第五百五十八話 変転(二)
いったいなにが起こったのか、幸多には、すぐには理解できなかった。
突如、鼓動のような音が聞こえた。
それは大気を激しく叩きつけ、その場にいた誰もの耳朶に突き刺さり、鼓膜を劈かんとした。
脳が揺れるほどの衝撃を伴う轟音。
とても、鼓動の音には聞こえない。
だが、幸多は、心音だと直感した。
破壊され、止まったはずの心臓が再び動き出したのだという直感。
それは確信に等しい。
なぜだかわからないが、そう想ってしまった。
頭の中を駆け巡った一陣の風のような、しかし、破壊的で絶望的な旋律。全神経が掻き乱され、あらゆる感情が逆撫でにされるような感覚。
それは、言語を絶する痛みを伴い、幸多は、その場にのたうち回らなければならなかった。
幸多だけではない。
機械型幻魔との戦いに専念していた導士たちの誰もが、雷鳴にも似た鼓動を叩きつけられ、その場に崩れ落ちていた。
星象現界を発動していた二名の杖長だけが、辛くも体勢を崩さずに済んでいたかが、それでも、突如として鳴り響いた爆音に慄然としていた。
風土と火水、二人の星象現界が合わさってこそ撃破せしめたのがあの男だ。いまや命の火は消え、そこにあるのは無惨な怪物の死骸でしかない。
当然、生気などあろうはずもなかったし、二人が死亡を確認しないわけもなかった。
心臓を破壊し、DEMコアをその禍々《まがまが》しい機構ごと粉砕したのだ。
天燎鏡磨という人型幻魔を構成していた莫大な魔素質量は、その生命の器から解き放たれるようにして拡散し、失われていったのだ。
そこにあるのは、ただの死骸でしかない。
幻魔の細胞に全身を覆い尽くされ、蝕まれ尽くした人間の成れの果て。
魔晶体そのものであり、その残骸でもあるそれは、だがしかし、確かに動いていた。
「う、動いた!?」
「死んだはずだ! 殺したはずだ! そうだろ!」
「確認したよ! 心臓も、コアも、全部破壊したもの!」
火水と風土が取り乱すのも無理はなかったし、二人が動揺すればするほど、導士たちの混乱は加速度的に膨れ上がっていく。
しかも、だ。
機械型幻魔たちも、状況を飲み込めないのか、導士たちへの攻撃の手を止めてしまった。幻魔の本能がそうさせるとでもいうのだろうか。
前代未聞の事態だった。
漠然とした不安が、急速に増幅していく。
「と、とにかく、警戒! 警戒よ!」
「わかっている!」
いわれるまでもないことだといわんばかりに、風土が叫び、星霊たちがその意のままに動き出す。岩塊の化身のような星霊・金剛が、大地を隆起させ、巨大な岩塊の結界でもって鏡磨の死骸を閉じ込める。
さらに風の精霊・風神が大気を凝縮して巨大な矛を生み出す傍らで、火水が星神力を爆発的に高めていた。水の羽衣がそのまま双頭の大蛇へと変貌すると、炎の槍もまた、凄まじい熱気を発した。
周囲の空間を歪めるほどの熱量である。
二人の星象現界が揃い踏みすると、それだけで安心感が増したし、先程までの不安などあっという間に吹き飛んでいくようだった。
幸多以外の導士たちからは、だが。
空護たちハイパーソニック小隊の面々は、不気味としかいいようのない事象を目の当たりにして恐怖さえ感じていたが、杖長たちが星象現界の力を最大限に発揮する様を見ただけで、胸を撫で下ろしたのだ。
そして、機械型幻魔との戦いに戻っていく。
鏡磨は、二人に斃された。
火水と風土の息の合った連携攻撃は、並の煌光級導士では相手にならないし、二対一ならば星将にも食らいつけるほどなのだ。
そんな怪物球の導士が全力を発揮しようというのだから、不安など吹き飛ぶものだ。
空護たち以外の第八軍団の導士たちの誰もが、二人の杖長ならば、どのような問題も、突発的な事態も解決してくれると信じていた。
これまでそうだったし、先程も、そうだった。
ならば、なにを疑う理由があるのか。
だが、幸多は、どうしようもなく、猛烈な不安に駆られていた。なぜだかわからない。わからないのだが、わかるのだ。
