第五百五十話 天燎鏡磨と地水火風(一)
眼下、遥か地上の様子を見下ろせば、混沌とした大地の有り様がわかるというものだ。
魔天創世以来、この地球の天地は、大いに変化してきたという。
天地に満ちる魔素濃度の違いも大きければ、生息する生き物の違いも大きい。
かつて、魔天創世以前には、数え切れない種類の生物が住んでいたし、中でも人類は、その圧倒的な魔法の力でもって、万物の霊長を謳い、地球上に君臨していたのだ。
いや、地球上どころではない。
人類は、宇宙にまで進出し、宇宙空間に理想の楽園を築き上げていった。
それも、今や遠い昔の話だ。
地上と宇宙の連絡は絶たれ、地上からは人類が一掃された。
少なくとも、そう思えるほどの惨状と成り果て、幻魔の世界へと変わり果てた。
どこを見ても幻魔ばかりが蠢いていて、いつもどこでも相争っている。
終わることのない領土争いが、無限に近く続いているのだ。
ある鬼級幻魔がその〈殻〉を拡大するべく、隣国たる〈殻〉に攻撃をしかければ、別の〈殻〉が戦端を開く。
戦いが戦いを呼び、争いが争いの火を点ける。
永久に繰り返される闘争の螺旋。
そんな世界にあって、か細くも必死に生き延びようと藻掻いているのが、わずかばかりの人類だ。
央都。
人類生存圏とも、彼らはいう。
その人類生存圏が、ここのところ常に闘争の炎で燃え盛っているのは、終末が近いと感じさせるが、そんなことはありえないことも、彼にはわかりきっている。
だから、声をかけるのだ。
「どこへ、行こうというのかな?」
ルシフェルは、地上から集めてきた指輪の山を崩して立ち上がった大天使の後ろ姿を見た。
白銀の大天使は、この世のものとは思えないほどの神秘性と幻想性を兼ね備え、黄金の大天使ルシフェルの対を成すに相応しい姿で、そこにある。
メタトロン。
「わからないか?」
「わからないわけがないだろう? だから、問うのだよ。なぜ、地上へ行こうというのか、と」
ルシフェルの目は、真っ直ぐにメタトロンを見据えていた。
メタトロンは、彼と顔を合わせようとはしない。目を合わせれば、従わざるを得ないことを本能で理解しているからだろう。
このロストエデンの双璧を成すとはいえ、ルシフェルのほうがあらゆる面で上の立場にあるのだ。
メタトロンには、ルシフェルの命令を無視することは許されない。
「きみは、自分が何者なのかを理解しているはずだ。我らは、人類の守護者。人類がより良い未来を掴み取るために生み落とされた光の使徒。神無き世界に舞い降りた大いなる希望。それがわたしたちだ」
「ならば、いますぐ降り立つべきだ」
ルシフェルのいつもの決まり文句を聞いてもなお、メタトロンは、いった。
彼の目は、崩れた指輪の山を見て、それから頭上の蒼穹へと至った。雲一つないのは、ロストエデンの高度を考えれば当然のことだったし、太陽が地上よりも遥かに近いのも当たり前のことだろう。
夏の太陽が、彼の全身をさらに輝かせている。
この神殿染みた廃墟同然の空中都市も、眩いばかりの太陽光線の中で光り輝いているようだった。
「あの半端者どもが動いている。放ってはおけない」
「……それは、現状を正確に把握し、冷静に考え抜いて導き出した結論なのかな?」
ルシフェルは、メタトロンから目を離さない。目を離した瞬間、飛び出したりしたら一大事だ。
大いなる計画が、狂いかねない。
「本能が、無意識が、勝手に叫びだしているだけなんじゃないのかな」
「そうだ、といったら……どうする?」
「きみの勘違いを是正するだけだよ」
「勘違い?」
「そう、勘違いなんだ」
ルシフェルは、仕方なく立ち上がると、メタトロンに歩み寄った。
メタトロンも、仕方なく、ルシフェルに向き直る。
視線が、交わる。
「わたしたちには本能なんてものはないよ。わたしたちは、ただの情報なのだから」
「だから、放っておけ、と?」
「どのみち、サタンが放置しているんだ。大した問題は起きないさ」
ルシフェルは、どこ吹く風といわんばかりの表情で、地上の惨状を見ている。
どうしてそこまで楽観的でいられるのか。
メタトロンにはまったく理解できなかったし、いますぐにでも飛び出したい衝動に駆られて仕方がなかった。
だが、もはや、どうすることもできない。
ルシフェルの命令は、絶対だ。
それがこのロストエデン唯一の法なのだから。
メタトロンは、地上を見下ろす。
遥か地上では、混沌が蠢いていた。
爆煙が、視界を満たしている。
煙が器官に入り、呼吸が苦しくなっているのは、そのせいだ。全周囲に行われた爆撃が、物凄まじい量の煙を発生させ、幸多を飲み込んだ。
