第四百六十五話 魔暦二百二十二年八月二十日(二)
八月二十日火曜日。
この日が特別な一日だと考えているのは、戦団に興味を持つ央都市民ならば誰しもかもしれない。
砂部愛理は、その日、家族の誰よりも早く目が覚めてしまった。携帯端末に設定した目覚ましよりも余程早い時間帯。
午前五時。
普段ならば二度寝しても構わないと布団の中に潜り込んでいるのだろうが、今日は、そんな気分にはならなかった。
昨夜、あまりにも寝付けなかったために、母親に誘眠魔法をかけてもらわなければならなかったほどだ。
不安とも興奮ともつかない精神状態は、今日というこの日が、自分の人生を大きく変える一日だということを理解しているからだったし、この日のために頑張ってきたという意識があったからだ。
厳密には、今日のこの日は、日夜重ねてきた研鑽と鍛錬、そして努力の結果が現れる日であり、その全ては、一月も前に出し切ったという意識が彼女の中にはあった。
持てる限りの全てを出し切ったのだ。
悔いは、ない。
それどころか、終えたときには、想像だにしないくらいの開放感があったほどだ。
それもこれも両親や周囲の支えがあったからだし、彼女にとって最大最高の魔法使いとの出逢いがあったからこそだ。
愛理は、大きく伸びをすると、寝台の枕元に置いた小箱のような魔具に触れた。すると、魔具が彼女の魔力に反応して、立体映像を出力する。
特製の鎧を身につけ、両刃の剣を構えるその姿は、旧世紀の騎士を想起させるが、彼は現代の騎士であり、最硬の魔法使いなのだ。
もちろん、愛理の魔法使いといえば、皆代幸多である。
皆代幸多に関連する商品は、彼の人気の急上昇を示すように、最近になって様々な形で展開されるようになった。それらを手に入れるために彼女がどれだけ努力をしたものか、思い出そうとしてもきりがない。
両親に無理を言って買ってもらうなど、彼女にはありえない選択肢だからだ。
なにかしらの交換条件を出して、両親側が必ず納得する形でなければ、彼女自身が納得しなかった。
そうして集めた皆代幸多グッズは、立体映像魔具・幻身器だけではない。様々な商品が、彼女の寝台の周囲に並べられている。幸多が可愛らしいキャラクターと化したぬいぐるみもあれば、立体映像ではない実体のフィギュアもある。
そのようにして、彼女の部屋には、戦団広報部が販売している公式グッズがずらりと並んでいるのだが、その大半を占めているのは、実は、伊佐那美由理の関連商品だ。
彼女は、元々、伊佐那美由理の大ファンだった。
戦団最高峰の魔法士の一人であり、氷の女帝と呼ばれる伊佐那美由理の存在を初めて知ったときから気になり、すぐに魅了された。その圧倒的な魔法技量と、常に冷静さを失わない、まさに氷の女神のような立ち居振る舞いが愛理にとって憧れの存在となったのだ。
それからというもの、伊佐那美由理のような魔法士になることを夢見て邁進してきたのだ。
幸多の存在を知ったのは、今年度の対抗戦決勝大会からであり、魔法不能者でありながら大活躍した末、戦団戦闘部に入ったという話を知ったときには、驚いたものだった。
そんな彼と知り合っただけでなく、彼によって救われ、魔法士として立ち直ることが出来たのは、奇跡というほかないのではないか。
奇跡の出逢いであり、奇跡の復活劇であり、奇跡の逆転劇だ――愛理は、幸多との出逢いをそのように考えている。
しかも、幸多は、あの伊佐那美由理の唯一の弟子なのだ。
愛理が運命的なものを感じないわけがなかった。
あの憧れの星将がただ一人弟子として引き受けたのが皆代幸多なのだ。その幸多と知り合っただけでなく、間接的に美由理の教えを受け、万能症候群から立ち直ることができたのだから、これはもう、運命といわざるを得ない。
そして、その興奮と感動が、彼女を奮い立たせ、星央魔導院の早期入学試験へと立ち向かわせる原動力になったことは、いうまでもない。
愛理は、いまでも幸多によって救われた感動を覚えているし、生涯忘れることはないだろうと確信していた。
幸多は、愛理にとっての最高の魔法使いなのだ。
だからこそ、幸多のためにも星央魔導院に入学を果たしたいと思っている。
星央魔導院を卒業し、戦団に入ることが当面の目標となったのは、幸多と出逢ったからだ。
幸多に受けた恩を返すには、幸多の力になることが一番なのではないか。
愛理は、その小さな頭の中でそのことをよく考える。
幸多は、今や央都で知らないものがいないくらいの有名人になっている。導士として様々な任務を重ねててきただけでなく、大事件の渦中によくいるからだ。虚空事変、天輪スキャンダル、機械事変、そして、昨日のスコル事件。
様々な事件に巻き込まれながらも活躍しているのが幸多なのだが、だからこそ、そんな幸多の力になりたいと愛理は思うのだ。
そのためにも、まずは、試験に合格しなければならない。
愛理は、合格は絶対だ、などと、幸多に宣言してしまった。
偶然幸多と逢った興奮がそういわせてしまったのだが、しかし、前言撤回などできるわけもない。
合格の確信。
そんなものは、あるはずもない。
愛理には、出来ることをしただけだ。
座学、実技、面接。
早期入学試験における三大要素全てを万全の状態で挑み、戦い抜いた。
それだけのことだが、しかし、そこに手抜かりはなかったはずだ。
