第五百二十九話 魔暦二百二十二年八月二十五日(十六)
「合宿は順調らしいけど、せっかくの最後の休養日をこんなことに費やして大丈夫なの?」
新野辺九乃一が気遣ったのは、金田朝子と金田友美の姉妹が、日夜、猛特訓に明け暮れていることを知っているからだ。
夏合宿こと導士行動強化訓練は、七月の末からこの八月の一ヶ月間、日曜日を除く毎日行われている。
座学、実技、体力強化などなど、合宿における訓練は、戦団における訓練の比ではない。
戦団でも、訓練は行う。
が、非番のときに行われる訓練であっても、翌日に疲れを残すほどの猛特訓は行えないものだ。翌日が休日ならばともかく、任務であれば、支障をきたしかねない。
だからこその夏合宿なのだ。
合宿期間中、基本的に任務はない。
任務を与えられることはあっても、極めて例外的なことだ。
実際、皆代幸多と伊佐那義一以外が任務に動員されたことはなかった。
機械事変の際に動員されたのは、たまたま、現場付近にいたからにほかならない。
全く別の場所にいたのであれば、わざわざ動員されることはなかっただろう。
それくらい、夏合宿の参加者には配慮されているということだ。
「も、もちろんです!」
「軍団長が手合わせしてくださるのなら!」
金田姉妹は、興奮気味に、九乃一の戦闘装束を見上げていた。
場所は、幻想空間。
未来河の河川敷である。
頭上には雲一つ見当たらなければ、太陽すら存在しない蒼穹が広がっていて、その真下に万世橋が横たわっている。
未来河の真上を横断する大橋の欄干に、まるでアイドルのような格好をした軍団長が、ひらひらの衣装を風に揺らめかせているのだ。
「まあ、きみたちが本気なのは伝わってきたから、手合わせするけど、さっきも言ったとおり、あまり時間はないからね」
「は、はい!」
「わ、わかっております!」
声を上擦らせながら、朝子と友美は、大声を上げた。二人とも当然ながら導衣を着込んでいて、片手には法機を手にしていた。
「二時間」
九乃一は、告げると、魔力の練成を始めた。アイドル然とした導衣が魔素質量に反応して激しく揺らめけば、周囲の風景そのものが歪んで見えた。
金田姉妹は、九乃一の爆発的な魔力の増大を目の当たりにして、震えるような想いだった。
まさか、二人の申し出を受けてくれるとは思ってもみなかったということもある。
二人が兵舎を訪れたとき、九乃一は、仕事中だった。それも副長の協力が必要なほどの大切な作業であったらしく、それなのに、作業を一時中断し、金田姉妹の申し出を受けてくれるとは、到底考えられないことだった。
望外の幸せとは、まさにこのことではないか。
朝子と友美は、二人して、この幸福感を噛みしめるようにしながらも、二時間ばかりの訓練を一切無駄にしてはならないと肝に銘じてもいた。
九乃一に負けないように魔力を練成し、律像を展開する。
そのときには、九乃一の魔力がさらなる高まりを見せていて、複雑にして精緻な律像が幾重にも展開するのがわかった。
それが星神力であり、星象現界なのだと理解できるのは、これまで何度となく、彼の星象現界と対峙してきたからにほかならない。
「忍法・児雷也」
爆発的に触れ上がった星神力が九乃一の影を膨張させたかと思うと、人の形を象っていった。
忍法・児雷也は、いわゆる化身具象型の星象現界である。
九乃一とは似ても似つかない禍々しい忍者が出現すると、その影そのもののような黒髪が嵐を呼んだ。
「これで、二対二。ちょうどいいよね?」
九乃一の発言には、金田姉妹は言いたいことが山ほどがあったが、そんな場合ではなかった。
猛然と突進してきた児雷也の飛び蹴りを躱すので精一杯だったからだ。
「どいつもこいつも勤勉だねえ」
誰とはなしにつぶやいて、菖蒲坂隆司は、眼下の海岸を見下ろしていた。
夏休み最後の日曜日ということもあって、茜浜には、いつになく海水浴客が集まっていた。
