第四百四十三話 狼狩り(十)
「終わったそうだ」
作戦司令部との通信を終えるなり、美由理は、幸多に向かっていった。報告を聞くまでもないことだった。氷塊の中に閉じ込めていたはずのサキュバスの姿が掻き消えていたからだ。
本体が息絶えれば、分身のような精密な制御が必要な魔力体は維持できなくなって消滅する。
道理である。
場所を、集合住宅の屋上から、室内へと移している。
〈スコル〉が本拠地としていた室内は、幸多とサキュバスの衝突によって荒れ放題に荒れている。その上、天井には大穴が開き、升田春雪が点けようとしたのであろう天井照明もまともに機能していなかった。
室内を照らしているのは、天井照明の不足を補うように生み出された魔法の光球であり、春雪の魔法であることは聞くまでもなく理解できる。室内には、ほかに意識を保った魔法士は一人としていないのだ。
様々な機材が所狭しと並べられた室内には、長谷川天璃と近藤悠生、そしてもう一人の〈スコル〉構成員が厳重に拘束されている。三人とも意識を失ったままだ。
彼ら三名の首にかけられた首枷のような魔具は破魔環といい、魔法犯罪者等の拘束時に用いられるものだ。
遙か昔――魔法時代黄金期、人類全体が魔法士となり始めていた頃、当然のように魔法を利用した犯罪が増大した。魔法という万能の力を用いれば、あらゆる犯罪がより狡猾に、より悪辣に、そしてより効率的に行うことができるようになっていった。
それがどのように素晴らしい技術であれ、悪用しようとするものは現れるし、思いつけば実行するのが人間という生き物だ。
どれだけ法秩序が整備されようとも、社会が犯罪を否定しようとも、犯罪そのものはなくならないし、時代時代の技術水準に応じて高度化していくものだ。
魔法時代がそうだ。
魔法犯罪の横行は、魔法技術が一般的かつ普遍的なものになったことによって人類全体が背負うことになった代償の一つだろう。
だれもが当然のように魔法を使えるようになった結果、魔法犯罪者が増大した。
同時に様々な魔法犯罪対策が考えられたし、魔法犯罪者を拘束した後の対処法も考案された。
中でも問題だったのは、拘束後の犯罪者にいかにして魔法を使わせないか、ということだ。
魔法を使えるのは、なにも魔法犯罪者に限った話ではない。魔法を使わない従来通りの犯罪者も、魔法時代黄金期以降ならば普通に魔法を使うことが出来たし、拘束後、隙を見て魔法を使い、脱走した事例は枚挙に暇がない。
魔法を使うには、魔力の練成、律像の形成、真言の発声という三つの段階を踏む必要があるが、魔力練成の段階では見た目的な変化はない。魔素は体内を巡るものであり、ごく一部の例外を除いて肉眼で見えるものではないのだ。
律像の形成。
これは、魔法士ならば、誰もが一目で理解できるものであるため、その拘束対象が律像を形成した時点で対応することはできないわけではない。が、万が一見逃した場合、真言の発声まで達成されてしまう可能性が高くなる。そして、真言が唱えられれば、魔法は発動し、拘束を破られ、脱走されてしまう確率は、爆発的に高くなる。
そうした事態に対応するために様々な魔具が研究、開発されてきたが、破魔環は、戦団技術局が開発した最新鋭の拘束具である。
破魔環は、最新技術の結晶であり、装着したものが魔力を練成し、律像の形成を行おうとすると、脳に電気信号が送られ、律像の形成そのものを極めて困難にするというものである。魔力の練成は可能だが、その魔力で魔法を使うことは出来なくするという画期的な発明である。
しかも、過去に存在した別種の拘束具のように声を奪うわけではないため、取り調べも可能だ。
また、拘束中、収監中、魔法を使う能力を奪うことは、彼らの人間性を奪うのと同義である。
それまで当然のように使えていた魔法が、突如として使えなくなるのだ。
これほど犯罪者に対して効果的なものはない、という。
ちなみに、破魔環を発明したのは日岡イリアだが、それは彼女が星央魔導院の学生だった頃の発明であり、彼女がいかに期待されて戦団技術局に招き入れられたかが想像できるだろう。
イリアは、法機などに用いられる紋象技術の応用に過ぎず、いずれ誰かが発明した代物だと謙遜しているが、彼女が破魔環を発明したことによって、戦団や警察部の魔法犯罪者対策が大きく改善されたのは疑いようのない事実だった。
そんなことが幸多の脳裏をよぎったのは、一瞬のことだ。つぎの瞬間には、美由理に意識を向けている。
