第四百八十五話 煌めく(一)
静謐があった。
広大な工場の真っ只中、そこら中で激しい戦いが繰り広げられているにも関わらず、音が聞こえなかった。なにひとつ、耳朶に届かず、鼓膜を揺らさなかった。
絶対的な静寂。
なぜ、こんなにも静かなのだろう、と、疑問に思うことはない。
答えは、わかりきっている。
周囲には、上司と部下からなる混成部隊がいて、いままさに一カ所に集まるべく努力しているところなのだが、その努力が実る気配はなかった。
洪水のように押し寄せるトロールの群れが、中隊の合流を阻んでいる。
六甲小隊は、小隊長の六甲緑が防手である。第九軍団でも最高峰の防型魔法の使い手である彼女の部隊は、中隊の中でももっとも安定しているといってもいいだろう。
緑の展開する防型魔法は、当初、トロールの強力無比な打撃にびくともせず、隊員たちは安心して攻撃に専念できていたのだが、それでも、次第に押され始めていた。四方八方、空中からも殺到するトロールの猛攻は、暴風雨さながらであり、どれだけ強力な防型魔法であっても削られていくしかない。
薬師小隊は、防手・西山祐希の防型魔法を中心とし、薬師英理子自らが攻撃の先頭に立っていた。さすがに杖長、煌光級導士である。その攻型魔法の苛烈さは、他の導士とは比べものにならず、トロールの強固な魔晶体を容易く打ち抜き、何体ものトロールを撃破していた。
だが、トロールは、総勢五百体もいるのだ。それらが絶え間なく押し寄せてきていて、攻勢が弛むことがなかった。
だからこそ、合流し、防御を固めようとしているのだが、それもままならない。
皆代小隊は、枝連の防型魔法を要とし、香織と統魔が主力となって奮戦していた。朝彦も戦っているのだが、星象現界と生命維持に魔力を使い果たしたといっても過言ではない状態だった。その代わりなのか、躑躅野南が気を吐いている。
そして、そんな中、三田の元へとただ一人突っ込んでいったのが、ルナだ。
ルナは、三田に一蹴された。
元より、戦闘能力においては、皆代小隊でももっとも低いのがルナだ。
余程朝彦が侮辱されたのが許せなかったのか、感情の激するままに飛び出していったルナだったが、為す術もなく撃ち落とされ、叩きのめされている。
その過程でルナの正体がバレるのは、別にどうでもいいことだろう。
三田は、〈七悪〉の一味だ。マモンの下僕であり、悪魔に魂を売り渡した人間だ。
しかし、三田を人間と呼んでいいのか、という疑問が湧く。
マモンの誘惑に乗り、生体義肢の実験体になっただけでなく、機械型幻魔と同様の改造を施された彼には、人間としての誇りも尊厳もないのではないか。
それならば、怪物と言い張りながらも朝彦の尊厳のために必死になって食らいつこうとするルナこそ、人間なのではないか。
だから、その悲鳴が聞こえなくなってもなお続けられる三田の攻撃の数々が、統魔には、悪魔の所業にしか見えなかったのだし、心の中に静謐が訪れたのだろうと確信していた。
聞こえるのは、外の世界の音ではない。
内の世界の音だ。
体内を流れる血液がさながらマグマのように唸りを上げ、細胞という細胞が熱を帯び、吼え猛っているかのようだった。鼓動が高鳴り、脈動が世界そのものを震撼させる。
皆代統魔という一人の人間の小さな世界が、今まさに大きく揺らぎ、目の奥でなにかが煌めいたのだ。
「ルナは、悪い奴じゃないんです」
「おう。それはようしっとる。ほんま、ええ子や。なんか、おれのこと、勘違いしとるようやけど」
朝彦は、耳朶に残るルナの叫びについて、そういった。照れ隠しにほかならないのは、統魔にもわかる。
「そんなこと、ないです」
「ん?」
「きっと、ルナには、味泥杖長のことがそう見えてるんですよ」
「そんなもん、超人やんけ」
「ええ、きっと、超人なんです」
ルナの中では、と、統魔は、付け足しながら、一歩、進み出た。すると、香織と枝連が統魔を振り返る。二人とも真に迫った顔をしていた。