夏休みを満喫中の学生が圧倒的だが、家族連れも少なくなかったし、ネノクニからの観光客も大量にいるようだ。
頭上から降りしきる日光を浴びて、茜浜は白く輝いている。
「おれにゃあ、真似できねえっての」
麦藁帽子を目深に被り、その上でサングラスをかけ、明るい色調の衣服を身につけた彼は、一見して、戦団の導士には見えないに違いなかった。
星印を身につけていればその限りではないだろうが、彼はいま、星印を携帯端末につけている。星印は、導士の身分証明である。常に身につけて置かなければならないが、どこに身につけるかは、個人の自由だ。
携帯端末につけるだけでも、身分証明の役割は十二分に果たされる。
「偉いよ、全く」
隆司の視線は、浜辺を行き交う女性客に向けられているが、サングラス越しということもあって、その目線がばれることはない。
もっとも、海岸沿いの道路から浜辺を見渡す人間のしていることなど、数えるほどしかないのかもしれないが。
「こんなところで独り言とは、随分と暇なのだな」
「残念暇じゃ有りません。今日は休養日なのです」
不意に話しかけてきた相手に想わず反論してから、隆司は、はっとなった。
振り向くと、見知った人物の傲岸不遜極まりない顔がそこにあった。しかも水着姿だ。
「いや、それ、水着……か?」
「水着だが?」
手首から足首まで覆い尽くす黒ずくめのそれは、必ずしも水着とは言い難いものであり、隆司は、その少女の当然のような反応を前にどう対応するべきか困惑した。
長く艷やかな黒髪を夏の風に揺らめかせながら、深紅の瞳で隆司を見据える仁王立ちの少女。いや、女性というべきか。年齢的には、成人を迎えているはずだ。
天燎高校の黒木法子である。
「法子ちゃん、ちょっと待ってよお」
そして、遠方からの声に目を向けると、今度こそ水着姿の女性が駆け寄ってくるものだから、隆司はそちらにこそ注目した。走っているのだ。豊かな胸が大きく揺れて、隆司には眼福以外のなにものでもなかった。
全身を潜水服で包み込んだ黒木法子を見ても、どうしようもない。
「菖蒲坂隆司よ、なにか良からぬことを考えなかったか?」
「まさか。っていうか、なんでそんなに親しげなんだよ?」
「皆代幸多と合宿中の身の上だろう。聞き及んでいるぞ」
「そりゃあそうだが……まさか、それだけの理由で、そんな感じなのか?」
「そんな感じがどんな感じなのかはわらかんが、まあいい。暇を持て余しているのだろう。ついてくるがいい」
「ええ?」
隆司が愕然としている間にも潜水服姿の法子は、道路から浜辺に向かって飛び降りていった。
「ごめんなさいねえ」
と、隆司に声をかけてきたのは、我孫子雷智である。長身と肉感的な肢体の持ち主であり、豊満な胸が、露出度の高い水着からこぼれ落ちそうに見えた。
「法子ちゃん、幸多くんに振られて御機嫌斜めなの」
「振られたって、今日のことっすか?」
「そうなの。今朝、連絡したら素っ気なく断られたって」
「そりゃあ無茶だ」
隆司は、雷智の説明を受けて、理不尽に巻き込まれるかもしれない幸多のことを想うと、仕方なく、法子の後を追った。
隆司にとって、幸多は、尊敬に値する人物だった。
生まれながら魔法の才能に恵まれなかっただけでなく、魔法の恩恵すらほとんど受けることができない完全無能者である彼は、しかし、その事実を受け入れながら邁進し続けている。
とてもではないが、隆司には真似の出来ない生き方だ。
隆司が彼と同じような境遇だったとすれば、きっと、絶望的な人生の歩み方をしただろうという確信がある。
(環境が人格を作るとはいえ、だ)
だとしても、誰もが幸多のように前向きにはなれまい。
「なにをしている! さっさと来るのだ!」
「はいはーい! 行きますよ-!」
法子の大声に返事をしながら、これで幸多に降りかかる後難がわずかでも減るのなら、安いものだ、と想ったりした。