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第五百二十五話 魔暦二百二十二年八月二十五日(十二)

 道場の天井を眺めている。

 天井照明の柔らかな光がぼやけて見えるのは、疲労と消耗が蓄積しているからに違いない。呼吸が荒い。心音がいつもより激しくなっている。全身から大量の汗が流れ落ちていて、運動服がべとつく感覚が気持ち悪かった。

 もっとも、この技術局謹製(きんせい)の運動服は、超速乾性ちょうそっかんせいうたっているだけあって、程なく乾いた。

 少しの休憩時間で完全に乾くほどだ。

 下着も同様の超速乾性であるため、問題はない。

 しばらくすれば、この気持ち悪さともおさらばできるはずだ。

 そういう意味では安心できるのだが。

「せっかくの休養日なのに、道場にもってるなんて、随分と奇特きとくだね」

「ああ?」

 真白ましろは、声を投げかけてきた相手を見遣みやり、目を細めた。かすむ視界の焦点しょうてんがゆっくりと絞れていき、道場の出入り口から見知った少年が入り込んでくる様がわかった。

 伊佐那義一いざなぎいちだ。

 どういうわけか運動服を着込んだ彼は、両手に飲み物を持っていた。

 彼は、真白と彼の隣でへばっている黒乃くろのの元に歩み寄ってくると、飲み物の容器を手渡した。

「はい、どうぞ」

「お、おう。ありがとよ」

「ありがとう……義一くん……」

 息も絶え絶えと言った様子の黒乃は、なんとかして義一から容器を受け取ろうとしたが、途中で真白の上に崩れ落ちた。真白は、半眼で黒乃を見て、小さく息を吐いた。

 仕方なく、黒乃の分の飲み物も受け取る。

「おい、離れろ。あちい」

「ごめんよ、兄さん」

「凄い汗だね」

「朝からずっとだからね。兄さん、まったく容赦してくれないし」

「容赦なんてしてたら、強くなれねえっつの」

 真白は、黒乃がゆっくりと元の状態に戻っていくのを見届けると、飲み物の容器を手渡した。容器を受け取った黒乃が妙に落胆しているように見えるのは、気のせいではあるまい。

 普段、訓練のときに飲み物や食べ物を差し入れしてくれるのは、奏恵かなえなのだ。

 真白も黒乃も、この約一ヶ月の間で、心底奏恵に懐いていた。

 九十九つくも兄弟には、母親がいない。父親も、父親代わりの高砂静馬たかさごしずまがいるだけで、本当の親の記憶もないのだ。

 それでも、高砂静馬は、本当の父親のように感じていたし、彼の父性ふせいがあればこそ、自分たちは真っ当に育ってこられたのだと実感してはいる。

 だが、この夏合宿中に気づかされたことがあった。

 どうやら母性ぼせいえていたということだ。

 自分たちだけでは気づきようのなかった事実だが、しかし、思い当たる節がないわけではなかった。

 九月機関くがつきかんの妖精の城で育った二人には、外界の情報を知る方法は限られていた。妖精の城という箱庭だけが世界の全てに等しく、時折、研究所の敷地内を歩き回るくらいのものだった。

