第四百四十四話 夜が明けて
「ネノクニ側の管理問題よ、これは」
イリアが呆れてものもいえないといわんばかりの表情をして見せたのは、〈スコル〉による連続爆破事件から一夜明けた八月十九日のことだった。
昨日、八月十八日、葦原市全土を巻き込んだ連続爆破事件は、戦団が〈スコル〉の全拠点を制圧し、市内各所に設置された全ての爆発物を撤去、主犯格の長谷川天璃を含む〈スコル〉構成員約二十名を逮捕、拘束したことを発表したことによって、一先ずの終息となった。
長谷川天璃率いる〈スコル〉がどのような組織なのかについても、戦団が知っている限りの情報が公表され、大々的に報道されている。
かつて、央都転覆、戦団壊滅を企んでいたネノクニの反戦団組織〈フェンリル〉の後継組織であり、〈フェンリル〉の構成員の子供たちによって作られた組織であるということが白日の下に曝されたのだ。
そうした戦団の発表が最初に報道されたのは、真夜中のことではあったが、その時点でも大きな騒ぎとなったことはいうまでもない。誰もが眠れぬ夜を過ごしていたし、避難所に逃げ込んでいた市民も大勢いた。
戦団のなんらかの発表を今か今かと待っていた市民たるや、数万をくだらないだろう。
今朝になると、〈スコル〉に関する報道は勢いを増すばかりであり、央都中、ネット中、双界中が様々な意見を言い合い、混沌の渦が生まれている。
「どういうことだ?」
美由理は、起床したばかりということもあって、眠気覚ましのコーヒーを口に運びながら、なぜか第七軍団兵舎の彼女の部屋にいるイリアに質問した。
「情報局の調べによれば、松下ユラの固有波形に関する情報の更新が行われていなかったことがわかったのよ」
「なんだと?」
「厳密には、更新されていたんだけど」
「どっちなんだ」
「簡単に言うとね、彼らはネノクニ人だったでしょ。ということは、地上に上がってくるには双界間旅行か、央都移住計画に頼るしかないわけよ。でもまあ、央都移住計画の募集なんて頻繁にあるもんじゃないし、審査も厳重で時間もかかる。だったら旅行しかないわよね」
「そうだな」
「で、旅券の発行という段階になったら、絶対に必要なことってなんでしょう?」
イリアは、美由理が用意した茶菓子を空きっ腹に詰め込むように頬張りながら、いった。ついでに美由理が出してくれたコーヒーを口に含む。
ここは、第七軍団兵舎内の美由理の部屋であり、質素で簡素としかいいようのない一室だ。取り立ててなにがあるわけでもなければ、とても高給取りとは思えないような内装であり、調度品の数々だった。
それが美由理なのだろう、と、イリアは思っている。
飾り気がないのだ。
星将、軍団長という立場がなければ、普段着にすら気を使わないだろうし、人目も気にしないことは、わかりきっている。
昔からそうだった。
「固有波形の検査か」
「当たり。それが一番の本人確認方法だからね」
イリアは、満足気に微笑する。半覚醒状態の美由理であっても、その頭はしっかりと思考している。そのことがイリアには嬉しいのだ。
固有波形とは、魔素が持つ固有の波形のことである。
魔素は、静態魔素と動態魔素と呼ばれる二種類の性質があり、動態魔素にのみ、固有波形が確認されている。
静態魔素とは、無生物に宿る魔素のことだ。鉱物や大気中、真空中に確認される魔素がそれだ。この宇宙を構成する魔素の大半が、静態魔素だと考えられており、それらには固有の波形がない。
たとえば大気中の魔素には大気中の魔素の、鉱物の魔素には鉱物の魔素ごとに決まった波形はあるのだが、それらは固有波形とは呼ばれなかったりする。
固有波形は、動態魔素のみが発する固有の波形を示す言葉なのだ。
そして、動態魔素というのは、動植物を始めとする、あらゆる生物が内包し、生産する魔素のことである。それらの魔素は、生物種ごとではなく、個々に異なる波形を持っているため、固有波形と呼ばれるようになった。
そして、これが大事なのだが、固有波形は変化しない、とされている。
動態魔素は、その生物が生まれてから死ぬまで、まさに固有の波形を描き続けるという研究結果があり、その定説は今もなお強く支持され続けていた。
実際、固有波形が変化した例は、確認されていない。
だからこそ、固有波形ほど確実で絶対的な本人確認はないのだ。