「どうしよう、隊長。このままじゃ、ルナっちが!」
「隊長、命令してくれ。おれたちに、命令を!」
二人がルナが受けている仕打ちに怒り心頭といった有り様なのは、その表情を見なくともわかった。ルナは、身動きも取れない状態で、鳴雷の連撃を浴び続けている。
雷鳴のような爆撃が、この工場の広大な空間を震撼させ、爆煙が満ちていく。
しかし、統魔には、その音は聞こえない。
静けさだけが、統魔の中に在った。
そして、その静けさを焼き尽くすのは、いつだって感情だ。
感情が、命を燃やす。
「隊長命令だ。この場を動くな」
「え……ええ!?」
「なにを……隊長!?」
香織と枝連は、顔を見合わせ、すぐさま統魔に視線を戻した。統魔は、二人の間を通り抜け、魔法壁の外側に飛び出している。
朝彦も、止めない。
「いいんですか、隊長?」
「おう、かまへんかまへん。なあ、皆代統魔!」
「はい、杖長」
統魔は、朝彦を一瞥して、感謝を述べた。
自分がいまこうしてここにいられるのは、きっと、朝彦のおかげだ。朝彦が日夜訓練に付き合ってくれたからこそ、星象現界の尽くを叩き込んでくれたからこそ、こうして、ここにいられるのだ。
朝彦ほど面倒見の良い杖長もそうはいないのではないか、と、想えてならない。
ルナが好きだと公言する数少ない人物の一人なのも頷けるというものだ。
統魔も、朝彦が好きだったし、だからこそ、彼を失うわけにはいかないと思ったのだ。
そしてそれは、ルナも同じだ。
ルナを失いたくなかった。
殺されたくなかった。
(ああ……これが……)
統魔は、今この自分を突き動かす感情こそが怒りなのだと再認識する。
怒り。
それは、統魔の原動力だ。
統魔を突き動かし続ける無限の力であり、不変の力だ。
そしてそれは、理不尽にこそ、最大限に発揮される。
いままさにルナを蹂躙する三田という理不尽の権化に対し、統魔は、怒りを解き放つ。
トロールの頭を踏みつけ、振り上げられた拳を蹴り飛ばすようにして、前に翔ぶ。飛行魔法は、無意識に発動していた。
空中を駆け抜けていく間にも、魔力を練成し続ける。練成に練成を重ね、魔力を幾重にも練り上げるイメージ。
前方、雷撃が止んだ。
三田が統魔の接近に気づいたのだ。
統魔は、最短距離で三田の元へと飛行していた。直線的な低空軌道。三田が、ルナの髪を掴んで持ち上げながら、電撃を浴びせ続ける。ルナが悲鳴を上げているのがわかった。
「こんなものが必要なのか? 皆代統魔!」
「ああ、とっても大切なひとだからな」
そう断言したとき、統魔は、再び、網膜に星が煌めくのを視た。
その瞬間、三田がルナを空中高く放り投げた。統魔は、透かさずルナへと駆け寄る。もちろんそれは、統魔を誘き寄せるための罠に過ぎない。三田は、口の端を歪めた。右足を振り上げ、鳴雷を放つ。
そして、三田の目は、確かに、統魔の全身から膨大極まりない量の律像が発散する様を目の当たりにした。
複雑にして精緻、莫大にして幾重にも絡み合った無数の紋様が織り成す、図形。
「これは……」
三田は、律像の情報密度に圧倒されながらも、しかし、ルナを抱え込んだ統魔に、鳴雷が吸い込まれるようにして直撃し、大爆発を起こす様を見ていた。
嘲笑う。
どれだけ律像を精緻に描き出そうとも、魔法を発動できなければ意味がない。
鳴雷は、直撃した。
今や律像は霧散し、爆煙の中から二つの影が落下してくる――はずだった。
だが、その直後、三田が目撃したのは、爆煙を吹き飛ばす光であり、神々しいまでの輝きであった。爆煙は瞬く間に消えて失せ、凄まじいとしか言いようのない光が、三田の網膜を灼き尽くしていった。
光は、あっという間に工場内を黄金色に染め上げていき、その場にいる全てのものの注目を集めた。
味泥中隊の導士たちだけではなく、何百体ものトロールまでもが、光を見ていた。
光の中心には、統魔がいた。
呆然とするルナを抱き抱える彼は、全身、黄金色の光を帯びていて、他を圧倒する存在感を放っていた。