第四百八十四話 ルナ(二)
「ルナ!?」
統魔が愕然と叫んだときには、彼女の姿は上空へと至っていた。
幻魔製造工場は、極めて広大な空間だ。地上から天井が見えないくらいの高さがあり、だから、空中を翔び回って移動するのは、理に適っている。
地上には、トロールが充ち満ちている。それこそ、トロールがひしめき合って動き回れないほどにだ。
それでもトロールの攻勢が苛烈さを増す一方なのは、トロールたちが、その極めて高い身体能力を発揮するためならば、愚鈍な頭に血が回るからだろう。
つまり、ただ敵に向かって押し寄せるのではなく、飛びかかって、攻撃する機会を作るのだ。トロールの巨躯が、次々と、間断なく飛びかかってくる様は、さながら砲弾の雨霰であり、上空から降り注ぐトロールの体当たりだけで魔法壁が削れ、亀裂が走っている。
補手が防型魔法の維持に協力しなければならないほどの事態だ。
まさに防戦一方。
トロールを各個撃破していったとしても、殲滅しきるまでにこちらの力が尽きるのは目に見えていた。
持久戦など不可能だが、救援がこちらに向かっているのなら話は別だ。極力、消耗しないように注意を払いながら、防壁を強化するべく、小隊の合流を行おうと、朝彦は考えていた。
その矢先だ。
味泥中隊が、完全に孤立してしまった。
外部との通信が途絶したのだ。
三田曰く、大空洞の蓋が閉じた、ということだが、それがなにを意味するのかは想像するしかない。
おそらくだが、このダンジョンを外部から隠していた機能を使用し、再び隠して見せた、ということなのだろうが。
あるいは、なにか別の方法を用いたのか。
だが、前者の可能性のほうが高いように思われた。
三田は、この施設の操作方法に詳しいのだろう。先程、トロールたちを解放して見せたように、ダンジョンの蓋を閉じたのだ。
閉じたということは、開けられる、とうことでもある――のだが、いま、意識を向けるべきは、上空を舞い上がったルナだった。
なぜか突如として激昂したルナが、枝連の結界を飛び出すと、光の花弁を撒き散らしながら、空を翔けていく。花弁は、彼女が背負う花弁の結晶のような飾りから放出されていて、それはさながら彼女の感情の昂ぶりを現しているようだった。
「ルナっち!?」
「なに考えてる!」
「くそっ!」
香織や枝連が当然のように声を上げる中、統魔は、飛び出そうとして、引き留められた。見れば、朝彦の手だった。
「味泥朝彦のことだよ、奇怪な姿のお嬢さん」
「味泥さんのことを悪くいうなんて、許せない!」
「悪く言う? 違うな。本当のことをいっただけだ」
「たとえ本当のことでも、ひとを傷つけるようなことをいってはいけないって、学校で学ばなかったの!?」
「……きみは、なんだ?」
三田は、光の花弁を撒き散らしながら飛来する少女を見遣りながら、軽い頭痛を覚えた。まるで会話になっていない。いや、相手に会話をするつもりがないのだ。
ただ、感情だけをぶつけてきている。
そして、その感情が魔力となって全身から迸り、極めて直線的な律像を描き出していた。それがなにを意味するのか、三田にすらはっきりと理解できるほどに単純で、単調な律像。
だが、破壊的なイメージ。
「味泥さんは、いい人だよ! こんなわたしにだって全力で教えてくれる、とってもいい人! わたし、大好きだもん!」
「だったらなんだ。味泥朝彦と一緒に死ねばいいじゃないか」
「死なないもん! わたし、こんなところで死ねないのよ!」
「こいつ……!」
三田は、とうとう我慢の限界を超えた。苛立ちが怒りとなって爆発し、彼は右足を掲げたのだ。振り上げた右足が眩い雷光を発し、一条の光芒となって虚空を貫く。
一瞬だった。
一瞬にして鳴雷はルナに直撃し、彼女の右腕を吹き飛ばしたのだ。
「きゃあっ!?」
ルナの右腕の切断面から血が噴き出し、彼女の態勢が崩れる。そこに二発目の鳴雷が直撃し、悲鳴が閃光と轟音に掻き消された。
「ルナ!」
統魔は叫び、彼女に向かって飛び出そうとした。だが、できなかった。
振り向くと、朝彦の目が冷徹に統魔を見つめていた。肩が、がっしりと掴まれている。
「あかん。いま、きみが行っても二の舞いになるだけや」
「でもっ」
「皆代くん、冷静になれ。きみは小隊長やろ。隊員一人が暴走するだけならともかく、小隊長まで我を忘れるようなことになったら、小隊は終わりや。新野辺くんや六甲くんまで見殺しにするつもりやないやろな」
