第五百十七話 魔暦二百二十二年八月二十五日(四)
幸多と愛理は、央都地下鉄道網を神在駅で降りると、駅を出て、地上に上がった。
長い間地下にいたからだろう。地上への階段を上っている間、頭上から差し込んでくる光が異様に眩しく感じられた。
新鮮な太陽の光だ。
地下鉄道網である。当然、関連する設備は全て、地下にある。
地上に上がれば、駅前広場があるのが通例であり、この場所に地下鉄の駅があると大きく主張しているのだ。
駅前広場は、幸多たち以外にも列車を降りた乗客たちで溢れかえっていて、愛理が言った通り、二人と同じ目的地に向かっているようだった。
皆、夏休み最後の日曜日に央都最大の遊園地を満喫しようというのだろう。
駅前広場からは、市営バスが出雲遊園地への直行便を出しており、バス停には人集りが出来ていた。
もちろん、幸多たちもバス停に並び、バスが来るのを待たなければならい。
幸多は、もはや帽子を目深に被るのを止めていて、だから周囲の注目を浴びていたが、気にならなかった。
愛理のほうが、緊張しているくらいだ。
愛理のためにももっと変装しておくべきだったか、と、考えるのだが、変装したところでどうにもならない事態だったのだから、考えるだけ無駄だと想うことにした。
愛理は、第三世代だ。あの程度の高さから落ちてきて地面に激突したところで、軽い怪我で済むだろうし、その程度の怪我ならば、愛理自身の治癒魔法で回復してしまえるだろう。
いや、第三世代の自然治癒力を考えれば、魔法を使う必要すらないかもしれない。
が、だからといって、頭上から落ちてくる少女を無視できるわけもなかった。無視すれば正体を隠し続けることも不可能ではなかったかもしれないし、大騒ぎにならなかったかもしれないが、だ。
法器に跨がって上空を飛んでいた市民が、ふとした拍子に落下する事故は、この魔法社会において日常的な出来事であり、大した事件ではない。
通常、一般市民の飛行魔法には高度制限が設けられていたし、高度制限を守っている限り、どのような高さから落下しても死ぬこともなければ、とんでもない大怪我を負うこともなかった。
人体は、それほどまでに強化されている。
打ち所、当たり所が悪くとも、制限高度からの落下程度で重傷を負うことはなく、誰かが落下してきたとしても、心配する市民というのはほとんどいない。
日常茶飯事なのだ。
誰もが完璧に魔法を使いこなせるわけでもなければ、ちょっとした拍子に制御を失敗することだってある。
わずかばかりの不注意から落下することもだ。
だから、愛理が落下してきたことそのものが大騒ぎになるということはなかったのだが、しかし、幸多が見過ごせるわけもなく、結果として人々の注目を集めることになってしまった。
とはいえ、それを失敗したなどと想う幸多ではない。
元々、有名人だという自覚がある。多少変奏したところで、すぐにばれるのではないかと想っていたし、実際、そうなる可能性は大きかった。だから、というわけではないにせよ、ばれたところで別に構わないという意識があった。
周囲の大騒ぎというのは、一時的なものだ。しばらくすれば収まり、やがて、それぞれの目的へと帰っていく。
実際、いまがそうだ。
バス停に並ぶ市民のほとんどは、幸多に注目していない。その意識の大半は目的地へと向かっていて、遊園地をどう満喫するかについて議論する人々が大半だった。
「愛理ちゃんは、なにから乗りたい?」
「えーと……」
愛理は、幸多に問われて、慌てて携帯端末を取り出した。
幸多と約束を取り付けてからというもの、毎日のように出雲遊園地の公式サイトを見ては、様々な想像を膨らませていたのだが、その妄想に意識を持って行かれ過ぎていたのだ。
結果、遊園地をどのようにして回るべきかという、もっとも大事なことが抜け落ちてしまっていた。
