第四百五十二話 昔語り(二)
「統治機構が地上の様子を知ろうと考え始めたのは、ネノクニの運営が軌道に乗り始めてからのことだ。そう、魔暦百三十年代だったかな。幸いにも大昇降機は稼働していた。定期的に補修していたのもあるだろうが、それにしたって丈夫なものだと感心したものだよ」
神威が心の底から感じ入ったようにいうものだから、幸多も素直に受け取った。
とはいえ、人々がネノクニに閉じ籠もっている期間がどれほどの長期になるものなのかは、ネノクニの開発者たちもある程度は考えていたはずだ。
それこそ、百年単位で地下に籠もることすら想定していただろうし、そのためにこそ大昇降機には自動的に点検し、補修するための機能が内蔵されていたのだ。
だからこそ、ネノクニ建造以来現在に至るまで稼働し続けている。
もっとも、央都開発以降、戦団の技術力は加速度的に発達、ネノクニのそれとは比肩できないほどのものとなっていて、昨今、戦団技術局の協力の元に行われた大昇降機の大々的な改修作業が行われたこともあり、以前に比較するまでもなく安定しているはずだ。
「統治機構は、二度、地上に調査隊を送り込んでいる。魔天創世によって寸断されたレイライン・ネットワークや、旧時代の遺物に過ぎないエーテリアル・ネットワークでは、地上の現状を探ることはできなかったからね。まあ、それらの情報通信設備が生きていたとしても、地上の状況を知ることは甚だ困難だっただろうが。なにせ、地上は魔界だったのだから」
魔界、と、神威はいった。
魔天創世により、幻魔の幻魔による幻魔のための世界へと作り替えられた地上は、まさに幻魔の楽園であり、幻魔の世界であり、魔界と呼ぶに相応しい領域に変わり果てていた。
そこに生きるのは、幻魔だけであり、幻魔以外のあらゆる生物が死滅していたのだから、そう呼ぶほかあるまい。
「一度目の調査は、当然、失敗に終わっている。大昇降機が地上へと向かう最中、調査隊は全滅。生存者は一人としていなかった」
「それは……」
「端的にいえば、全員が旧世代人だったからだよ。我々のような生体強化処置を受けていない旧世代の人類には、地上は、地獄そのものだ。高濃度、高密度の魔素が、人体を瞬時に破壊してしまうのだから」
幸多は、神威の説明とともに切り替わる幻板の映像を見つめながら、己の左手を見下ろした。サタンに切り取られ、あっという間に砂のように崩壊してしまった左手と右眼。その瞬間を思い出すと、神威のいう調査隊の末路が簡単に想像できてしまって、吐き気さえ覚えた。
地上とネノクニの魔素濃度には大きな差がある。
ネノクニは極めて薄く、地上は極めて濃いのだ。
大昇降機に乗って移動していても、同じことだ。ネノクニを出発した大昇降機は、ゆっくりと、高濃度の魔素の中へと突っ込んでいくことになる。
最初こそなんの問題もなければ、多少の違和感を覚える程度だっただろう調査隊員たちは、ある段階で異変を察知したかもしれないし、感知する暇もなかったかもしれない。
膨大な魔素の強大な圧力が、彼らの全身を粉々に打ち砕き、消し去った。
痛みは、感じただろうか。
せめて、痛みすら感じずに死ねたのならば、まだましだろうが、大昇降機の上昇に伴う魔素の増大は、痛みを次第に増幅させる形で隊員たちを襲ったのではないか、と、幸多に想像させた。そして、次第に強くなる圧力に対抗することもできないまま、崩壊していったのではないか。
恐怖と絶望に意識を塗りつぶされながら。
「ネノクニは、第一次調査の失敗に懲りなかった。当たり前の話だな。一度失敗したからと言って地上の調査を諦めるのは、愚の骨頂だ。原因を究明し、対策を立て、二度目の調査を行った」
そういって神威が表示した幻板には、宇宙服のような全身服を着込んだ人々が映り込んでいた。
「第二次調査隊の面々だよ。公式には、第一次地上調査隊と銘打たれていたがね」
「ええ?」
「統治機構は、第一次調査の失敗を公表しなかったし、第二次調査の失敗も隠し続けたのさ。おれたちが駆り出された地上奪還作戦が、第一次地上奪還作戦と名付けられたのも、それが理由だ。実際には、それまでに多大な犠牲を払いながらも、それを隠し続けるのが統治機構の悪辣なやり方だったというわけだ」