「サキュバスの対応が、ですか?」
「ああ」
「やっぱり、あの人がサキュバスだったんだ……」
幸多の頭の中には、〈スコル〉の拠点で縮こまっている親子の姿が過っていた。升田麻里安は偽物には見えなかったし、その娘・春花も、その母を偽物として認識していないようだった。極めて巧妙に擬態していたということなのだろうが、だとしても、なんともやり切れないという気分があった。
騙されていたのは、自分たちだけなのか、どうか。
長谷川天璃らの反応からも、あの拠点にいた升田麻里安がユーラの擬態だということは知らなかったのではないか。
少なくとも、天璃がサキュバスのユーラについて何か知っているような素振りはなかった。
道化。
そんな言葉が、幸多の頭の中に浮かんだ。〈七悪〉のアスモデウスが描く計画に踊らされる道化たち。天野光、天燎鏡磨、神吉道宏、長谷川天璃、近藤悠生――皆、被害者だということは、もちろん、幸多も理解している。
理解しているからこそ、やるせないという気持ちが浮かぶのだ。
「いったい、どういうことなんだ? わたしの妻は、きみに確保されたんじゃなかったのか?」
升田春雪がわけがわからないといった様子で尋ねてきたものだから、幸多は、美由理を一瞥した。師は、小さく頷くだけだ。
「あー……えーと、確かにそうだったんですけど、どうやら、偽物だったみたいで」
「偽物……」
「先程、松下ユラに擬態していたサキュバス、あれ自体がサキュバスの分身だったようだ。個体名を持つ上位妖級幻魔だ。それくらいのことはできても不思議ではないが、しかし……」
『とっても想定外よね!』
「うむ。まさか二重三重に擬態していたとはな」
それから、美由理は、事の次第を幸多と春雪にわかるように説明した。
松下ユラは、上位妖級幻魔サキュバス・ユーラの分身、その擬態であった。いつ頃からか分身が擬態していたのかはわからないが、少なくとも、長期間ではないだろう。
地上に上がるまでは、ユーラ本体が擬態していたと見るべきだ。
地上に上がり、天璃らが春雪と対面、春雪の妻子が〈スコル〉の人質となり、今日に至るまでの間のわずかな期間に、ユーラは、分身をユラに擬態させ、自分自身は升田麻里安に擬態した。
そして、本物の升田麻里安は、全く別の拠点の地下に幽閉されていた。とはいえ、長時間幽閉されていたわけではないらしく、麻里安本人の意識は無事であり、精神状態も極めて安定しているという話だった。
升田麻里安に擬態したユーラは、本物の春花とともに戦団本部に移送された直後、姿を消した。本部棟の構造は、外部にも知れ渡っている。当然、ユーラも熟知していたのだろう。しかも、透明魔法の魔具を用いることで、本部内の厳重極まりない警戒網を容易く突破している。
そして、迷わず総長執務室に直行し、そこで神木神威と対峙したのだという。
「そして、総長特務親衛隊に撃滅された――ということだ」
美由理の説明を受けて、幸多は、ようやく安堵の息を吐いた。
これで、今朝から夜中まで続いていた〈スコル〉に纏わる一連の事件に終止符が打たれたのだ。
無論、疑問はまだ残っている。
なぜ、サキュバスのユーラは、〈スコル〉を使ったのか。それもアスモデウスの指示だったのか。
〈スコル〉の面々は、ユーラのことを知っていたのか。知っていなかったのだとしても、勝てる見込みがあると思っていたのか。
それとも。
幸多は、部屋の片隅に拘束された長谷川天璃の顔を見つめながら、脳裏を巡る様々なことを考えるのだ。
この一連の事件は、なんの意味があったのか、と。
〈スコル〉にとっては、博打ですらない。
端から勝ち目のない戦いだった。
戦団と〈スコル〉の戦力差はあまりにも大きく、隔絶している。
確かに、あれだけの連続爆破事件を起こせば、央都の市民は動揺し、恐怖するだろう。一歩間違えれば、多大な被害が出ていたに違いなく、そうなった場合、戦団に対する非難の声も少なからず上がったに違いない。
しかし、それ以上に戦団に頼る声のほうが多かったはずだ。
央都は、戦団に拠って成り立っている。
戦団こそが央都の根幹であり、根本だ。戦団がなければこの法秩序は存在せず、平穏も安寧もないということくらい、子供だって理解している。
だからこそ、幸多は、思うのだ。
彼らは、なぜ、このような馬鹿馬鹿しい真似をしたのか、と。
結局、ただの道化でしかなかったのか。