「慌てなくて良いよ。時間はまだまだあるし、ゆっくり回ってもいいからね」
「でもでも、せっかくお兄ちゃんと遊びに行くんだから、堪能したいよ」
「……そうだね」
幸多は、愛理が幻板に表示した出雲遊園地のサイトと睨み合う様を見つめながら、微笑んだ。
出雲遊園地は、央都四市の中でも最大規模の遊園地である。
遊園地ならば、央都四市のいずれにも一つ以上は存在しているものだが、出雲遊園地ほどの規模、設備を誇る施設は存在しない。
央都政庁は、大社山に様々な施設を集約させたが、その最たるものが出雲遊園地なのだ。
広大な敷地内は起伏に富み、その起伏そのものを利用した遊覧、娯楽設備が無数にある。全てを堪能するには一日では足りないという評判であり、愛理がどういう順番で巡るのかを悩むのも当然というべきだろう。
幸多を独り占めにできるのは、今日という一日にしかない。
愛理は、そう確信していた。
少なくとも、愛理が戦団に入るまでは、そうならざるを得ない。
愛理は一般市民で、幸多は、戦団の導士だ。しかも閃光級二位に昇格し、輝光級まで後少しという段階なのだ。輝光級に上がれば、小隊を率いることとなり、今以上に忙しくなることは明白だ。
愛理に構っていられる暇など、あろうはずもない。
だからこそ、いま、この瞬間、この一日を大切にしたかったし、幸多に満足してもらいたかったのだ。
もっとも、今日が最後、などとは想ってもいない。
愛理は、星央魔導院に入学することが決まっている。
三年間、星央魔導院で学び、己を鍛え、磨き抜き、卒業と共に戦団に入るのだ。そうすれば、幸多とは同僚である。もちろん、階級の上では遥かに下になるだろうが、彼の部下になることも夢ではない。
それが、愛理の希望となって、彼女の胸の奥に輝いている。
やがて、バスが列を成してやって来た。
出雲遊園地直行バスである。明るい緑色に塗装されたとてつもなく巨大な車両であり、何人もの乗客を次々と飲み込んでいく様は、圧巻といってよかった。
幸多と愛理も乗ることが出来たが、仮にこの車両に乗ることが出来なかったとしても、四台もの列を成す車両のいずれかには乗れたはずであり、なんの心配もなかった。
夏休み最後の日曜日。
遊園地側とて、それを理解していないわけがない、ということだろう。
幸多たちは、中程の席に座ることになり、愛理に窓際の席を譲った。もっとも、愛理は、窓の外の景色よりも、携帯端末との睨み合いのほうが重要であるらしかったが。
そんな愛理の気遣いが幸多には好ましく思えたし、彼女のためになにができるのか、と、考えるのだった。
バスが動き出す。
ぐるりと駅前広場を旋回し、大社山に向かって走り出したのだ。
大社山は、神在駅からは南方に位置している。神在町の南半分が大社山といっても過言ではないため、駅からでも大社山の威容を見ることが出来た。
雲一つ見当たらない青空の下、燦々《さんさん》と降り注ぐ太陽が、大社山の青々とした山並みを照らし出していた。
まさに夏という感じがある。
八月は、終わろうとしているが、まだまだ夏が終わる気配はなかった。
九月半ば、あるいは十月上旬までは、徐々に薄れる熱気に苛まれること請け合いだ。
毎年そうなのだから、今年もそうに違いない。
そんなことを考えながら、幸多は、愛理が頭を悩ませる様を横目に見て、微笑む。彼女が思い描く通りに動いてやることが、自分に出来ることなのだろう、と、幸多は想うのだ。
これは、愛理が星央魔導院早期入学試験に合格したご褒美なのだ。
ならば、愛理の思い通り、望み通りのことをしてやればいい。
愛理は、万能症候群を患いながらも、過去最高成績で合格したというのだ。それがどれほど困難だったのか、幸多には、想像も付かない。
そんな彼女のためにしてやれることもまた、幸多には、考えられないのだ。