第五百二十三話 魔暦二百二十二年八月二十五日(十)
「と、とくに怖くなかったね、お兄ちゃん!」
恐怖など一切感じなかったと言わんばかりに愛理はいってきたものの、彼女の両腕は、幸多の左腕を強く抱きしめていた。ともすれば痣が出来るのではないかと思えるほどの力だった。
余程、驚いたのだろうし、怖かったのだろう。
幸多は、背後を振り返り、出雲遊園地の一角に聳え立つお化け屋敷の廃墟そのもののような外観を見た。
霊神の間と名付けられたお化け屋敷は、いまや過去のものと成り果てた心霊現象を中心として、様々な怪奇現象を体感することができるアトラクションである。
様々な魔具や魔機、ときには魔法を用いて多様な怪現象を発生させつつ、遊園地の従業員が扮した幽霊やお化けが現れては、愛理を驚かせていたものである。
幸多は、怪現象はともかくとして、従業員が扮する幽霊たちには、一切驚けなかった。耳が良すぎて、近くにいるのがわかってしまうからだ。
とはいえ、愛理に忠告してしまうと、全てが台無しになるので黙っていた結果、彼女は、時々大きな悲鳴を上げるほどの反応を見せた。
これには、従業員たちも素直に喜んでいることだろう。
「そうだね、怖くなかったね」
「う、うん! 全然! 怖くなかった!」
愛理は、幸多の左腕を抱きしめる力をさらに強めながら、言い放つ。
彼女がなぜ一番最初にこのお化け屋敷を選択したのか、そうした言動からなんとなく理解する。彼女は、この手の心霊現象とか怪奇現象が苦手なのだろう。
だったら、最初から行かないという選択肢もあったはずだが、愛理は、今日だけで出雲遊園地の全アトラクションを制覇して見せると息巻いていたため、除外する理由はなかったらしい。
そして、もっとも苦手なお化け屋敷をこそ、真っ先に制覇することで、これから先のあらゆるアトラクションを全力で楽しめるという風に持っていきたかったのだろう。
どこかでお化け屋敷が待ち受けていると思うと、楽しむものも楽しめなくなるからだ。
(律儀だなあ)
幸多は、愛理の強張っていた表情がゆっくりと解れていく様を見つめながら、そんな風に思う。幸多ならば、苦手な種類のアトラクションは最初から黙殺し、完璧に無視してしまうのだが、どうやら、愛理はそうではないらしい。
出雲遊園地の完全制覇を目指しているからでもあるのだろうが、それにしたって、律儀としか考えられない。
そんな律儀な愛理だからこそ、万能症候群にもかかってしまったのではないかとすら思ってしまう。
幸多がそこまで考え込んでいると、愛理が幸多の手を引っ張って駆けだした。
「次は、あっちだよ!」
「なにかなー」
「なんでしょー?」
「わっかんないなー」
「うふふ」
愛理は、幸多との会話そのものを心の底から楽しんでいるように満面の笑みを浮かべた。
出雲遊園地の広大な敷地内には、数え切れないほどの入場者が充ち満ちている。どこもかしこも人、人、人、という有り様であり、目的のアトラクションを目指す人達、それぞれの施設の前で長蛇の列を作る人達が視界を満たすようだった。
園内を移動する方法として、空を飛ぶという手段を取る人々もいる。
法器に跨がり、飛行魔法を唱え、アトラクションからアトラクションへと一っ飛びに移動するのは、魔法社会ならば当然の光景といっていいだろう。
地上は、人波で満たされている。
ならば、その頭上を飛び越えていくのは、魔法士ならば誰だって考えることだ。
それによって人混みを容易く突破できるのだから、誰だって、そうする。
しかし、地上を歩いている人が多いのは、それだけではどうにもならない事情があるからだ。
法器に跨がって飛んでいる以上、降りる場所に制限がかかってしまうのだ。定められた降車場以外に法器に跨がったまま飛び降りてくるのは、規約違反であり、厳重に注意されるだけでなく、場合によっては退場処分となってしまう。