大打撃も受けた。
激痛が、胸や腹に疼いていた。鉄の味が口の中に満ちている。血だ。
「無事か? 皆代閃士」
「は、はい……なんとか」
聞き覚えのない声に反応しながら、幸多は、自分がとっくに地上に落下していたことに気づかされた。地面の上に座り込んでいたのだ。
「それなら良かった。きみには死んでもらっては困るからね」
「は、はい?」
先程とは別の導士の発言だが、その意図が理解できず、幸多は困惑した。まるで、幸多だからこそ死なれては困る、とでもいうような発言に受け取れてしまう。
導士が仲間の導士を守り、助けようとするのは、ある意味においては本能に近いものではあるのだが、しかし、彼女の言葉からはそういうものとは全く別種の意志が感じられた。
それが、幸多にはわからない。
「しかし、困りものだな、完全無能者とやらは」
「治癒もできないものね」
「す、すみません」
「謝ることではないよ」
「生まれは、どうすることもできないからね」
「は、はい……」
幸多は、二人の導士がどういった人間なのか全く想像もできないまま、立ち上がろうとした。体を動かそうとすると、激痛が電流のように全身を駆け巡ったが、歯を食いしばって我慢する。この程度で泣き言をいっていられるわけもない。
深手を負っている。
全身を闘衣を纏い、その上から重装甲を身につけていたにも関わらず、天燎鏡磨の析雷の直撃を受けたがために、特に腹部に致命傷に等しい傷口が開いているようだった。
しかし、問題はない。
「ん?」
「はあ?」
二人の導士も、幸多の異様さに気づき、驚いたようだった。
その頃になって、ようやく爆煙が薄れ、周囲の様子がはっきりと確認できるようになった。
「もう動けるのか?」
「いや、傷口! もう塞がってるし、いったいどういうこと?」
「回復力だけは誰にも負けませんから」
幸多は、もはや完全に塞がった腹部の傷口と胸元の傷を見て、それから体を動かした。痛みも薄れていて、戦闘行動に支障はない。ただし、銃王は半壊状態だったし、飛電も破壊されてしまっているという難点はあったが。
「そういう問題か?」
「違うと想うな」
そういって、幸多の様子を見たのは、二人の導士だ。第八軍団の導士だということは、出雲遊園地にいることからも明らかだった。
いや、別軍団の導士が遊びに来ていて、戦闘が始まったから参戦したという可能性もなくはなかったが、導衣には第八軍団と記されていたのだ。
一人は、緩く波打つ緑髪が特徴的な男だ。鋭い眼差しの持ち主で、黄色の虹彩を持っている。長身に鍛え上げられた肉体が備わっていて、威圧感があった。
名は、矢井田風土。煌光級三位の第八軍団の杖長である。
もう一人は、朱色の頭髪を後ろで一つに束ねた女性で、猫のような目の持ち主だった。虹彩は青。サファイアのような瞳は、美しいとしか言えない。
名は、南雲火水。煌光級三位で、同じく第八軍団の杖長。
そして二人に共通するのは、九月機関出身者であり、双極性理論を過去のものとした大天才だということだ。
だからこそ、幸多は、二人の顔を見るなり、すぐにその名前を思い出したのだ。
「あの、ぼくに死なれたら困るって……」
「あの兄弟が悲しむだろ?」
「仲いいんだってね、九十九兄弟と。それなら、これからも末永く仲良くしてやって欲しいの」
「は、はい、それは、もう」
矢井田風土と南雲火水が、幸多が全く想像だにしなかったことをいってきたものだから、彼は、当惑するほかなかった。
九十九兄弟と仲良くし続けるなど、いわれるまでもないことではあるのだが。
しかし、少しばかり奇妙な感じもあった。
幸多は、合宿中、九十九兄弟と様々なことを話し合った。その中には、九月機関に関する話題もあったし、中でも九十九兄弟が溺愛する妹たちの話は、長時間に及んだものである。
そんな九十九兄弟だが、矢井田風土、南雲火水の話をほとんどしなかった。
あまり関わりがなかったというのだから仕方のないことなのだろうが、しかし、一方で、二人は兄弟のことを気にかけているようなのだ。
幸多は、そのことが少しだけ嬉しかった。
第八軍団内に居場所がないという九十九兄弟だったが、なんだかんだで気にしてくれている人がいるということがわかったのだ。
それだけでも、救われる。
「杖長二名か。これは、手強い……か」
などといいながらも、自分の優位は揺るがないといわんばかりに告げてきたのは、やはり、天燎鏡磨である。
彼は、全身を黒い装甲で覆っていた。
コード666を発動したからだ。