第五百四十五話 水界の戦姫(二)
『考えなしの出たとこ勝負なのは相変わらずですが、まあ、よろしいでしょう』
「一体何様目線なのかしら」
通信機越しに聞こえてきた桜音の声に渋い顔をしながらも、己の星象現界による被害の大きさを考えれば致し方のないことだとも思った。
特に桜音は、瑞葉の母、八幡ニイコの部下であり、一番弟子でもあった。その縁により、瑞葉の教育係を買って出たのも随分と昔の話だ。
二十年近く前のことになる。
それ以来、瑞葉は桜音に育てられたといっても過言ではない。
魔法の基礎を両親に学び、星央魔導院で研鑽を積み上げた彼女をさらに戦団の導士として研ぎ澄ませたのが桜音なのだ。無論、母ニイコも、瑞葉の成長に大きく関わっているのだが。
ニイコが光都事変で名誉の戦死を遂げて以来、瑞葉の面倒を見ているのは桜音である。
そして、だからこそ、桜音は、第四軍団の導士たちに指示を飛ばしながらも、瑞葉の戦いぶりに注目しているのだ。
星象現界・海神三叉が生み出した大津波が黒雷ごと高田享平を飲み込み、さらに水穂基地の大部分を水浸しにしてしまった光景を目の前にしながらも、瑞葉は一切気を抜いていなかった。
この一撃で勝敗が決したなどとは、微塵も思っていない。
瑞葉は、星象現界を発動し、全力を発揮した。しかし、相手はどうか。小規模の津波は、黒雷を吹き飛ばし、高田自身に痛撃となって響いたことだろうが、死亡してはいない。
莫大な魔素質量が、薄れ行く津波の中から立ち上がってくるのがわかったからだ。
「それは、知らないな」
津波の中から黒い雷光が立ち上ったかと思うと、星神力の奔流が吹き飛び、それが空中に浮かび上がってきた。
全身を漆黒の装甲に覆われた、高田享平だったもの。人間のような姿でありながら、皮膚という皮膚が禍々しい幻魔の細胞に覆い尽くされ、紅い光線を脈動させている様は、怪物としか見えなかった。
両目の眼窩からは、赤黒い光が漏れ出ている。
「一般に提供されている幻想体の情報に、戦団魔導戦技の最秘奥が含まれているわけがないでしょう?」
「それもそうだな。つまりそれが星象現界という奴か。このおれの力と同じ」
「違うわよ。そんな紛い物と一緒にしないで」
改造人間・禍御雷の全身から発散される星神力にも似た高密度の魔力を認識しながらも、瑞葉は、一蹴して見せた。
すると、異形化した高田が赤黒い両目でもって彼女を睨んだ。腹部はより異形化しており、まさに怪物の口のようになっているのだが、そこに高密度の黒雷が収斂していくのがわかる。
瑞葉は、右手に握り締めた三叉の矛を軽々と振り回しながら、穂先から水気を撒き散らした。矛の軌道上に飛び散る水飛沫は、神秘的な光景を演出したかと思えば、次の瞬間には、無数の水の礫となって高田へと殺到する。
高田が吼えた。
怪物そのものの咆哮だった。
大気が震撼し、大地が鳴動する。
それほどまでの魔素質量が渦を巻き、黒雷となって撃ち出されたのだ。凄まじいとしか言いようのないほどの黒い雷光の奔流。虚空を突き破り、一瞬にして、瑞葉の眼前へと殺到する。
「碧水壁」
瑞葉は、軽く真言を紡ぐ。
ただそれだけで、周囲に飛び散っていた水飛沫が次々と巨大な水の壁となって、黒雷の前に立ちはだかった。
黒雷は、水壁を二枚、貫いた。
星神力の塊たる魔法壁を、だ。
これにはさすがの瑞葉も多少驚いたが、それだけだった。三枚目の魔法壁にめり込んだ黒雷は、そこで力尽きてしまったからだ。
高田も、黒雷を照射し続けることができていれば、三枚、四枚と魔法壁を突破できたかもしれないが、それは許されなかった。四方八方から殺到する水礫に対し、無防備のままでは居られないからだ。
