第四百六十一話 火種(五)
長谷川天璃を潜心調査にかけて判明した事実というのは、それなりに大きなものではあったが、それが今回の事件の真相に辿り着くための鍵でしかないように思えた。
ネノクニでの社会生活に順応し始めていた天璃を唆したのが松下ユラであり、それ以降、松下ユラの言葉が、彼の行動指針になっていたことが明らかになったのだ。
いつだって、重要なことを決めるのは、松下ユラによって後押しされてからだった。
天璃が〈スコル〉を結成するに至ったのも、太陽奪還作戦を決行したのも、ユラの言葉に従った結果だ。
それだけを見れば、ユラの操り人形に等しいのだが、しかし、天璃が自発的に行動したようにも見えなくもない。
少なくとも、天璃の視点の記憶では、だ。
ユラは、天璃の恋人であり、掛け替えのない存在であり、参謀であり、腹心として、常に彼の側にあって、彼を支えていたということが今回の潜心調査によって、よりはっきりとした。
天璃の記憶のどこにもユラの影がちらついていた。
ユラこそが彼の全てであり、彼の根幹であるかのように、記憶の中心に聳え立ち、君臨している。彼の思考は、ユラによって制御され、支配され、操作されてさえいるようだった。
そしてその事実によって想像できるのは、運命的な再会を果たしたときには、既に松下ユラは、サキュバスのユーラの擬態だったのではないか、ということだ。
無論、松下ユラに関する過去の記録も徹底的に調査し、洗い出している。
彼女が孤児院から里親に引き取られ、天璃たちと離れ離れになってからは、順風満帆とは言い難いものの、ありふれた家庭のありふれた幸福に包まれながら、すくすくと成長し、様々な分野にその才能を発揮していったという記録が残されていた。
学生時代には、ネノクニの様々な企業が彼女の才能に魅了され、引く手数多だったという。そして、彼女自身、いずれかの企業に就職するつもりだったようであり、そのことを家族や周囲の友人たちに話していた。
そんな彼女が突如として長谷川天璃に接近したのは、どういう心変わりなのか。
やはり、〈スコル〉を結成するに至った原因は、松下ユラがサキュバスに成り代わられたことにあるのではないか、という推論に至ってしまう。
松下ユラは、サキュバスに殺され、その記憶と肉体を奪われ、人生までも奪い尽くされたのではないか。
「なんとも胸糞の悪い話ですな」
八田は、美那兎や汐見とともに導き出した推論に険しい表情になった。
松下ユラの人生を考えれば、これほど気分の悪い話はない。彼女は、おそらくサキュバスに殺されなければ、〈スコル〉と一切関わりのない人生を送ったはずだ。そしてそれは、天璃や近藤悠生ら〈スコル〉の構成員たちにもいえることなのだ。
サキュバスがなぜ、ユラを殺し、成り代わったのか。その謎についての答えは、当然ながら、天璃の記憶の中にはなかった。
「サキュバスのユーラは、アスモデウスの下僕と名乗りました。アスモデウスは〈七悪〉の一体ですが、同時に人間に擬態し、人間社会に暗躍していた幻魔でもあります。アスモデウスの命令に従い、双界に混乱をもたらすために活動していたのは間違いないのでしょうが」
美那兎は、八田たちにわかるように説明していく。
サキュバスのユーラの最終目的は、どうやら戦団総長を殺害することによって、戦団を瓦解させることだったようだが、それは失敗に終わっている。
神木神威に肉迫することにこそ成功したものの、彼に触れることすらできないまま逃走し、戦団が誇る優秀な魔法士たちの前に討ち滅ぼされたのだ。
もっとも、仮にユーラが神威を殺害することができたのだとしても、それで瓦解するほど戦団は脆弱な組織ではないのだが。
だからこそ、神威は、ユーラの目論見を知って冷笑した。
戦団は人間の組織であり、幻魔の組織ではないのだ、と。
幻魔の組織ならば、〈殻〉ならば、王たる殻主が死ねば、それで全てが瓦解し、崩壊の一途を辿る。
それが幻魔の勢力というものであり、生態、習性だからだ。
