第四百四十八話 海辺の幸多(二)
「元気じゃねーかよ……」
「まあ、そうだね……」
真白と黒乃は、空中に投げ捨てられた運動服が風に揺られながら落ちてくる様を呆れながら見ていた。
金田姉妹が運動服の下に水着を着込んでいたというのも信じられない気持ちだったが、なにより、獅子王万里彩との実戦的訓練で精も根も尽き果てていたはずだろうと言いたかった。
九十九兄弟などは、真夏の太陽光線を受けて、灼熱地獄に等しい砂浜の上に倒れ伏してなお動けずにいるというのに、金田姉妹は、休憩を通達された瞬間、元気を取り戻してしまった。
「力を抜いていたんじゃねえだろうな」
「そんなことはないと思うけど」
とはいえ、黒乃にも自分の発言に自信が持てないくらい、金田姉妹の豹変ぶりは凄まじかったのだ、
義一も、隆司も、ようやく立ち上がろうとしているような有り様であり、この熱気の中で汗一つかいていないのは万里彩だけだった。
幸多ですら、大汗をかいている。しかし、彼は、七人の受講生の中でただ一人、ほとんど消耗していない。そして彼は、金田姉妹が投げ捨てた運動服を拾い上げていた。
「さすがは体力馬鹿の皆代幸多だな」
「それ、褒め言葉?」
幸多は、運動服に付着した砂を魔法で払い落とす隆司を見た。
今日、茜浜の一角を貸し切り状態にして行われているこの訓練は、開始から既に五時間が経過していた。五時間常に訓練していたわけではないし、定期的に休憩時間を挟んでいるのだが、二時間もの休憩時間が与えられたのは今回が初めてだった。
だからだろう。
金田姉妹は、ようやく海水浴を楽しむ時間が出来たと飛び出していったのだ。
現実世界での訓練、それも茜浜で行うことがわかっていたこともあり、休憩時間さえあれば海水浴だって出来るのではないか、と、金田姉妹は考えていたらしく、大急ぎで水着を調達していたことは幸多も知っていたのだが、まさか運動服の下に着込んでいるというのは想像だにしていなかった。
呆気に取られざるを得ないが、観衆の注目が分散したのはなんだか悪い気はしない。
金田姉妹は、美少女である。
鍛え抜かれた肢体を水着姿になって曝け出したことで、この訓練を見守っていた観衆の一部が彼女たちを追いかけていった。とはいっても、二人が飛び込んだ海辺も、戦団が貸し切っている区域であるため、一般市民が近寄ることは出来ないのだが。
「褒め言葉だよ。体力馬鹿」
「まるで体力以外能無しみたいだけど」
「そんな風に受け取るかよ、普通」
「冗談だよ」
「わかってるさ」
そういってきた隆司の笑顔は爽やかで、観衆の中から黄色い声が上がった。ので、隆司が手を振って歓声に応える。
夏合宿は、星将・伊佐那美由理の考案による育成改革案の一つであり、導士強化訓練として、市民にも知られている。
導士強化訓練の参加者は、各軍団から選び抜かれた将来有望な若手導士であることも知られていて、だからこそ、訓練中から人集りが出来ていたのだし、様々な声援が飛んでいた。
特に声援を浴びていたのは、義一だったし、訓練の中でもっとも活躍したのも彼だった。
幸多は、今回の訓練で大した見せ場はなかった。
それはそうだろう。
今回の訓練は、魔法を用いた訓練である。
獅子王万里彩は、義一たちに星象現界を体得させることを目標に掲げていて、その目標は、他の指導教官、伊佐那美由理、新野辺九乃一にも共有されている。となれば、星象現界を用いた訓練にならざるを得ず、幸多は、魔法士たちの訓練の邪魔にならないように動くほかなかった。
幸多には、関係のない領域の話だからだ。
幸多には、〈星〉は視えない。
〈星〉を視ることが出来るのは、魔法士だけだ。そして、全ての魔法士が視られるわけでもない。極一部の限られた魔法士だけが到達できる境地こそ、〈星〉を視るという領域なのだ。
魔法士ならば誰にだって可能性自体はある。
だが、魔法不能者どころか完全無能者である幸多には、一切の可能性がなかった。
だから、幸多は、彼らが〈星〉を視るために奮闘する様を応援することしかできない。
星象現界を発動した星将たちとの死闘が、わずかでも長引くように、彼らの助力をすることだけが、いまの幸多にできることだ。
それ以上のことは、なにひとつできない。
だが、それでいいのだ。
彼らが星象現界を体得すれば、それだけで戦団の戦力は大幅に向上するのだから。
そんなことを考えていると、幸多の頬にひんやりとしたものが触れた。おもむろに顔を向けると、冷えた缶飲料を手にした奏恵の姿があった。
「海水浴を満喫する気満々だね」
幸多は母から缶飲料を受け取りながら、奏恵の全身を見た。元よりすらりとした体躯だった奏恵だが、この半月余り、導士強化合宿に率先して参加していたこともあり、以前にも増して鍛えられた肢体になっていた。その上に露出度の極めて低い水着を身につけているのは、幸多にとっては安心感があった。
