第五百九十七話 特異点(一)
「だいじょうぶ……絶対、だいじょうぶなんだから」
愛理は、自分に言い聞かせるように、何度もそのような言葉を紡いでいた。
出雲遊園地の地下深くに設けられた避難所に、彼女はいる。
央都四市は、戦団を主体としつつも、都市開発機構とともに計画的に設計し、開発された都市である。
その設計思想の根幹にあるのが、魔法社会という前提だ。
魔法社会における市民の日常を、市民の安穏たる日々をどのようにして護るのか。
魔法時代が幕を開き、燦然たる輝きを放ち始めて、二百年余りが経過した。
魔法時代、混沌時代、そして現代へと時代は移ろい、世界は変わったが、根底にあるものは変わっていない。
つまり、魔法だ。
魔法こそ、この社会の根本、根幹といっていい。
万能に近く、全能に等しいこの力は、今や人々が生きていく上で欠かせないものとなった。
そして、幻魔の存在もまた、魔法社会においては見過ごしてはいけないものだろう。
魔法士が存在する以上、幻魔もまた、存在する。
なにより、現代における幻魔とは、かつての人類以上に繁栄した種なのだ。
地上は、幻魔によって埋め尽くされていて、人類生存圏と呼べる領域は、地球上のごくわずか一部に過ぎない。
そんなわずか一部の地域に央都四市があるのだが、央都四市は、幻魔が存在する世の中であることを前提として考慮し、幻魔によって引き起こされる様々な災害に対応するべく、計画的な開発が行われた。
各地の道幅が広いのも、建物の高度制限が低いのも、地下通路が張り巡らされ、各所に避難所が設けられているのも、そのためだ。
出雲遊園地は、大社山の中腹の開けた土地を利用して作られた遊園地だが、当然のようにその地下には多数の避難所が設置されており、地上と地下を結ぶ昇降口が園内の各所にあった。
幻魔災害は、どこでだって起こり得る。
出雲遊園地だけ例外的に起きない、などということはないのだ。
これまでだって何度となく幻魔災害が起きていたし、そのたびに多かれ少なかれ被害が出ている。
そのたびに機能してきたのが、地下の避難所だ。
魔法合金製の建材によって作られた避難所は、安全面では完璧だったし、満員であっても数日間過ごせるだけの飲食物が備蓄されている。
電力も通っているし、水もある。
広さも十二分にあり、避難場所としての問題はなにひとつ見当たらない。
清潔さを保つには、魔法を使えばいいだけのことだし、問題はない。
だからといって、胸の奥に渦巻く不安を拭い去ることが出来ず、愛理は、携帯端末を強く握り締めるのだ。
愛理の携帯端末の表示板には、幸多の顔写真が映し出されている。
心配なのは、幸多のことだ。
幸多を信じていないわけではないし、これまで数多くの死線を潜り抜けてきた彼がそう簡単に負けるなどと思ってもいないのだが、しかし、愛理はどうにも不安でならないのだ。
漠然とした不安が、胸の奥で膨れ上がっている。
理由はわからない。
ただただ、不安で仕方がないのだ。
かといって、愛理に出来ることなどなにもない。避難所の片隅で膝を抱えて、避難警報が解除されるのを待つしかない。
避難所内には、愛理以外にも多数の避難者がいて、それぞれに肩を寄せ合いながら、地上の様子はどうなっているのか、本当に安全なのか、戦団はどうしているのか、など、様々に話し合っている。
そういった声も、愛理の不安を掻き立てるのだ。
「だいじょうぶだよ」
ふと、声をかけてきたのは、愛理と同年代か、少し年上くらいの少年だった。
翡翠《ひsるい》色の髪の少年で、赤黒い虹彩が綺麗だった。あどけない顔立ちだけを見れば、愛理のほうが年上に思えたが、背丈は彼のほうが少しばかり上だった。
彼は、手にした特殊合成樹脂製の容器を愛理に差し出してきた。
「喉、乾いたでしょ」
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
愛理が飲み物を受け取ると、少年は、彼女の隣に腰を下ろした。
広い広い避難所の一角。
