第五百十六話 魔暦二百二十二年八月二十五日(三)
葦原市中津区旭町の桜台駅から央都地下鉄道網に乗り、北へ。
山祇駅を通過すると、乗客を乗せた列車は空白地帯へと至るのだが、遥か地下である。常に幻魔が蠢いている地上のような危険性は極端に少ない。
故にこそ、地下鉄道網や、大地下道が発展したのだが。
空白地帯を抜ければ、すぐに出雲市内へと至る。
幸多は、その頃には、帽子を目深に被るのを止めていた。
もはや、幸多がどれだけ帽子を深く被ろうとも、格好そのものがばれてしまっている。白と黒の上下。普段着のような派手さはなく、極めて大人しい色合いのそれは、幸多にとってしてみれば、あまり好ましくないものだったが、奏恵に見繕ってもらうことにしたのは自分自身だということもあって黙って着込んでいた。
その上で帽子を目深に被った結果、桜台駅に着く迄はほとんど気づかれることがなかったのだから、さすがは母というべきか。
しかし、もはやどうにもならない事態になっていた。
愛理を空中で受け止めたこともそうだが、帽子が飛んでいって素顔を曝け出してしまったことによって、周囲の注目を集めてしまった。
その結果、鉄道に乗るまでも、乗っている間も、幸多は注目の的だった。
とはいえ、さすがに幸多に直接声をかけてくる市民はおらず、遠目に見守っているという様子だった。
しかも、幸多は、幼い少女と連れ立っているのだ。
あまり騒ぎ立てるのはよろしくない、と、周囲の人々が考えてくれたのだとすれば、ありがたいのだが。
「わたしのこと、どう思われてるのかな?」
窓際の席の愛理が、幸多に囁くように聞いた。
窓の外の景色というのは、代わり映えがしない。地下鉄道網である。
央都四市を結ぶ複数の路線は、幻魔災害対策ということもあって、広い空間を確保されているのだが、だからといってそれらの空間になにかしら変化があるかといえば、そんなわけもなかった。
代わり映えのしない魔法金属製の壁には、地下の暗闇を照らす照明が等間隔に設置されていて、窓の外を流星のように流れていく。
時折、駅とは異なる広い空間を見ることがあるが、それらは、導士の駐屯所である。
戦団戦務局戦闘部の任務は、防衛任務と衛星任務に大別されるが、防衛任務は、なにも市内を監視したり、巡回するだけではない。
幻魔災害の発生に備え、大地下道や地下鉄道網各所に設けられた駐屯所に待機するのもまた、重要な任務なのだ。
戦団は、常に人手不足だと訴えているが、その理由の一つがこれだ。
央都四市のあらゆる場所に人員を割り当てなければ、幻魔災害に対応できないのだ。
幻魔災害は、いつ何時、どこで起こるのかわかったものではない。
地上のみに限定されるわけもなければ、央都大地下道の真っ只中で幻魔災害が発生し、大事故が引き起こされたことも少なくない。
幸いなるか、地下鉄道網で幻魔災害が起きた記録はないのだが、しかし、だからといって絶対に安全とは言いきれないのが、この世界だ。
この幻魔に満ちた地獄のような世界。
それでも、人は懸命に生きているし、生きていかなければならない。
「兄妹とか?」
「お兄ちゃんに妹がいたら、もうとっくに取り沙汰されてるよ」
愛理は、幸多の冗談にくすりとわらった。
幸多の存在は、幸多が導士になる以前から、世に知られていた。それはなぜか。理由は極めて単純だ。彼に兄弟がいて、極めて優秀な導士だったからだ。
皆代統魔。
星央魔導院を飛び級で卒業し、綺羅星の如く現れた彼は、瞬く間に輝光級に昇格した。
期待の超新星、希望の星、人類の未来を背負うもの――導士や市民の期待が、彼を様々に評した。
当然のように統魔に関する話題が双界に溢れたし、彼の家庭環境に関しての情報も掘り尽くされた。彼が十歳の誕生日で父親を幻魔に殺されたという悲痛な話は、彼が導士になった動機であろうと推測され、同情され、悲劇のヒーローの誕生物語のように扱われた。
魔法不能者の兄弟がいるということも、当たり前のように知られたし、多少、注目を集めたりした。