「そんな……」
「機構にしてみれば、おれたちなんざ、実験動物に過ぎなかったということだ。成功すれば御の字、失敗してもまたやり直せば良い。実験動物ならば、いくらでも増やせるし、死んだところで心を痛めることもない。なんたって、実験動物だ。だから機構は、窮地に陥ったおれたちを見捨てた。おれたちが全滅しても構わないと判断し、大昇降機を封鎖したんだよ」
神威は、極めて冷静な表情だった。苦々しい記憶を述べているのにも関わらず、彼の表情、態度、言動全てが理性的だった。
むしろ、感情を殺しているからこその表情なのかもしれない。
「しかし、それがネノクニ側から見れば正しい判断だったということも、理解しているよ。おれたちが大昇降機に辿り着けたとして、そのとき、幻魔に包囲されていれば、大昇降機の位置、そしてその遥か地下深くに眠るネノクニの存在が発覚してしまう可能性があった。機構は、慎重に慎重を期し、おれたち実験動物の命とネノクニの存続を天秤にかけた結果、ネノクニを選んだというだけのことだ。そして、それは道理だ」
とはいったものの、神威の声音には、わずかばかりではあったが、確かに怒気が込められているような気がした。
幸多は、神威の複雑な心中を想った。実験動物として扱われ、地獄のような戦場に送り込まれた上、見捨てられた地上奪還部隊の戦士たち。
彼らの死闘は、物語として様々な形で語り継がれ、央都市民ならば知らないものはいなかった。
央都が誕生し、存続しているのは、彼らの戦いがあればこそであり、彼らが大量の血を流し、命を擲った結果が、ここにある。
その痛み、苦しみ、哀しみ、怒りは、想像を絶するものだ。
神威の厳めしい顔つきに刻まれた皺の数々は、そうした経験の数なのではないかと想わされる。
「機構に見離されたおれたちは、死に物狂いで戦い、数多くの犠牲を払って、勝利した。直後のおれたちが機構を敵視していたのは、当然の結果だろう?」
「それは……はい」
幸多は、神威に同意を求められると、頷くよりほかなかった。幸多が同じ立場ならば、同じような感情を抱き、同じような反応をしたに違いないと思えたからだ。
そんな幸多の反応を美由理は横目に見て、小さく頷く。美由理は、母・麒麟から同じようなことを何度となく聞かされたものだった。
麒麟は、神威と同じく、地上奪還作戦の当事者だ。幸運にも麒麟の第三因子・真眼が〈殻〉の攻略にその真価を発揮したという話も、それもあって鬼級幻魔リリスを打破することができたのだということも聞いている。
そして、多くの同胞を失い、統治機構に大いに失望したという話もだ。
神威たち地上奪還部隊がその身で味わった絶望感たるや、凄まじいものだったに違いない。信じていたはずの味方に見捨てられ、逃げ場を失い、死地に飛び込む以外の道が断たれたのだ。
絶望的な戦いに身を投じ、次々と同胞を失っていく中で、麒麟や神威がなにを想い、なにを感じ、なにを望んだのか。
当事者ならざる美由理には、神威たちの残した記録や言葉から想像することしかできない。
「おれたちは、地上の、央都の統治者としての権利を主張した。機構は、おれたちを地上に送り出した。当時最新鋭の装備と補給物資、戦力を用意したのも機構だ。機構が万全――とはいいがたいが、いまはいい――の準備をしたからこそ、地上奪還作戦は成功したともいえなくはない。が、機構は、結局、おれたちを見捨て、おれたちとの通信をも拒絶した。おれたちは独力でリリスと戦い、バビロンを制したのだ」
神威がそういったとき、彼の目の前の幻板には、リリスとの死闘に勝利した直後のバビロンの光景が映し出されていた。
学校の授業などで何度も見たリリスの〈殻〉バビロンの風景。
異形の建物が乱立し、中心に宮殿が聳え立つ、幻魔の王国。
主なきバビロンには未だ大量の幻魔が蠢いているようだったが、主を失ったことによって撤退を始めているようにも見えた。
幻魔は、人間を前にして逃げることがない。
が、例外があった。
殻印持ちの幻魔は、殻印の主たる鬼級幻魔の命令を最優先に行動する。
では、殻印の主が死んだ場合はどうなるのか。
命令系統に大混乱が生じ、各地に散らばっていくのだという。