第四百五十話 海辺の幸多(四)
幸多は、岩場に腰を下ろし、海を眺めていた。
葦原市南東部に広がる海は、空を映す鏡のように蒼く、そして、穏やかだ。
岩場に打ち寄せる波の音は不規則な旋律を奏で、水面は、夏の日差しを跳ね返して輝いている。
潮の香りは、わずかだが、確かに存在する。
かつて、魔天創世と呼ばれる地球環境そのものの盛大な改造が実行されたことによって、地球上のありとあらゆる生物が死に絶えた。
人類の大半もそれによって死滅し、生き残ったのはネノクニに隠れ住んでいたわずかばかりだ。
当然、海中の生物も死に絶えていたし、微生物だって生き残らなかった。
潮の香りの基は、海中のプランクトンの死骸から発生する成分だと言われている。つまり、魔天創世後、全てが死に絶えてしまった海からは、潮の香りもなくなっていったのではないか、と考えられている。
死骸すらも残らず消滅してしまったのだから。
央都近辺、人類生存圏内の海からその独特な潮の香りが漂ってくるのは、海に生命が復活したからだ。
戦団の前身である人類復興隊や、戦団が、央都近郊の生態系を回復させるためにどれだけの尽力をしたのかは、想像しようもない。
それもこれも過去の賢人が立案し、計画し、実行に移したという生命保全計画の賜物であり、ネノクニが存続していたからこその結果なのだということは、いうまでもないことだが。
魔天創世によって、地上は死に絶えた。
しかし、地下に潜った人々は生きていたし、膨大な数の生命の種子は大切に保管されていたのだ。そして、それらの生命が地上の環境に適応できるように改良され、調整され、実際に生態系を構築しているのだから、人間の執念とは凄まじいとしか言い様がない。
(執念……)
幸多がそんなことを考えるのは、つい最近、執念に囚われた人物と対峙したばかりだからだ。
執念に囚われる余り我を忘れ、視界を失い、全てを失ってしまった人物。
長谷川天璃。
彼について、考えている。
「閃光級二位の導士様が、こんなところでなにをしていらっしゃるのですかな」
「しかも、たったひとりでさ」
「黄昏れてる?」
「格好をつけているのでしょうか?」
「みんなして酷いな」
幸多は、苦笑しながら友人たちの声を振り返った。天燎高校の同級生であり、幸多が親友と呼んで差し支えのない四人組は、普段とは違う、夏の浜辺に相応しい水着姿でそこにいた。
圭悟は持ち前の赤毛と合わせてなのか、赤が目立つ水着を身につけていた。体つきはがっしりしていて、日頃から運動や訓練を欠かしていないことが窺える。彼はまだ、対抗戦部に在籍していて、秋以降も部を引っ張っていくつもりであるらしい。
蘭は、地味な色合いの水着だ。普段通り、あまり目立ちたくないという彼の意向がそこにも現れている。圭悟に比べればひ弱に見える体型だが、そんなことが問題になるわけもない。
真弥は、白を基調とする水着で、派手さこそないものの、陽光を跳ね返すその姿は、可憐といってよかった。
紗江子は、ワンピース型の水着で、しなやかな肢体がはっきりと浮かび上がっていた。その上に麦藁帽子を被っているのだが、よく似合っている。
幸多も、水着だったりする。
水着で、一人岩場に腰掛けていたのだから、黄昏れているといわれてもおかしくはないかもしれない。
幸多は、親友たちを一通り見ると、岩場から飛び降りて彼らの前に着地した。わずかに砂が舞い上がったが、彼らに降りかかるようなことはなかった。
四人と合うのは、二週間ぶりくらいか。
こうして直接会うのは、機械事変以来なのだ。
連絡ならばいくらでもしたし、暇さえあれば通話や伝言のやり取りをしている間柄だ。懐かしさなどはなかったし、特段、思いが溢れるようなこともないのだが、それでも皆の無事な様子を見れば、安心する。
四人は、昨日の爆破事件の目撃者だった。
爆破事件に巻き込まれた市民は一人としていないとはいっても、気にならないわけがなかったのだ。