固有波形さえ一致すれば、本人であることを疑う理由はない。
なぜならば、変化もしなければ、欺瞞することもできないからだ。
どれだけ巧みな魔法の使い手であっても、己の、あるいは他人の固有波形に変化を与えることは出来ない。そして、固有波形は、残留魔力からも観測可能であり、それ故、現代において完全なる魔法犯罪は不可能とされている。
現場に残留魔力がある限り、犯人の特定は容易だからだ。
なにせ、央都市民は、固有波形の検査義務があり、全市民の固有波形が記録、管理されているからだ。
魔法犯罪の検挙率が百パーセントなのも、そこに理由がある。
どれだけ手練れの犯罪者であろうと、魔法を使わずにはいられない以上、現場には魔力が残留し、固有波形が採取されてしまうのだから、どうしようもない。
央都に逃げ場はない。
ネノクニに逃げようにも、自由に出入りできる場所ではなかったし、央都外など問題外だ。いくら魔法犯罪に手を染めようとも、野良幻魔に殺されに行こうとはしないものだ。
そもそも、央都の外に出ることもまた、至難の業なのだが。
「〈スコル〉の連中は、真正直に観光旅行で地上に上がってきたわ。まあ、ほかに方法がないから当然よね。で、当たり前だけど、その際には統治機構の担当局に申し込むしかないわけで、もちろん、全員が書類申請をしているのよ」
「だろうな」
美由理は、イリアが菓子類を次々と口の中に放り込んでいく様に唖然としつつも、彼女の説明に意識を集中させていた。
イリアは、昨夜からずっと働いており、寝ていないのだという。空腹なのも理解できるし、なんだったら大食堂なり喫茶店にでも行くか、と、美由理がさそったのだが、ここがいいと彼女がいうものだから、仕方なく、買い置きの菓子を提供しているのだ。
「そして、固有波形の検査も行われたわけ」
「ふむ。そこまでは落ち度は見えないな」
「そうよ。そこまではネノクニ側の対応も完璧、なんの問題もないわ。大事なのは、そこからなのよ。統治機構の連中、固有波形を検査して、記録したはいいものの、過去の記録との照合とか一切やっていなかったのよ」
「……本当なのか?」
「ええ。同時期に検査した近藤悠生や複数名のネノクニ市民も、素通り同然だったわ」
「馬鹿な……」
「まあ、固有波形に変化なんて起きないし、固有波形を騙す人間なんていなかったわけだから、わざわざ照合する必要なんてないって考えたんでしょうね」
「確かに……そうだが」
美由理は、唸るようにいった。確かにイリアのいう通りだ。
双界間旅行が行われるようになって十二年が経過しているが、旅券に関する大きな問題が起きたという事例はなかった。少なくとも、美由理が記憶している範囲にはない。
そもそも、固有波形を欺瞞する方法などはなく、魔法を用いて強引に騙そうにも、簡単に露見してしまうのだから意味がない。
今回の例だって、そうだ。
そもそも、松下ユラに擬態していたサキュバスは、固有波形を欺瞞しようとすらしていなかった。
双界間旅行の申請書類を提出し、固有波形の検査を受けている。
固有波形から正体が見破られる可能性について、全く考慮していないとでもいわんばかりに、だ。
「つまり、ネノクニ当局が過去の松下ユラの固有波形と照合していれば、別人に成り代わっていることが判明したということか?」
「そういうことよ。そしてその場合には、ネノクニで一悶着が起きていたかもしれない、というのが情報局の見立てよ。わたしもそう思うわ」
「どちらが良かったのやら」
「どちらも良くないわよ。幻魔にいいようにされているだけだもの」
「そうだな……その通りだ」
美由理は、イリアの嘆息に頷きながら、〈七悪〉を名乗る幻魔たちの姿を脳裏に思い浮かべた。
双界に暗躍する鬼級幻魔たち。
その存在が有る限り、この地上にも地下にも平穏はない。
イリアのいう通り、いいようにされているばかりで、戦団側が有効打を与えられていないという現実が、美由理たちの眼前に巨大な闇のように聳え立っているのだ。
この閉塞感を打開するには、どうするべきなのか。
美由理は、不意にイリアがテーブルの上に突っ伏した挙げ句、寝息を立て始めたのを見て、息を吐いた。
このままでは、誰もが彼女のように忙殺され、疲弊し、消耗していくだけではないか。
そんな暗澹たる気分が、イリアを軽々と抱え上げた美由理に重くのし掛かってくるのだった。