座学は元より、面接にも自信があった。
問題は、魔法の実技だけだった。だが、その問題も、幸多の献身的な助力によって解決し、魔法の制御に失敗してもなんら問題なく対応できるようになっていた。
むしろ、以前にも増して魔法技量が上がったのではないかと思うほどだったし、実際、星央魔導院の試験官の誰もが愛理の魔法技量に瞠目していた。
後は、合格を祈ることしかできないが、祈ったところで仕方がないという気持ちもないではなかった。
やるべきこと、やれるべきことをやって、結果を待つだけなのだ。
愛理は寝台を抜け出すと、大きく伸びをした。
朝が来る。
幸多は、今日も訓練中なのだろう。
幸多は、夏合宿とも呼ばれる導士強化訓練の真っ只中だ。そんな中でも任務に駆り出され、魔法犯罪者や幻魔と格闘しているのだから、幸多はさすがとしか言い様がない。
愛理は、そんな幸多に一歩でも近づきたいと思っているのだ。
愛理が両親とともに家を出たのは、午前九時を少し回った時刻だった。
星央魔導院の早期入学試験の結果は、魔導院の敷地内に張り出されることとなっていて、そのために央都各地から星央魔導院に向かう人々は数え切れないほどだった。
星央魔導院への入学は、戦団への入団と同義だ。
星央魔導院に入学して、戦団に入らない学生というのは極めて稀だったし、仮に戦団に入らなかったとしても、戦団と関わりの深い職業に就くというのが通例である。
星央魔導院は、戦団が導士を育成するために設立した教育機関なのだ。
当然、入学するためには、戦団に入るのと同じくらいの覚悟と決意が必要だ。
だが、それは同時に誉れ高いことでもある。
戦団は、央都の守護者であり、人類生存圏の根幹である。
戦団なくしては人類の未来はなく、夢も希望もない。
戦団があればこそ、この央都の日常が維持されているのであり、法秩序が機能しているのだ。
そのことは、市民の誰もが理解していることだったし、戦団に所属することの尊さ、素晴らしさについては、子供のころから徹底的に教育されるものである。
愛理も、そんな教育を受けて育った市民の一人だ。
だから、戦団の導士には、無条件で尊敬するものだったし、そんな導士の一人に救われたという事実が、彼女の入団への意識をこの上なく高めるのだ。
砂部家一同を乗せた自動車が星央魔導院の駐車場に止まれたのは、奇跡的だったかもしれない。
この日、早期入学試験の結果を知るため星央魔導院を訪れたのは、央都四市の受験生とその家族だ。その人数たるや膨大であり、駐車場も瞬く間に一杯になってしまっていた。
試験結果の発表の場である。
飛行魔法で空を飛んでくるというのは、あまりにも不粋すぎるのではないか、と、考えたのは、どうやら砂部家だけではなさそうだった。
愛理は、両親とそのことを話し合い、小さく笑った。
駐車場を抜け、幻想的な正門を潜り抜けると、星央魔導院の荘厳な建物が視界に飛び込んでくるのだが、それよりも先に愛理の目に止まったのは、中央広場の光景である。
正門を潜り抜けたすぐ目の前の広場に、超巨大な幻板が浮かび上がっていたのだ
そこには、合格者の受験番号が無数に羅列されており、集まった受験生とその家族が一喜一憂している光景が展開していた。
愛理は、鼓動の高鳴りを抑えるように胸に触れた。受験番号は記憶に焼き付いているが、もう一度、念のために端末を確認する。
(16-104259……)
愛理は、何度もその番号を頭の中で読み上げて、前に進んだ。
受験番号を発見して大喜びする同世代の少年少女、号泣し、両親に慰められる子供たち。様々な感情が渦巻く合格発表の場にあって、愛理の緊張は増大する一方だった。
両親は、合格を確信しているのだろう。普段通りの柔らかな笑顔を愛理に向けていて、愛理は、そんな両親の愛情たっぷりの反応に少しばかり救われる気分だった。
だが、もし、失格していれば、どうなるか。
両親を失望させ、落胆させてしまうのではないか。
両親だけではない。親類縁者が総出で彼女のことを応援し、彼女の合格のために出来る限りの協力をしてくれていた。様々な教材を提供してくれたり、優秀な魔法士を紹介してくれたのも、愛理の才能を信じているからこそだ。
愛理が戦団の導士として央都に貢献してくれることを、誰もが望んでいる。
だからこそ、愛理は合格しなければならない。
超巨大幻板の前に足を踏み出し、仰ぎ見る。
合格者の受験番号は、大きく表示されているため、見にくいということはない。ただ、数が多いということもあって、探すのに手間取るのだ。
(16の……)
幻板に並ぶ受験番号は、全て16から始まっている。それがなにを意味するのかは不明だが、とにかく、そうなっている。
(104……)
愛理の目は、幻板の上をゆっくりと追い続け、やがて、止まった。
「259……!」
最後の三桁を声に出したとき、愛理は、すぐさま背後を振り返り、両親に飛びついていた。
「合格したよ! 合格したの!」
愛理は、涙が沸き上がってくるのを止められないまま、母親の胸の中で泣きに泣いた。
愛理の父も母も、彼女の合格を確信していたとはいえ、我が子がこれほどまでに感動していることにこそ、感動し、視界を滲ませた。
それは、魔暦二百二十二年八月二十日の一風景である。