殻主が倒れれば、すぐさま別の幻魔を新たな殻主として担ぎ出す、などということはしないし、出来ないのだ。
〈殻〉は、殻主たる鬼級幻魔の心臓・魔晶核を用いて作られた領土だ。殻主が倒れるということは、その魔晶核が失われるということだ。そして、魔晶核によって構築された巨大な結界そのものが崩壊するということであり、勢力を維持することなど、端から無理な話だった。
残党が別の〈殻〉に合流するという話は、よくあることのようだが。
戦団は、たとえ総長が命を落とすようなことがあったとしても、すぐさま副総長なり、他の星将なりがその後を引き継ぐように出来ている。〈殻〉のように崩壊することはないだろうし、整然と機能し続けるだろう。
無論、神威ほどの英雄はいない。
神威を失ったときの衝撃は、想像すらできないものだったし、美那兎には考えたくもないことだった。
美那兎にとって神威は、強面の総長というだけでなく、父親のような存在だったからだ。
「確かに混乱は起きましたが……」
「既に沈静化の一途を辿っている、と」
「はい。今回の事件は、確かに央都に混乱を招きましたし、市民に多大な不安を与えました」
戦団の対応の遅さに非難の声を上げる市民も少なくなかったし、そのような報道が世間を騒がせ、不安を煽ったのも事実だ。だが、結局、〈スコル〉と名乗る組織が戦団の掌の上で踊っていただけだという事実が判明すると、市民は、手のひらを返した。
戦団こそ、央都秩序の要であり、安寧と平穏の守護者である――などという声がそこかしこから聞こえてくるほどだ。
双界を巡る膨大な情報に触れ続けることが仕事である情報局の人間にとっては、そんなことはどうでもいいことだったし、市民がその感情を反射的に発することができるのは、ある意味において健全な社会であることの証明だとも思ってもいる。
市民が自由闊達に議論し合い、時には戦団のやり方を非難することができるということはつまり、言論統制をしていないということなのだ。
戦団は、央都の支配者として君臨してこそいるが、市民になにかを強制するようなことはほとんどなかった。
そうした央都の在り様が、今回の件でも大いに現れている。
「一夜中に全てが解決したことで不安も一掃されました。市民は健やかな夜を過ごし、今日へと至ったというわけですが」
「問題は山積み、でありますな」
「ええ」
『それって、どんなこと……?』
不意に、少年の声が聞こえてきたのは、長谷川天璃の周囲に展開する幻板の向こう側からだった。
潜心捜査は、魔法によって対象の記憶を覗き込む捜査方法だ。記憶の中の映像だけでなく、音も拾う。だが、天璃の記憶に関する捜査は、終わったはずだった。
映像も、彼が皆代幸多と対峙したところで止まっている。
それなのに、声が聞こえてきたのだ。
「な――!?」
「なんだ!?」
「なにが起きているのです!?」
美那兎が導士たちを見遣ると、一人が彼女を見た。その目には動揺が走っていて、表情が恐怖に歪んでいく。
「わ、わかりません! と、突然、声が――ががが……あっ!?」
その導士は、恐怖に顔を歪ませながら、口や鼻から血を噴き出し、勢いよく倒れ伏した。そして、そのような異変を見せたのは、一人だけではなかった。潜心調査のために合性魔法を用いた精神師全員が一斉に血を噴き出して、その場に崩れ落ちていったのだ。
美那兎は、務めて冷静さを保ちながら、近くの導士に駆け寄ったものの、生命反応はなかった。同じく別の導士に駆け寄った八田と汐見も、それぞれに悲痛な顔をして、頭を振る。
いずれも、即死したようだった。
彼らの絶望的な表情は、死の間際、想像を絶するほどの苦痛に苛まれていたことがはっきりとわかる。
美那兎にとっては大切な部下であり、苦楽をともにしてきた仲間たちだ。胸が激しく痛んだ。だが、ここで泣き叫んでいる暇はない。
『ひとの記憶を覗き見るだなんて、悪趣味なんだって。だから、バチがあたったんだね、きっと……』
少年染みた悪魔の声が、室内に小さく反響した。