第五百二十一話 魔暦二百二十二年八月二十五日(八)
「魔暦二百六年八月二十五日」
麒麟は、深く、静かに語り出した。
彼女の視界に映るのは、十六年前から少しずつ変化した未来河周辺の景色だ。大きくは変わらない。未来河と名付けられた大河は、相も変わらずゆったりと、遥かなる海に向かって流れ込んでいて、その透明な水面は、夏の日差しを受けてきらきらと輝いている。
十六年前のあの日も、そうだった。
「十六年前の今日。あの日、戦団本部ではとても重大な実験が行われていたけれど、副総長であるわたしには直接関係がなかったから、総長閣下に好きにしていいといわれていたのよね」
麒麟が小さく微笑んだのは、総長閣下こと神木神威の気遣いが面白かったからなのだろう。
神威が、麒麟に対し、特別な気遣いを見せることは少なくない。
隻眼で、特別製の眼帯をしているせいもあって、いつも険しく厳めしい顔をしているように見える神威だが、必ずしもそうではないことを美由理は知っているし、だから、麒麟に釣られて口元をほころばせるのだ。
麒麟と神威の関係の深さは、美由理たちの想像の及ぶところにはない。
だが、表面的に見ても、互いに心底信頼し合っていることがわかるし、尊重し、大切に想っているのだろうということは理解できる。
地上奪還部隊が結成される以前からの付き合いだというのだから、さもありなん、というべきか。
「おかしな話でしょう。副総長ともあろうものが、戦団にとって極めて重要な実験に立ち合わなくていい、だなんて、総長閣下が言い出したのよ。まあ、それもこれも、そのころ色々立て込んでいたせいもあるのだけれどね。だから、総長閣下が気を遣ってくれたんだと思うわ」
「閣下らしい気の使い方ですね」
「そうでしょう。あのひとらしい、ぶっきらぼうで、どうしようもない気の遣い方。でも、そのおかげであなたに逢えたのだから、なにもいうことはないわね」
麒麟は、風に揺れる夏草を見た。
熱を帯びた風が河川敷を賑わせる草花を揺らし、音を立て、川面に波紋を浮かべていく。
川の流れは穏やかで、映り込む空の色彩は、透き通って美しい。
世界そのものが美しく感じられるのは、気のせいではあるまい。
「あなたは、あの日、突然現れた。しかも空からよ。わたしは驚いて、危うく助け損なうところだったわ」
「でも、受け止めてくれました」
「導士としての力が鈍ってなかった証拠よね。本当、日々の鍛錬を怠っていなくて良かったと思ったわ」
心の底からの感想を述べて、麒麟は、胸に手を当てた。
十六年前のあの日の出来事を思い出す度に動機がする。
あの日、麒麟は、ただ一人、この長椅子に腰掛けていた。
戦団総長から休養を賜ったこともあり、その日一日だけはなにをしてもよかったし、なにをしなくてもよかった。
そうなると困るのは、なにをして一日を過ごそうか、ということだ。
麒麟には、既に養子たちがいた。が、子供たちは学校に通っていて、だから、子供たちと遊ぶ、あるいは、子供たちを教育するということに時間を費やすことはできなかった。残念だが、同時に安心できることでもあった。
仕方なく、街に出たのだ。
十六年前の葦原市は、しかし、いまと大きく変わっているわけではない。ところどころ、微妙な変化があるのだろうが、麒麟の記憶に残るほどに大きな変化はほとんどなかったのではないか。
やがて、ここに辿り着き、長椅子に腰掛けた。
麒麟は、有名人だ。戦団副総長なのだから、当然といえば当然だろう。しかし、副総長という立場は、市民が勝手に気を遣ってくれるという立場でもあり、大騒ぎになることはなかった。
だから、一人のんびりと川の流れを見ていることができたのだが、そんなときだった。
突然、異音がした。
なにか、空間が弾けるとでもいうような、そんな音。そして、膨大な魔素質量の出現を肌で感じた。
麒麟は頭上を仰ぎ見て、唖然とした。
少女が、空から降ってきたのだ。
今の今まで誰もいなかったはずの虚空に出現した少女は、意識を失っているようであり、麒麟は、咄嗟に飛び上がって少女を抱き留めた。
それが、麒麟と美由理の出逢いであり、十六年前の今日の出来事だ。