なにか、とてつもなく悪いことが起こるのだという確信が、ある。
「だ、駄目だ」
幸多が想わず声を上げたとき、再び、どくん、という拍動が聞こえた。それはさながら天から落ちてきた雷の音にも似ていて、閃光が幸多の視界を真っ二つに引き裂いたのは、道理のように思えてならなかった。
道理。
そう、道理だ。
それは道理なのだ。
死んだはずの人間が蘇ることなどありえない。
死んだはずの幻魔が復活することなどありえない。
それが、道理だ。
だが、死んでいなかったというのであれば、話は別だ。
別の道理が、天燎鏡磨の死骸と断定されていたものを動かすのだ。
「馬鹿な!?」
「嘘でしょ!?」
「そんなこと……あるわけがない」
風土と火水が驚愕したのは、落雷によって金剛の結界が爆砕され、無数の土塊が飛散したからだ。
その中には、鏡磨の死骸があるのもまた、道理だ。だが、死骸ではないのだから、動いていたとしても不思議ではない。
ただし、落雷の直撃を受けた結果、電気刺激によって死骸が反応しただけのように見えなくもなかったが。
そこへ、星霊・風神の矛が投げ放たれ、火水の双頭の大蛇が同時に襲いかかる。風神の矛は、巨大な竜巻そのものであり、双頭の大蛇は破壊的な激流そのものだ。
水と風の力が激しくぶつかり合いながら、一点へと殺到する。
天燎鏡磨の死骸へ。
だが、
「ふ……ざける……な……っ」
鏡磨の眼孔に赤黒い光が生じると、その右手が胸に穿たれた穴に触れていた。そこは、落雷が直撃した場所であり、雷光は今もなお、その胸の穴に突き刺さったままだった。
そこへ、破壊の嵐そのものたる星神力の塊が殺到すると、鏡磨の右手が雷光を掴み取って見せた。力のままに振り回しながら跳ね起きると、空中に舞い上がった。彼の手にした雷光が鞭のように唸りを上げ、星神力の嵐に絡みつく。
「散々……散々人を虚仮にしておいて、最期には全てを奪い取るだと……!」
雷光の鞭が、火水と風神の合性魔法を打ち砕く光景は、端的にいえば、絶望そのものだった。
「そんな身勝手をこのわたしが許すとでも想ったか、マモン!」
鏡磨が、どす黒い怒りとともに雷光の帯を取り込むと、背後に雷の翼を広げた。
析雷である。
しかし、先程までの析雷とは、禍々しさが大違いだった。元より禍々しいものではあったのだが、さらに異形感が増しており、鏡磨の背後に浮かぶ紋章のようですらあった。
その雷光の紋章が輝きを増すと、彼の全身から失われていたはずの力が漲っていくのが、導士たちにはわかった。
幸多にわかるのは、律像の密度だけだ。
だが、それだけでも十分すぎるほどに危険だということはわかったし、なんなら、すぐにでも逃げ出すべきではないかとすら考えてしまった。
鏡磨の全身から発散した律像は、星将のそれに匹敵するほどに超高密度であり、見ているだけで気圧されるようだった。
魔法不能者の幸多ですらそうなのだから、魔法士たちには、さらに厳しいのではないだろうか。
「いまさら」
「なにをいってんのかしら」
しかし、風土と火水は、鏡磨が再び動き出した事実にも、その周囲に構築され始めた律像の圧倒的密度にも、全く動じなかった。
そんなものに動じるようでは、杖長など務まるわけもない。
二人が日夜相手にしているのは、あの天空地明日良なのだ。
傲岸不遜の塊そのものであり、負けるのがこの世で一番嫌いな星将は、訓練であってもいつだって本気だったし、手を抜くということを知らなかった。
だから、彼と直接手合わせする機会の多い杖長たちには、この程度の状況、慣れっこなのだ。
そう、慣れている。
「え?」
火水は、双頭の大蛇を振り回しながらも、全身を貫いたその感覚にはっとなった。
そして、そのつぎの瞬間、彼女は、天燎鏡磨の身になにが起きたのかを理解していた。
「星象現界ですって……!?」
天燎鏡磨の全身から満ち溢れるそれは、紛れもない、純度百の星神力であり、超高密度の魔素質量とともに顕現したそれは、擬似的に再現した八雷神とは異なるものだったのだ。