 それでも、自分たちにも両親がいたはずだという感覚はあったし、だからこそ、孤児となり、九月機関に引き取られたのだ。

 父親は、高砂静馬が代役をしてくれている。

 では、母親は、といえば、一人としていなかった。

 ずっと、いなかったのだ。

 だから、いつもにこやかに接してくれる奏恵にとてつもない母性を感じ取ったとしても、仕方のないことなのではないかと、真白も黒乃も自分自身を納得させたものだった。

 そして、奏恵が困っていることはないかと常に気を配ったし、奏恵の手伝いをすることに喜びを覚えたものだ。

 奏恵が喜んでくれることが嬉しかったのだ。

 まるで親子のようだ、と、周りの連中が揶揄やゆしてくることが、むしろ誇らしい気分だった。

『なんだか兄弟が増えたみたいね、幸多こうた

 などという奏恵の発言は、九十九兄弟にとっては素直に嬉しいことだったが、幸多にしてみれば、微妙で奇妙で不思議な感覚だったらしい。

 それもそのはずだとは、思う。

 まったくの赤の他人の二人が、自分の母親を独占しようとしているのだから、良い気分ではないのは間違いない。

 もっとも、幸多は、そんなことをおくびにも出さなかったし、むしろ、真白たちが奏恵と仲良くしている様子を見ては、微笑んでいたものだが。

 だからこそ、だ。

 義一が飲み物を持ってきてくれたことそのものには感謝しつつも、奏恵ではなかったことに黒乃が消沈しょうちんするのも、真白には自分のことのように理解できた。

 それくらい、二人は、奏恵にべったりだった。

「強く……か」

「なんだよ? おかしいかよ」

「いいや、まったくおかしくないよ。自分だって、強くなりたいからね」

 義一は、九十九兄弟が喉を潤す様を見つめながら、彼らの側に腰を下ろした。

 広い道場の真ん中。

 九十九兄弟以外には誰もおらず、故に、二人の裂帛れっぱくの気合いだけが道場内に反響していたことは、彼もよく知っている。

 朝からずっと、二人は、ほとんど休むことなく体を動かしていた。

 多少の魔法を交えながらも、身体能力を磨き上げるための鍛錬は、激しく、苛烈なものだった。

「でも、だからこそ、さ。休むときには休まないと」

「んなことわかってるっての」

「だったら」

 どうして、今日、休まないのか、と、義一は真白を見る。飲み干した容器を床に置いた彼の灰色の瞳は、遠くを見ていた。

「幸多に任されたからな」

「任された?」

「うん。任されたんだ」

 先程まで呼吸さえ苦しそうだった黒乃が、容器を床に置くと、速やかに立ち上がった。大きく伸びをして、柔軟を始める。

 真白もそれにならった。

「〈星〉をろってさ」

「〈星〉を……」

「あいつ、視れないだろ」

「だから、ぼくたちに任せるって」

「なるほど」

 義一は、準備運動を始めた二人の近くから容器を取り除くと、道場の片隅まで運んでいった。

 それから、二人の元に戻り、準備運動に参加する。

「お、やる気なのか?」

「見てわからない?」

「わかってたけどさ」

 黒乃が義一の格好を見て、苦笑する。義一は、戦団印の運動服を着込んでいる。それはつまり、九十九兄弟との訓練に参加する意志があるということだった。

 義一は、本当は、今日一日はしっかり休むつもりだった。

 夏合宿最後の休養日だ。

 明日からは、最後の一週間ということで、今まで以上に強烈な訓練の日々が待ち受けていること間違いなかった。だからこそ、今日一日を体力回復に費やし、万全の状態で明日を迎えたかったのだ。

 しかし、道場でぶつかり合っている二人を見ると、いても立ってもいられなくなってしまったのだ。

 九十九兄弟が休養日を返上してまで体を鍛えているのは、少しでも前に進みたいからだ。少しでも上へ、わずかでも先へ。

 そんな二人の強い意志が、義一の心を突き動かした。

「あいつは、魔法が使えないからな。〈星〉を視ることなんてできないし、ましてや星象現界せいしょうげんかいなんてつかえるわけがない。だから、せめておれたちの訓練の邪魔にならないようにしていたのは、知ってるよな?」

「やっぱり、そういう意図があったんだね。幸多くんの動きって」

「おうよ。当たり前だろ」

「当たり前って……まあ、確かにそうだけど」

 真白の言い方に、黒乃は小さく笑った。 

 確かに、その通りではある。

 当たり前なのだ。

 幸多は、普段の訓練では、容赦がない。誰が相手であっても全身全霊で挑み、全力を尽くす。その戦いぶりたるや、星将せいしょう瞠目どうもくするほどだ。

 そんな彼が、星象現界を発動した星将との訓練では、控えめになっていた。

 星将に挑むのではなく、星将の相手をする黒乃たちの補助に徹していたのだ。

 幸多は、自分の身の程をわきまえている。

 自分が一体なにもので、なにができて、なにができないのか、それを理解し、徹底していたのだ。

 だからこそ、九十九兄弟は、彼の想いに応えたいという気分になっていた。

 休日を返上するのも、そのためだ。


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