「でも、意識を取り戻したあなたは、すべてを失っていた。自分に関する記憶の全て。覚えていたのは魔法の基礎だけで、それも不完全極まりないものだった」
「もう一度覚え直す必要があるほどに」
「本当に、大変だったわね、あの頃」
「はい。本当に」
美由理は、実感として、麒麟の言葉に同意した。自分がなにものなのかもわからないまま、麒麟の養子として伊佐那家の一員となり、美由理と名付けられた彼女にとって、全てが混乱の元だった。
混乱に次ぐ混乱が収まるには、時間が必要だったし、見守ってくれる人達も必要だったのは間違いない。
それが伊佐那家の人達だということは、いうまでもないことだろう。
「でも、良かった」
「そう?」
「はい。麒麟様がわたしを娘として迎え入れることで、様々な思惑から守ってくださったのだと、知っていますから」
「あら。そんなことはないわよ」
麒麟は、美由理の考えを買い被りとした。
確かに、戦団内部には、どこからともなく現れた謎の少女について、徹底的に調査研究するべきだと主張するものがいないわけではなかったし、実際、そうすることが正しかったのは、麒麟もわかっている。
美由理は、全てが謎に包まれた存在だった。
人間だということは、わかっている。
本荘ルナのような、幻魔成分を多量に含んだ人外の存在ではなく、ただの人間。
ただし、他に類を見ないほどの莫大な魔素質量を秘めているという点においては、誰もが驚嘆したものであり、だからこそ、彼女を調べ上げるべきだという意見が噴出したのだ。
それらの意見を封殺したのが、伊佐那麒麟の立場である。
麒麟が美由理を養子として伊佐那家に招き入れたことによって、美由理は鉄壁の守りを得たのだ。
なにものも、伊佐那家の領域を侵すことはできない。
戦団総長や護法院ならば、まだしも。
その総長閣下も、護法院も、麒麟の意向を尊重した。
「だって、現にあなたは戦団最高峰の魔法士として、最強の導士の一人として活躍しているじゃない。存分に利用させてもらっているわよ」
「頼られている、ということですね」
「ふふ……そうね。本当に、あなたは頼りになるわ。あなたがいるから、多少の無茶もできるというものだもの」
麒麟は、美由理の横顔を見ようとして、愛娘が真っ直ぐにこちらを見ていることに気づいた。熱烈な眼差しは、麒麟への親愛の情に溢れていて、少しばかり照れくさくなるくらいだった。
「魔暦二百六年八月二十五日。十六年前の今日、ここで、なにがあったのか」
深層区画の通路は、相も変わらぬ暗闇に満たされている。さながら暗黒の深淵へと至るために用意された回廊のような、全き暗闇。
壁や床を走る蒼白い光線が、わずかにその闇を遠ざけているだけであり、それは余りにも頼りなく、心細いものだ。
いつも、この地下通路を進むたびに実感する。
とはいえ、無意味に光を灯すのもどうかと考えたりもする。困った話だ。
「ここで、ですか」
「そうだよ。戦団本部で、それは起きた。とても大きな事件だ。けれども、真実は秘され、情報局の人間ですら触れることのできない闇に葬られてしまった」
「……そんなことをなぜ?」
「いっただろう。きみを後継者にすると」
明臣は、真後ろの春雪を振り返り、蒼白い光に照らされて、いつも以上に顔色の悪くなった彼の顔を見た。
「わたしの後継者ならば、知っておくべきことだ。ユグドラシル・エミュレーション・デバイス。それは、そう名付けられ、研究、開発された」
「……それは、聞いたことありますよ。ユグドラシル・ユニットの代替品として研究され、開発されていたと」
「けれども、失敗し、央都に甚大な被害を与えたことは知るまい?」
「央都に、甚大な被害……?」
「十六年前の今日、央都でなにが起きたか知らないわけではないだろう?」
「大停止……」
春雪は、はたと気づき、慄然とした。
大停止といえば、央都史上に残る大事件である。
「そう、央都の機能が全て停止してしまったという大事件だよ」
「それがユグドラシル・エミュレーション・デバイスと関係がある、と?」
「あるから、消されたのさ」
明臣は、冷ややかに告げて、深層区画の暗闇を歩き続けた。