第四百六十話 火種(四)
「これは……」
八田が思わず口を開いたのは、記憶の中に埋没しかけていた光景に似ていたからだ。瞬時に掘り起こされた記憶が、その光景をこう呼ぶ。
「浄化作戦……ですな」
「でしょうね」
美那兎が、小さく頷く。
幻板に表示されているのは、巨大な火柱だ。ネノクニの遥か上天を塞ぐ天蓋へ到達しかけるほどに巨大な炎の柱。
それはさながら太陽への到達を希求する〈フェンリル〉たちの想いを具現するかのようであり、同時に、統治機構が行った浄化作戦の徹底ぶりを示すものだった。
浄化作戦は、統治機構が率先して行った反政府勢力一掃作戦のことだ。
統治機構が支配体制を確立し、階級精度を前提とする社会を構築してからというもの、ネノクニには、反体制的、反政府的な組織が乱立し、しのぎを削り合っていたという。
〈フェンリル〉もそうした反政府勢力の一つだったのだが、総帥・河西健吾が考えを変えたことによって、反戦団へとその活動方針を大きく改めることになる。
そして、それが転機となった。
〈フェンリル〉の工作活動がサイバ事件を引き起こしたのは有名な話だが、それによって戦々恐々《せんせんきょうきょう》とすることになったのが統治機構だ。
統治機構は、ただでさえ戦団の御機嫌取りに必死だった。
央都とネノクニ――人類生存圏を織り成す双界は、必ずしも対等な関係ではないのだ。
ネノクニの天井に蓋をし、地上に君臨する央都のほうが遥かに圧倒的な権勢を誇り、強大な力を持っている。
地上の支配者として双界に君臨しているといっても、過言ではない。
央都の、戦団の機嫌を損なえば、それだけで統治機構がどうなるものかわかったものではない。
ネノクニはともかくとして、だ。
それもこれも、人類復興を標榜する戦団がネノクニ市民を悪し様に扱う理由はないからだが、それは同時に、統治機構そのものは、ネノクニ市民とは認められていないということでもある。
故に、統治機構は、戦団や央都政庁にいわれるまでもなく、独自に行動を起こした。
それが浄化作戦だ。
ネノクニ全土から反政府、反体制組織を一掃し、浄化し尽くすという名目で行われた大作戦には、多数の魔法士が動員され、ネノクニ各地で激闘が繰り広げられたという。
子供のころの天璃が見ている光景も、その激闘の果てに生み出されたものであろうことは想像に難くない。
〈フェンリル〉の拠点を灼き尽くす火柱が、滲んで、揺れた。
天璃は、泣きながら、遠ざかる拠点を見つめ続けていたようだった。
「浄化作戦は苛烈を極めたそうですね。戦団も央都政庁も、ただ〈フェンリル〉の取り締まりをしてくれればそれでよかったのに、機構は、それでは示しが付かないと奮起したんでしょう」
「その結果がこの有り様ですか」
「それで、彼は復讐を誓った、と?」
「どうでしょう。それも一つではあったかと思いますが……」
美那兎は、天璃にとっての原風景に近いのであろう光景から導きだされた結論に小首を傾げた。それだけでここまでのことをするものだろうか。
浄化作戦は、十七年前に決行されている。サイバ事件が起き、解決した直後、統治機構が戦団の顔色を窺うまでもなく即断即決で行動を起こしたのだ。
確かに、その地獄のような光景を目の当たりにすれば、統治機構や戦団に恨みを抱き、憎悪の炎を燃やすというのは、ありえないことではない。
だが、復讐心だけで、あれほどの計画を練られるものなのだろうか。
いや、復讐心があればこそ、出来たと考えるべきなのか。
美那兎は、導士たちに指示し、さらなる記憶の閲覧を行った。
天璃の記憶には、幼い頃の近藤悠生、松下ユラら〈スコル〉構成員たちの姿があった。
彼らは皆、河西健吾の薫陶を受けて育ったようだ。
河西健吾の思想教育は徹底しており、ネノクニの蓋をしているのは戦団の暴挙であり、地上の支配者として我が物顔で君臨する戦団こそが悪の中の悪であり、滅ぼすべき大敵である、とさえいってのけている。
「うへえ……」
「なるほど……」
八田と汐見は、河西健吾の熱弁にうんざりとした顔をした。