「せっかくの海ですもの。みんなと遊びたいし。ねえ、真白くん、黒乃くん」
「はい、はい!」
「もちろんです!」
さっきまでへばっていたはずの九十九兄弟は、奏恵から飲み物を手渡されるなり元気一杯になって跳ね起きたものだから、幸多は、半眼を向けた。
そして、九十九兄弟は、すぐさま海水浴のための着替えに走っていった。
茜浜の東の端の岩場には、戦団が設営した休憩所があり、そこでは着替えや休息ができるようになっている。
幸多は、浜辺で九十九兄弟を待つという母を置き去りにして、隆司や義一とともに休憩所に足を向けた。
「あの二人、すっかり奏恵さんに懐いてんな」
「最初は幸多くんに懐いてるものだとばかり思ってたんだけどね」
「母さんもあの二人が可愛いっていってたよ。ぼくや統魔以上にさ」
「そうなんだ?」
「まあ、反抗的な我が子より、従順な他人の子のほうが可愛いんじゃないか?」
「だれが反抗的なんだか」
「おまえら」
「むう……」
隆司に告げられて、幸多は渋い顔をした。確かに、そういう面があるのは否定できない気がしたからだ。
奏恵にしてみれば、幸多にも統魔にも戦闘部に入って欲しくて育て上げたわけではあるまい。幸多と統魔が強くそれを望み、願うから、仕方なく許しただけのことであって、本当ならば、ごくごく普通の一般市民として生きていて欲しいと思っているのではないか。
幻魔災害が頻発しているとはいえ、ここのところ大事件が連続しているとはいえ、戦闘部導士のほうが圧倒的に危険であることに違いはないのだ。
奏恵が内心どのようなことを思っているのかはわからないし、本心を知りようもないのだが、しかし、我が子がいつ命を落とすかもわからない職場に身を置いている現状を喜んでいるはずがなかった。
それは、九十九兄弟も同じではあるのだが。
三人が休憩所に辿り着くと、奥から水着に着替えた九十九兄弟が飛び出してきた。
「おまえらはいかねえのかよ!?」
「せっかくだよ!?」
「なにが」
「まあ、そうだな。奏恵さん美人だし、あの姉妹も見た目は悪くないからな」
「一言多いよ、隆司くん」
「よくいわれる」
「たぶん、そこなんじゃないかな」
「かもな」
隆司は、笑いながら休憩所の縁に腰を下ろすと、そのまま仰向けに寝転がった。疲れ切っている。会話が雑になるのも当然だったが、しかし、そこが問題児の問題児たる所以なのだろうと自覚もする。
幸多に指摘されるのも当然だろう。
「ぼくは遠慮しておくよ」
とは、義一。彼は休憩所の中に上がり込むと、ゆっくりと伸びをした。彼も先程までの訓練で消耗していて、海水浴に興じる気分にはならないのだろう。
「あーそうかよ、せっかくなのにな」
「ねー、せっかくなのに!」
九十九兄弟は、いつも以上の息の合いっぷりを見せて、今度は幸多に目を向けてきた。
「幸多はどうなんだよ。奏恵さんが待ってんぞ」
「幸多くんがこないのは、奏恵さん、悲しむと思うなあ」
「えーと……そうだね。少ししたら、行くよ」
「おう、待ってるからな!」
「絶対来てよね!」
「あ、うん」
幸多は、大急ぎで駆けだしていった九十九兄弟の後ろ姿を見送りながら、小さく頷いた。きっと二人には聞こえていないだろうし、聞くつもりもなかったのだろう。
それくらい、二人の意識は奏恵に集中していて、だから砂埃が舞い上がるほどの速度で疾走していったのだ。
幸多は、九十九兄弟の奏恵への懐きっぷりには、二人が孤児であることが関係しているのだろうということは察していたため、微笑ましく思っていた。二人は幼い頃に九月機関に拾われたという。両親の想い出はなく、九月機関の所長・高砂静馬が父親代わりだったのだ。
そんな二人にしてみれば、奏恵は、初めて母性を感じる相手なのかもしれない。
「いいのかよ、そんな適当な返事で」
「嫌なら嫌といえばいいのにね」
「嫌ってわけじゃないし。母さんが待ってるのも事実だろうしさ」
「親孝行なこって」
「母さんだけだからさ。ちゃんと親孝行しないとね」
「……悪ぃ」
「こちらこそ、ごめんよ。気を使わせちゃって」
「こういうところなんだろうな、おれ」
隆司は、休憩所の屋根裏を見据えながら、つぶやいた。
幸多は、既に有名人だ。彼の過去、家族構成、人間関係――様々な情報がネット上に溢れかえっている。
調べようとしなくても目にするくらいに、だ。
迂闊なことをいったな、と、隆司は考え込んでいたが、一方の幸多は気にする様子を見せなかった。
むしろ、奏恵が九十九兄弟と仲良くしている様を見て、満足げな表情すら浮かべていた。
彼が満足ならそれでいいか、と、隆司は目を閉じ、眠りについた。