つまり、幸多がいまや飛ぶ鳥を落とす勢いで注目を集めている今、幸多に妹がいるのであれば、知られていないわけがない、と、愛理はいうのだ。
「確かに、そうか」
「そうだよ。うん」
愛理は、車窓の外に向けていた目を幸多に戻して、椅子に座り直した。周囲の視線は、もう気にならない。幸多が側にいてくれるのだ。それだけでなによりも幸福だったし、安心していられた。
どんなことがあっても、幸多が守ってくれる。
そう、信じられた。
「じゃあ、恋人同士とか?」
「お、お兄ちゃん……!?」
「冗談だよ」
幸多は、愛理に笑いかけたが、愛理が真っ赤にした顔を背けてしまったため、当惑した。言葉選びを間違えてしまったのかもしれない。
やがて、二人と大量の客を乗せた列車は、地祇駅、大社駅を通過し、神在駅へと至る。
その間、幸多と愛理は、色々と話をした。直接話し合えなかった期間が長すぎたこともあって、愛理は、溢れ出す想いを止められなかった。
そんな愛理の怒濤のような言葉を受け止めながら、幸多も、彼女が自分のことをどれだけ想ってくれているのかを知った。愛理がとにかく幸多のことを心配していたということも知れたし、活躍を喜んでくれたこともよくわかった。
愛理が今日という日をとにかく楽しみにしていたということも、だ。
神在駅に辿り着くと、大勢の乗客が降り始めた。
「みんな、遊園地に行くつもりなのかなあ」
「かもしれないね。夏休み最後の日曜日だし」
「そっか。そうだった」
愛理が、席を立って鞄を背負いながら、想いだしたようにいった。
「だから、父さんも母さんも、家族で一緒に遊びに行きたがってたんだ」
「それは……」
「わたしは、お兄ちゃんと一緒がいいの」
愛理は、幸多の目を見て、きっぱりといった。幸多は、愛理が家族と一緒にいることのほうが大事なのではないか、といわんとしているようだったが、それを制したのだ。
「だって、家族とはいつでも一緒に遊びに行けるけど、お兄ちゃんは、そうじゃないでしょ?」
「……そうだね」
幸多は、愛理の気持ちを否定しなかった。
確かにその通りではある。
今日、愛理と遊びに来られたのは、偶然であり幸運以外のなにものでもないのだ。
八月が夏休みで、幸多が夏合宿中で、夏合宿中の日曜日が休養日だったからこそ、今日という一日を設けることができたのだ。
本来ならば、防衛任務の真っ只中であり、なんらかの任務中かもしれなかった。
もちろん、防衛任務にも休養日はあるのだが。
衛星任務だったとすれば、休養日であっても、逢うことすら叶わない。
愛理は、そのことをいっている。
幸多は、愛理に手を伸ばし、愛理は、幸多の手を取った。嬉しそうに握り締める彼女の反応を見れば、彼女が今日という一日にどれだけの想いを込めているのか、わかろうというものだ。
幸多も、そんな彼女の想いに応えようと想った。
神在駅は、出雲市の北西部に広がる神在町の真っ只中に位置している。
出雲市は、葦原市に続いて開発された第二の都市であり、全体的に葦原市を規準として作られている。道幅、建物の高さ、避難所の配置――あらゆる部分が、葦原市の建築基準に則ったものなのだ。
だからだろう。
町並みも、どことなく、葦原市と似通っているのだ。
しかし、そんな出雲市にあって、葦原市と大きく異なる景観をもたらすものがある。
それが大社山である。
出雲市には、四つの街がある。
北西に位置する神在町、北東に位置する天神町、南部に横たわる地祇町、そして、中心に広がる大社町だ。
大社山は、そんな大社町と神在町、さらに地祇町にまで跨がるようにして聳え立っており、出雲市の象徴となっている。そして、大社山の中心には巨大な湖があり、山々がその湖を取り囲むような地形になっていることも、知られた話である。
そんな大社山だが、最近では、大社山頂野外音楽堂を飲み込んだ虚空事変で取り沙汰された。
幸多にとっても、その記憶が強い。