それはまさに、事情聴取における天璃の供述そのものだったからだ。
長谷川天璃は、河西健吾の分身といっても過言ではないのではないかとさえ思えてくるくらい、言動がそっくりだった。
「純粋培養って奴だな、こりゃ」
「そのようですね……」
美那兎も、八田の意見に同感だった。つまり、天璃は、物心ついたときには河西健吾の思想教育を受けており、考え方の根本に河西健吾がいるのだ。彼の言動は、河西健吾の言動そのものに等しく、だからこそ、今回のような大事件を起こすことに躊躇いすらなかった。
ただ、河西健吾は、極めて慎重であり、太陽奪還計画を完遂するためには膨大な時間が必要だということを考えられる人間だった。そのための工作活動であり、それによって戦団を弱体化させていくことが当面の目標だったのだ。それが全て失敗に終わり、浄化作戦によって破綻したのは、運が悪かっただけとはいい難いが。
いずれにせよ、長谷川天璃は、性急過ぎたのだ。
たった二十名あまりの構成員と数十個の爆弾だけで央都転覆を成し遂げ、戦団を支配者から引きずり下ろせるなどと考えていた事自体、馬鹿げている。
その程度で揺らぐほど、戦団の基盤は脆くない。
無論、数多くの市民が犠牲となれば、戦団の対応の遅れを批判され、非難されるだろうが、だからといって戦団を根本とする央都の社会の在り様が激変するはずもない。
戦団がなければ立ち行かないのが現状なのだ。
つまり、〈スコル〉のやり方そのものが間違っていたということだが。
その間違ったやり方を強行したのは、天璃が河西健吾の思想だけを受け継ぎ、その慎重さを継承しなかったからだけだとは、美那兎にはどうにも考えられなかった。
天璃の記憶を巡る。
彼は、孤児院に引き取られた際、近藤悠生や松下ユラとばらばらになっている。当然だろう。そして、引き取られた先で、河西健吾の思想が間違いであると、再教育を施されていた。精神面からの再教育。それによって彼は、普通の少年時代を送ることになったようだ。
さらに魔法士としての才能を開花させ、魔導協会からの推薦を受けて、魔法学校への入学を果たしている。そのころの彼の言動には、河西健吾の影響は見えない。
「彼は、普通の学生だった。いえ、普通どころか、優秀な、将来を嘱望されるような立場の学生で……誰もが憧れる立場にあった」
それは、既に判明していた事実だ。
長谷川天璃という人物については、徹底的に調査している。
ノルン・システムを用いれば、暴けない情報はないのだ。
彼は、公立魔法学校において、類い希な成績を叩き出しており、それによって魔導協会の職員にならないかと打診されてさえいた。それほどの魔法士である。
しかし、彼の輝かしい道は、そこで途絶えることとなる。
松下ユラが、彼に接触してきたからだ。
松下ユラは、どうやら天璃のことを覚えており、天璃が有名になったことで接触を試みたようだ。そして、天璃に語りかけた。
「太陽を奪還しましょう」
その囁きが、天璃の心の奥底に封じ込められていた〈フェンリル〉を解き放ったようだ。
その瞬間、天璃は、ユラを抱きしめ、涙した。
そして、すぐさま近藤悠生を始めとする同胞たちを探しだし、〈スコル〉を結成する。
「……松下ユラか」
「彼女は、本物なんでしょうか?」
「どうでしょうね。この時点でサキュバスに成り代わられている可能性も低くはないかと」
幻魔が人間に擬態し、人間社会に暗躍していたという事例は、虚空事変、天輪スキャンダルによって明らかになった。
今回の事件もまた、幻魔の暗躍の結果だというのであれば、もはや人類にはお手上げなのではないか、と、八田は思ってしまう。
人間に擬態した幻魔を判別する方法は、いまのことろ、存在しない。
固有波形を観測し、比較することさえできれば、それだけで看破できるのだが、しかし、そんなことがいつでも瞬時にできるわけもない。
既に社会に溶け込んでしまった幻魔を割り出すことは、不可能に違いのではないか。
そんな絶望感が、八田の脳裏を過り、思考を重くした。