者と対峙してしまったのだ。

《さっきから随分と騒がしいね》

 バアル・ゼブルは、はっと、顔を上げた。幾重にも響く声音の中に聞き覚えのあるものが混じっていたからだ。

 そして、顔を上げた瞬間、彼は、黒衣の影に隠れた王の素顔を認め、愕然がくぜんとするのだった。

「なぜ、おまえがここにいる!?」

 彼が何事かを叫ぼうとした瞬間、ぐしゃりという音がした。

 その音が自分の死の音だと気づいたときには、彼の意識は、途絶えていた。

「あー……」

 〈憤怒〉の間に入り込むなり、アザゼルが思わず声を上げたのは、竜の玉座がどす黒い魔力を大量に浴びて変色している様を目の当たりにしたからだ。

 王の前方に散らばったバアル・ゼブルの死体になど、興味が持てなかった。


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