天井照明の光は柔らかく、避難者の心を落ち着かせる働きがあるといわれている。が、愛理は、天井照明を見ても、心がざわつくばかりで、だから幸多の顔写真を見るしかないのだ。
幸多の顔を見ていれば、少しは落ち着けるからだ。
少年から受け取った飲み物を口に含み、飲み込む。確かに、喉が渇いていた。乾ききっていたといっても、過言ではなかった。
地上での大事件以来、大混乱が遊園地全体を席巻していて、ここに辿り着くまでが大変だったのだ。
「少しは落ち着いた?」
「うん……少しは」
「きみは、本当に正直だね」
「そうかな?」
「そうだよ」
少年は、その視線を愛理から避難所の各所でああでもないこうでもないと言い合っている人々へと移しながら、いった。
「普通、こういうときは、嘘でも落ち着いたっていうものじゃない?」
「……そうかも」
「そうだよ」
「そうなのかな……」
愛理には、少年の言っていることがよくわからない。実際、落ち着いていないのだから、ほかに言い様がないのだ。
地上で魔法犯罪が起き、避難警報が鳴り響いた。となれば、一般市民は、避難指示に従って、近場の避難所に向かうしかない。
だが、ここは遊園地で、夏休み最後の日曜日を当て込んだ市民が大勢集まっていたことによって、大混乱が起きた。
警備員による誘導は整然としたものだったが、魔法攻撃によって次々と倒壊するアトラクションや施設を目の当たりにすれば、平常心を保っていられないのも当然だろう。
巻き込まれた人も少なくない。
幸い、死者は出ていないようだが、重軽傷者の数は千人を下らないという。
それほどの大惨事だったのだ。
愛理は、本当であれば、幸多と一緒にいたかった。幸多が手を握ってくれていれば、どれだけ心強かったか。
どれだけ安心できたか。
不安など一切抱くことなく避難所に駆け込み、緊急事態が解除されるのを待つことができただろう。
けれども、幸多は、幸多だ。
閃光級二位の導士であり、愛理の魔法使いなのだ。
であれば、送り出すしかない。
それが愛理の大好きな幸多なのだから。
そして、愛理は、避難所へと向かった。洪水のような人波の中を移動するのは困難を極めたが、警備員や携帯端末の誘導のおかげもあって、やがて濁流のような人波も清流へと変わっていった。
昇降口から地下へ。
その間も人々は口々に様々なことを言い合っていたが、愛理は、幸多の心配だけをしていた。
だから、なのかもしれない。
愛理は、道を見失ってしまった。
いつの間にか、たくさんいた避難者の姿が消えていて、地下通路の真っ只中に一人取り残されていたのだ。思わず足を止めたがために、そうなってしまったに違いない。
不安が膨れ上がり、踵を返したい衝動に駆られた。
幸多に会いたい。幸多と一緒にいたい。せめて、幸多を視界に収めていたい――そんな想いが、愛理の胸の内に膨れ上がったのだ。
そんなときだ。
「こっちだよ」
愛理に声をかけてきたのは、翡翠色の髪の少年だった。全身黒ずくめの少年は、夏の季節にも、遊園地の雰囲気にもまったくそぐわないものの、そんな格好の人間などいくらでもいたため、気にも止めなかった。
なにより、あの瞬間、声をかけてくれたことに感謝こそしたのだ。
愛理は、あのとき、彼が声をかけてくれなければ、地上に戻り、幸多の足手纏いになっていたかもしれないからだ。
それから、彼は、愛理に収容人数の少ない避難所を教えてくれた。
どこもかしこも収容人数一杯なのは、それだけ入場客が多かったと言うことだろうが、避難所の数が足りていないわけではないのは、さすがというべきだろう。
もし避難所が溢れかえるようなことになれば、大惨事になっていたかもしれない。
「……そういえば、まだ名前を聞いていなかったね?」
ふと、少年に問われて、愛理は、彼を見た。翡翠色の髪は、天井照明を浴びてきらきらと輝いている。
「わたし? わたしは愛理だよ。砂部愛理。あなたは?」
「ぼくの名前は、東雲亞門。マモンって呼んでよ」
「マモン? それがあなたのあだ名?」
「まあ、そういうところかな」
東雲亞門と名乗った少年は、そういってはにかんだ。
屈託のない笑顔だった。