「それは……」
朝彦に諭されて、統魔は、口を噤んだ。
極めて論理的で理性的な言葉であり、判断だった。さすがは杖長筆頭というべきなのだろうし、戦場であれば、常に彼のようにあるべきなのだろう。
朝彦は、軽妙かつ軽率そうな言動ばかりしているが、その実、常に冷静に思考を巡らせており、感情に左右されることのないように己を律しているのだ。
統魔には、まだまだ到底真似の出来ないことだと、思い知らされるのだ。
統魔は、ルナを見遣ることもままならない。拳を握りしめ、眼の前に殺到するトロールの対処をしなければならないのだ。
でなければ、全滅してしまう。
「考えもなしに突っ込むことを、全力で教えたのか? 味泥朝彦」
三田は、上空の爆煙から、地上の幻魔の海に視線を戻した。二度の鳴雷の直撃を受けて、無事でいられる人間はいない。皆代統魔のように多重防壁で守られていたわけでも、味泥朝彦のように星象現界を使っていたわけでもないのだ。
ただの人間風情が、鳴雷の連撃に耐えられるわけがなかった。
だから、だ。
「ち、違うっ!」
「なに……?」
爆煙の中から聞こえてきた声に、三田は、驚きを覚えた。黒煙を吹き飛ばしながら飛来してきた少女が、あるはずのない右腕で殴りかかってきたものだから、思わず右足で蹴り飛ばし、さらに鳴雷を叩き込む。
軽々と吹っ飛んでいった少女の体が工場の壁に激突すると、そこへ雷光が収束、直撃と共に爆発を起こす。
「なんだ……?」
三田は、視線を巡らせる。さきほど少女の体から吹き飛んだはずの右腕は、やはり、工場内に落ちていて、いままさにトロールの足に踏み潰されたところだった。トロールの群れがつぎつぎと踏んでいくものだから、瞬く間に原型を失ってしまう。
「痛……く、ない……!」
「どういうことだ?」
三田は、鳴雷の直撃を喰らってもなお肉体が原型を留めているだけでなく、意識を保っている少女を疑問に思った。
とても、人間とは思えなかった。
本荘ルナは、皆代小隊に加入したばかりの新参者の導士だったはずだ。無論、この時期に加入するということは、それなりに優れた魔法技量の持ち主だろうことは疑いようもない。だが、それだけだ。それ以上特筆するべきなにかがあるとは考えられなかった。
しかし、三田は、本荘ルナが爆煙の中から傷ひとつない姿を見せるなり、脳裏に一つの光景が過るのを認めた。
「こん、なの……味泥さんが受けた仕打ちに比べたら、どうってことない!」
「――なるほど、そういうことか。そうだったのか。まったく、馬鹿げた話だ、そうだろう、中隊諸君!」
三田は、脳内を流れる莫大な情報に目眩さえ覚えながらも、悪辣極まりない戦団のやり方に反吐が出る思いだった。
三田は、本荘ルナが何者なのか、今まさに理解したのだ。
「戦団が……人外の怪物を飼っていたとはなあ!」
「そうだよ! わたしは怪物! でも、悪魔なんかに魂を売った奴に負けるもんか!」
ルナが吼え、地を蹴った。瞬く間に三田との間合いを詰め、魔法を発動する。
「月華烈風!」
三日月のような剣閃が、虚空を切り裂く。
そう、切り裂いたのは、なにもない空間。ルナの視界から三田の姿が掻き消えていて、凄まじい衝撃が背中を貫いた。背骨が折れる音がした。いや、背骨だけではない。内臓が灼き尽くされ、細胞という細胞が燃えていくような感覚。
「ぎゃああああああああ!」
「怪物は処分しないと。そうだろう、戦団導士諸君。それがきみたちの職務じゃないのか!? だのに、どうして、このような化け物が導士のように振る舞っている!? 戦団はなにを考えているんだ!?」
三田は、荒れ狂う怒りの赴くままに、本荘ルナに鳴雷を叩き込み続けた。背中から蹴りつけ、そこから絶え間なく鳴雷を連射する。雷撃の度に轟音が鳴り響き、爆光が視界を染め上げていく。爆煙が周囲を多い、肉が焼け、焦げ付く臭いが鼻腔を満たした。
悲鳴が聞こえなくなるまで攻撃を続けたのは、あの再生能力を見れば、当然だろう。
本荘ルナは、怪物だ。
人外の化け物であり、その強靭な生命力は、幻魔に匹敵する。
だからこそ、徹底的に破壊しなければならない。
でなければ、人類に未来はない。
三田は、正義を執行しているだけだ。
それも、戦団の正義を、だ。