この人混みだ。
法器に跨がったまま降りてきただけで、他の入場者とぶつかり、大怪我をさせてしまう可能性だって考えられる。
だから、降車場以外での法器の降下は禁止とされているのだし、そのことで度々問題が発生していた。
そして、だからこそ、地上を歩くほうが早い、と考える入場者も少なくないと言うことだ。
「それにしても、凄い数だなあ」
「八月最後の日曜日だもん。皆、張り切っちゃうよね」
「愛理ちゃんも?」
「もっちろん!」
「そっか。ぼくも張り切るか」
「うんうん! 張り切ってよ!」
愛理は、幸多が一緒になって楽しんでくれているのが嬉しくて堪らなかったし、だから、彼の手をしっかりと握り締めながら、速度を上げた。
「皆代幸多か」
天空地明日良は、ハイパーソニック小隊からの報告を受けて、静かにつぶやいた。
明日良は、戦団戦務局戦闘部第八軍団の軍団長である。
そして、第八軍団は、この八月、出雲市の防衛任務を任されており、八月の頭から今日に至るまで、幻魔災害や魔法犯罪に対応してきている。
機械事変やスコル事件が起きた葦原市ほど大事件に巻き込まれてはいないものの、幻魔災害の発生頻度がこの半年間で徐々に高まりつつあるというのは、央都四市どこでも同じことだった。
央都四市の幻魔災害発生率が急激に上昇したのは、特別指定幻魔壱号ダークセラフこと、鬼級幻魔サタンの存在が確認されてからだ。
そして、サタンが〈七悪〉と呼ぶ勢力を率いていることが判明してからというもの、加速度的に上昇している。
それも、サタンを起因としない幻魔災害が、である。
霊級、獣級の低級幻魔がどこからともなく現れ、災害を撒き散らしているのだ。
サタンを起因としないということは、市民が幻魔の苗床にされず、犠牲者がいないということなのだが、しかし、だからといって安心できるものでもない。
幻魔災害の頻発は、央都市民を不安に陥らせるだけでなく、戦団導士たちの緊張を途切れさせず、心身を休ませる時間すら奪いかねない。
それでは、導士たちが消耗していくばかりだ。
いまはまだ、そこまでの状況ではないのだが。
幻魔製造工場の存在が明らかになり、幻魔が無限に近く湧いて出てくる可能性を考えれば、いずれそうなるかもしれないとも、考え込んでしまうのだ。
「いい気なものですね。この状況下で遊園地とは」
「そりゃあ、どうしようもねえだろ」
明日良は、副長・芦屋道魔の冷ややかな口調に苦笑した。
芦屋道魔は、第八軍団の副長、つまり、明日良の補佐、腹心のような存在だ。長身痩躯。病的な白さの肌が特徴的な男で、髪は黒く、灰色の目を持っている。戦団の制服を着込み、胸元には煌光級一位を示す星印が輝いていた。
「皆代幸多は特異点と名指しされた。が、それで本人にどうしろっていうんだ? なにもせず、どこかに隠れていろとでもいうのか? 〈七悪〉はどこにだって現れ、死と破壊を撒き散らす。皆代幸多の居場所がわからないなら、炙り出すために出来る限りのことをするだろうよ」
「それはそうでしょうが。しかし、遊園地とは」
「……そりゃあ、まあ、そうだな」
明日良は、幻板に目を遣り、顔をしかめた。音波空護率いるハイパーソニック小隊から送られてきた映像には、凄まじい人波の出雲遊園地の模様が映っている。その真っ只中を走り回っているのが皆代幸多なのだが。
「多少、考えて欲しくはあったが」
「この人出です。ここにマモン一派が現れるようなことがあれば、とんでもない被害になりかねない」
「音波には、皆代幸多を注視するようにいったが……そうだな。もう少し、戦力を寄越すか」
「それが懸命かと」
芦屋道魔は、静かに肯定すると、必要な戦力の手配を始めた。