大きく後方に移動しながら水礫を躱し、再び、黒雷の発射態勢を取る。腹部の大口を開き、黒雷の重点を始めたのだ。
無論、その隙を見逃す瑞葉ではない。
「それがあなたの敗因」
「敗因?」
高田は、瑞葉の一挙手一投足を見逃すまいと凝視している。瑞葉が手にした三叉の矛が虚空に描く流麗な動きの一つとっても、見逃してはいない。なにかひとつでも見過ごせば、それが敗因になりかねないからだ。
それほどの相手だということは、端からわかっていた。
ただの人間だった頃、幻想訓練で星将と何度もやりあったが、勝てた試しがなかった。幻想空間上に再現された情報だけの存在を相手に、こてんぱんに敗れ続けてきたのだ。
だが、いまは違う。
マモンによって改造手術を受け、人間を遥かに陵駕する力を得たいまならば、星将にだって負けなかった。
少なくとも、幻想訓練では、星将の誰にだって負けた試しがないのだ。
だから、今回だって自分の勝利を確信していたのだし、この水穂基地を壊滅するという使命も果たせるものと確信していた。
星象現界のことは把握していなかったとはいえ、それが勝敗を決定づけるものとは思っていなかった。
こちらも、コード666を発動したのだ。
勝ち目は、十分にある――そう、高田は確信していた。
三田弘道の実験を経て、改良を施され、完成したのが禍御雷なのだ。
その力は、三田の比ではない。
「己の力を過信しすぎだよ、星将殿」
「ふっ」
瑞葉は、高田の発言を鼻で笑った。海神三叉が生み出す水飛沫が、無数の水礫となって間断なく高田に殺到し、高田が堪らず黒雷を発射してきたが、それらは水礫が変化した水の壁によって遮られ、瑞葉に到達することはできなかった。
しかも、瑞葉は、動き続けている。
高田へと飛来する水礫の上から上へと飛び移りながら、距離を詰めているのだ。
高田が、さらに後退する。
雷身により、黒い雷光そのものとなって大きく距離を取ろうとする高田に対し、瑞葉は、矛を振り翳した。高田の移動予測地点目掛けて、海神三叉を投げつける。
海神三叉は、その名に相応しいまでの水量を噴出させながら、幾重もの螺旋を描き、飛翔する。莫大な星神力が空間を歪めるほどだった。
「くっ!?」
高田は、間一髪のところで飛来した三叉矛を回避することに成功した。
本当にぎりぎりだった。矛が生み出す莫大な星神力が高田の右肩をわずかに抉っている。完全には躱しきれなかった、ということだが、しかし、問題はない。
禍御雷の肉体は、瞬く間に復元する。
人間の体のような不便な代物ではないのだ。
だから、高田は、すぐさま瑞葉を仰ぎ見たのだ。
膨大な水を凝縮して生み出した魔法壁の上で仁王立ちする八幡瑞葉の姿は、太陽光を浴びて、神々しく輝いていた。
そして、その全身が泡のように溶けて消えたものだから、高田は、慄然とした。
「遅すぎる」
高田の背後から聞こえたのは、瑞葉の冷ややかな声であり、つぎの瞬間、海神三叉が閃き、高田の胴体を真っ二つに切り裂いていた。さらに、矛先から溢れ出る水飛沫が、怪人の肉体を徹底的に破壊していく。
上位妖級幻魔に匹敵するかそれ以上の強度を誇る魔晶体だったが、星象現界の相手ではない。
少なくとも、瑞葉にはそう思えた。
「そんな……」
わずかに残った高田の頭部だけが瑞葉を振り返ったが、その視界に映るのは、海神三叉を振り抜きつつも、一切油断していない星将の勇姿であり、それこそ、煌めく星のようだった。
瑞葉は、高田の全身を徹底的に破壊し尽くし、もう二度と復活することがなくなったことを確認すると、海神三叉を振り回した。
水穂基地内には、未だ大量の機械型幻魔が暴れ回っている。
まずは、それらの討伐に専念しなければならない。