「皆元気そうでなによりだよ」
「そりゃあこっちの台詞だ。それに、良いのかよ。あんな抜け道、一般市民に教えてよ」
「もちろん、ちゃんと許可は取ったよ。獅子王軍団長は優しい人だからなんの問題もなかったし」
「なら、いいけどよ」
幸多の返答には、一切の澱みもなければ嘘をいっているような気配もなく、圭悟は、素直に受け止めることとした。幸多が無茶を言い出したのではないかと不安になっていたのだが、どうやらその心配はなさそうだ。
この岩場は、戦団が訓練場として借り切っている領域の内側にある。本来ならば一般市民が立ち入ることのできない場所であり、ほかの市民にこうして触れ合っている瞬間が見られると、騒ぎになりかねない。
圭悟たちだけが特別扱いを受けている、などということになれば、さすがの幸多も非難を浴びるのではないか。
圭悟は、自分自身がどのようにいわれようとも構わなかったが、幸多がそのような目に遭うことだけは避けたかった。
だから、最初は乗り気ではなかったのだ。
しかし、幸多がどうしてもというからここまで来てしまった。
あの浜辺から道路側へと進み、大回りに回り込んで岩陰に隠れながら、ここまでやってきたというわけだ。しかも、途中で水着に着替えたのは、そのほうが幸多も喜ぶだろうと考えてのことだ。
実際、幸多は、圭悟たちが水着姿だったことに喜んだ。
少しばかり、遊ぶことができる。
それだけで、この心のわだかまりが落ち着くのではないか、などと、幸多は考えていた。
「皆代くんに呼ばれて嬉しかったくせに、そんな言い方しないの!」
「だれが嬉しかったんだ、だが」
「じゃあ、嬉しくなかったんだ?」
「だれもそんなこといってねえ」
「心の底から涙が出るくらい嬉しかったって認めましょう、米田くん」
「いくらなんでもそりゃあ言い過ぎだろーが!」
「そうかな?」
圭悟を中心に言い合う四人に混ざりながら、幸多は、大いに笑った。
日常が、ここにある。
圭悟、蘭、真弥、紗江子がいるということ。
それだけで、幸多は安心感を覚えられたし、ここのところの訓練と任務の疲れが吹き飛ぶような感覚もあった。
四人と会って話をしている。
ただそれだけのことが、これほどまでに幸福感を覚えられるものなのか、と、不思議な気分だった。
それも当然だろう、とも、思う。
四人がいてくれたからこそ、幸多は、対抗戦を突破できたのだという実感があったし、それは紛れもない事実だ。
もちろん、四人以外にもたくさんの協力者がいて、黒木法子、我孫子雷智、北浜怜治、魚住亨梧の四人などはなくてはならない仲間だったが、中でも同級生のこの四人は、幸多の中核を成した。
幸多が戦団に入るための動力源だったのだ。
だから、四人が爆破事件を目撃したという話を聞いたときには度肝を抜かれたのだし、誰一人巻き込まれなかったことに安堵したものだ。
そして、爆破事件を起こした犯人への怒りが湧いた。
しかし、その怒りも、いまや何処かへ行ってしまった。
長谷川天璃は、ただ、利用されていただけに過ぎなかったからだ。
幸多が一瞬、そんなことに意識を向けていると、圭悟が近場の岩に飛び乗った。腰を落ち着けて、足をぶら下げる。
「どうよ、閃光級二位の風景は?」
「あまり変わらない、かな」
「いうじゃねえか。位が一つ上がっただけじゃあ満足できないってか?」
「そこが目的じゃないからね」
「そうよね。皆代くんの目標って、そういうことじゃないものね」
「まるで理解者みたいなことをいう」
「少なくとも、圭悟よりは理解してると思うけどな」
「なんだと」
「米田くんの理解が足りてないだけだよ」
「まあ、可哀想に」
「ひっでえな、おい!」
圭悟が友人たちを怒鳴り散らす傍らで、幸多は、満面の笑顔になるのだ。
幸多は、昨日の事件の活躍によって、閃光級二位に昇格した。
それも、昨夜の内に決まったことであり、そのときのことが幸多の脳裏を過るのだった。