第五百十五話 魔暦二百二十二年八月二十五日(二)
幸多は、地上に降り立つとともに愛理を腕の中から解放すると、周囲から拍手や歓声を浴びたものだから、わざとらしいまでに丁重なお辞儀をして見せた。
まるで愛理が落ちてきたことが予定通りであり、全てが演出だったかのような幸多の反応には、一連の流れを見ていた市民たちも安堵したような、納得したような、それにしては不思議すぎやしないか、などというような表情を見せるのだ。
幸多は、もはや押しも押されぬ有名人だ。
今日という日のために母に見繕ってもらった衣服は、派手すぎず、決して目立つことのない、幸多らしからぬものであり、幸多の普段着の有り様を知っている九十九兄弟などは、逆に面白がったりしたものだが、そのおかげで街に溶け込めていたのだ。
先程まで幸多の存在を認識していた人々はわずかばかりであり、囁き合うようにして、本人かどうかを確かめる術を考え込んでいるような風だった。
帽子を目深に被っていたのもあるだろうが。
しかし、愛理が落ちてきて、咄嗟に飛び上がった幸多の身体能力は、常人のそれではなかった。
飛行魔法を用いたのであれば、誰だってそれくらいの跳躍力を発揮できるのだが、落下してきた少女を抱き留めた人物が魔法を使っていないことは、誰の目にも明らかだった。
律像の形成も、真言の発声もなかった。真言を小声で唱えた可能性はあるが、律像が存在しないことには魔法は発動しえない。
なんにせよ、普通では考えられない跳躍力でもって空中の少女を受け止めた上、降下中、帽子が飛んでいってしまったこともあり、彼の正体が白昼の元に曝されてしまったのだ。
それによって、駅前広場に集まっていた一般市民がどよめき、大騒ぎとなった。その騒ぎを収めるためにこそ、幸多はお辞儀をして見せたのだが、そんなことで収まるわけもなかった。
「ごめんね、お兄ちゃん」
愛理は、幸多を認識した市民の間に広がる驚きと興奮の波紋を目の当たりにしながら、幸多の人気を再確認しつつも、謝った。
幸多は、そんなことは全く気にしなかったため、辺りを見回して、落下中に飛んでいった帽子が奇妙な形の時計台の上に引っかかっているのを発見した。
「問題ないない」
幸多は、愛理に向かってそう囁くと、再び跳躍して時計台に引っかかった帽子を掴み取って、着地する。
観衆が拍手をしてくるので、またしても大きくお辞儀をして見せて、帽子を目深に被った。
無数の携帯端末が幸多に向けられていて、そのことが多少、気がかりになったのは、愛理が巻き込まれかねないことだった。
(困ったな)
幸多一人が撮影されるのは、どうでもいいことだ。
戦団の導士である以上、このような市民の反応は、ある程度仕方のないことだと割り切らなければならない。
導士は有名人であり、一部の導士には、アイドルめいた人気すらあるほどに持て囃されているのだ。優秀な導士ほどそのような傾向があり、星将にもなれば、どこにいても人集りができるほどだった。
最近では、星将ではないものの、皆代統魔の人気は爆発的で、普通に街を歩くのが困難なほどだと愚痴を零していた。
故に、有名な導士ほど、優れた変装技術を身につけるものであるらしい。
幸多は、変装というほどの変装はしていない。奏恵が見繕ってくれた衣服が普段着とは大きく傾向の異なる服装だということと、目深に被った帽子が、彼にとっては変装になったのだ。
それが、いまやばれてしまった。
導士の私的な時間ですら、周囲の市民の行動によって阻害されてしまうことはありふれている。
もちろん、大半の市民は、気を遣って見て見ぬ振りをしてくれるものだったし、遠目から、こちらにもわからないように撮影するに留めるのだが、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。
あまりにも目立ちすぎた。
愛理が気にするのも無理はない。
とはいえ、過ぎたことだし、仕方のないことだ。
