第五百八十九話 雷神、光神、月女神(一)
その日、第七・第八衛星拠点を担当する第九軍団は、普段通りに任務に当たっていた。
当たり前の話だ。
今日という一日になにか特別な意味があるのだとして、過去になにか大きな事件があったのだとして、それによって本日なんらかの警戒するべき事象が起きるのではないかと想定するのは、夢想家や空想家のすることであって、常人のすることではない。
ましてや、衛星拠点に滞在中の導士たちに出来ることなど、空白地帯の警戒くらいしかないのだ。
央都四市で大規模幻魔災害が起きたところで、衛星拠点に滞在中の六軍団には打つ手がない。
虚空事変、天輪スキャンダル、機械事変――この数ヶ月の間にいくつもの大規模幻魔災害が起きている。
そのたびに動員されるのは、央都防衛任務に当たっている軍団の導士たちであり、衛星任務中の導士ではないのだ。
央都四市の守りは、防衛任務に当たっている六軍団に任せておけばいい。
衛星任務に当たっている六軍団は、央都防衛網の維持に全力を尽くすべきだ。
それこそが人類生存圏の安寧に繋がるのだから、それ以外に道はない。
だから、というわけではないが、その日も本荘ルナの寝起きは悪かった。死んだように眠るとはまさに彼女にこそ相応しい言葉ではないか、と、ルナを起こそうとするたびに、字や香織は思ってしまう。
そして、目覚めてもなお布団の中から出たがらない彼女を強引に室外に連れ出さなければならないのだが、もはやそれにも慣れたものだった。
「ルナっち、このままだと布団お化けになっちゃうよ」
「そうですよ、ルナさん。隊長に嫌われてしまいますよ」
「布団お化けになったって、統魔はわたしのこと、嫌いになったりしないよー……」
「それは……そうでしょうが……」
「そこは否定して発破かけないと駄目だよ、アザリン」
「ええと……」
などと、香織と字とルナは他愛のない会話をしながら、その日の朝を迎えたものだった。
八月二十五日。
この日、皆代小隊は、非番だった。
空白地帯のダンジョン・大空洞での活躍以来、皆代小隊に対する周囲の評価というのは、大きく変わっていた。
特に統魔は、煌光級三位に昇格したということもあり、周囲の評価のみならず、軍団内での待遇そのものが変化している。
煌光級といえば、杖長に任命されるための最低条件ともいわれる。
編成の都合上、軍団ごとに十名の杖長が必須であるため、必ずしも、全軍団の全杖長が煌光級の導士だというわけではないのだが、煌光級導士であることが望ましいという考えが戦団の中で浸透していた。
煌光級は、星光級に次いで上から二番目の階級だが、星光級即ち星将であることを考えれば、一般導士の辿り着ける最高の階級といっていい。
そんな階級に入団から一年半ほどで到達してしまったのだから、統魔に対する評価が以前にも増して高まるのは当然といえた。
道理とさえいっていいだろう。
元より統魔は、周囲から評価をされ続けてきた人間だ。
物心ついたときには飛行魔法を始め、様々な魔法を使いこなしていたし、神童や天才児の呼び名をほしいままにしてきた。
だから、周囲から賞賛されることは、彼にとってはなんら珍しいことではなかったし、尊敬の眼差しだけでなく、嫉妬や羨望が入り交じった複雑な視線を向けられることにも慣れていた。
魔法社会では、魔法技量こそがもっとも重要なものであるとされる。
優れた魔法技量さえあれば、多少人格やそれ以外の能力に問題があったとしても、社会的成功は約束されるものだ。
それが魔法社会の良いところであり、悪いところでもある。
魔法技量の高さだけが取り柄の悪人など、掃いて捨てるほどにいたからだし、現在もなお、跳梁跋扈しているからだ。
とはいえ、戦団にそのような人間はいまい。
魔法技量の高さが故に戦団に入るということは即ち、実働部隊たる戦闘部に所属するということが大半だったし、他の部署に所属するのだとしても、結局は、命懸けの職務に全力を尽くさなければならないことに変わりがないからだ。