愛理が魔法の制御に失敗することもまた、よくあることなのだ。万能症候群を完璧に克服できたわけではないのだから。
それでいて、星央魔導院の早期入学試験を過去最高の成績で合格したというのだから、彼女の努力たるや、幸多の想像を絶するものに違いない。
才能だけでは、それだけの結果にはなるまい。
魔導院は、才能を発掘する場所ではあるが、才能だけを重視しているわけではない。才能、実力、人格――個人を形成するあらゆる要素をこそ重視し、そのために入学試験の場において、座学、実技、面接の三項目を徹底して行うのだ。
愛理は、少し、バツの悪そうな顔で幸多を見ていた。
今日という日のためにおめかししたのだろう彼女は、可憐としか言いようがなかったのだが。
陽光を浴びて煌めく艶やかな黒髪には、銀の月を模した髪飾りが輝いている。銀の月は、伊佐那美由理の象徴として関連商品の数々に採用されているが、その髪飾りも数多ある美由理グッズの一つだろう。
愛理が美由理の熱烈なファンだということは、幸多もよく知っていたし、逢うたびに、美由理の話をせがまれた。
幸多も、そんな愛理のために、誰も知らない美由理の話をこっそりと教えたりした。
美由理の象徴が銀の月なのは、星象現界・月黄泉に由来するのだが、一般的には、美由理が月と銀色が好きだからグッズに多用されるようになったという風に伝わっている。
だから、美由理ファンは、銀の月を模した装飾品を身につけることが多い。
愛理がそうであるように。
身につけたワンピースにも、銀の月と無数の星々がちりばめられており、彼女がいかに美由理ファンであるかを主張しているかのようだった。
手にした法器が伊佐那美由理モデルであることを含めれば、彼女がとてつもなく伊佐那美由理に憧れていることが誰の目にも明らかだ。
とはいえ、彼女程度の美由理ファンならば、央都市内にいくらでもいて、別段、目立つような格好ではなかった。
法器を縮小して、鞄の中に突っ込んだ愛理は、少し、考え込んだ。幸多に助けられた一般市民を演じるべきか、どうか。
幸多は、いまや注目の的だった。
駅前の広場だ。
夏休み最後の日曜日を満喫するべく、たくさんの人達で溢れかえっている。親子連れもいれば、恋人たちも多数いるし、学生の集団と思しき人達も見受けられる。それらの人達が、幸多に向けて声援を送ったり、携帯端末を無遠慮に向けているのだ。
そんな状況下で幸多に近寄るのは、幸多に迷惑をかけるのではないか。
愛理が考え込んでいると、帽子を被り直した幸多が歩み寄ってきて、彼女の手を取った。
「行こうか」
「……うん!」
愛理は、幸多の手を強く握り返すと、そのときには、周囲の視線や反応が一切気にならなくなっていた。
まるで魔法だ、と、愛理は思う。
幸多といるだけであらゆる不安が吹き飛び、幸多のことだけを考えられるのだ。これから幸多となにをしようか。遊園地のどこをどう回ろうか。今日の予定を考えることに集中できるのは、幸多が手を握ってくれるからだ。
幸多の左手と強く握り締めれば、握り替えされる力は優しく、穏やかだ。
愛理は、そんな幸多が好きで好きでたまらなかったし、だから、こうして二人きりで遊びに行けることが嬉しくて仕方がなかった。
そう、だから、なのだ。
愛理が魔法の制御に失敗することは、まま、あることだ。しかし、幸多との訓練を経て、対処できるようになった。
制御が失敗しても、すぐさま制御し直せば良い。
言葉にするには容易いが、生半可な魔法技量で出来ることではない。少なくとも、一般の魔法士がはいそうですかと真似のできるものではなかった。
愛理は、それをほぼ完璧に行ってきた。
魔導院の試験ですら、制御に失敗したが、失敗したことに気づかれることなく制御し直して見せたのだ。だからこそ、最高得点を叩き出すことができている。
しかし、だ。
愛理は、眼下に幸多を発見した瞬間、興奮の余り、飛行魔法の制御をし直すことに失敗してしまった。
それくらい、愛理にとって、幸多の存在というのは、大きい。