戦団に所属するということは、常に死と隣り合わせの場所にいるということにほかならない。
安穏たる央都四市の真っ只中であったとしても、だ。
それが今回、現実のものとなったのは、正午を回ってからのことだった。
それまで統魔率いる皆代小隊は、久々の休養日を堪能していた。
統魔は、常日頃、鍛錬を欠かさない。非番であっても、腕が鈍らないように、というだけでなく、さらに魔法技量を磨くため、幻想空間に潜るのだ。
ただし、任務に支障をきたさない程度には留めている。
それから、起き抜けのルナを伴い、昼食を取っていると、多少、周囲の視線が気になりはした。
昇進したのは、統魔だけではない。皆代小隊一同全員が、あの激戦を乗り越えたことによって、それぞれ一階位ずつ昇進している。
ただし、ルナだけは飛び級で閃光級三位に昇格しているのだが、それもそのはずだ。彼女の実力は、灯光級には不釣り合いだったし、星象現界までも体得してしまった以上、さらに上の階級まで引っ張り上げてもなんら問題ないのではないかとさえいわれていた。
もっとも、ルナは階級になど興味はないようであり、昇進を言い渡されても、どうでもよさげな反応を示したものだった。
彼女にとって重要なのは、皆代小隊の一員として在り続けられることであり、統魔と一緒にいられることなのだ。
そういう意味でも戦団での地位を固めることは重要だ、と、字が彼女に教えれば、ようやく昇級の意味を噛みしめることが出来たようだが。
それは、ともかく。
「二人とも、ご苦労様」
統魔は、ルナを食堂に引き摺るようにして連れてきた字と香織に感謝を述べると、寝惚けたままのルナが彼の膝の上に座ったのを見て、渋い顔をした。
「おい」
「眠……」
統魔の肩に顎を乗せるようにしながら、ルナは、彼の意向を黙殺した。
そんなルナのいつも通りの様子には、字も香織も顔を見合わせて、微笑むしかない。
寝起きの彼女は、大抵の場合、全力全開甘え形態であり、統魔がいれば統魔に、統魔がいなければ香織か字に抱きついてくるのだ。それからしばらくしなければ、彼女の意識は覚醒しない。
「昼まで寝てただろうが」
「だってえ、昨日は疲れたんだもん」
「昨日は大活躍だったもんね、ルナちゃん」
とは、剣である。
隣では、枝連が食堂の献立表と睨み合っている。献立表には、定番と日替わりの料理が並んでおり、枝連は日替わりの料理で悩んでいるのだ。
字たちがルナを連れてきたことによって、食堂の一角に皆代小隊が全員で集ったというわけである。
「そうだよう、大活躍だったよう、統魔ももっと褒めてよう」
「散々褒めただろうが」
「あれだけじゃ足りないのよう」
統魔の膝の上に座ったままのルナは、食堂内に集まっている導士たちの視線など全く意に介する気配もなく、彼にもたれかかり続けている。
字と香織がそれぞれの席に腰を下ろし、手元の端末を操作して献立表を出力した。香織が、幻板に表示される献立表から適当に次々と料理を選んでいくのは、ルナのためだったりする。
ルナは、ほかに比較対象がいないくらいの大食らいであり、そのために彼女の意識が覚醒するよりも早く注文しておくというのが、恒例行事となっていた。
香織も手慣れたものだ。
ルナの好物ばかりを大量に注文し終えると、ようやく自分の食べ物を選ぶ番となった。
ルナは、といえば、統魔の肩に顎を乗せたまま、うつらうつらとしていたのだが、突如、その寝惚け眼を見開いた。
統魔の両肩をがしりと掴み、彼と顔を見合わせる。
統魔は、突然の出来事に当惑した。鼻息がかかるほどの距離に彼女の顔があり、赤黒い虹彩の奥で、瞳が大きく開かれているのがわかったからだ。
「ルナ?」
「なにか……来る……!」
ルナの予言めいた言葉の直後だった。
出雲遊園地への攻撃を皮切りに、央都四市の戦団施設が襲撃され、大きな被害が出たという報せが、第七衛星拠点を震撼させた。