第四百四十二話 狼狩り(九)
神木神威は、総長執務室の扉が乱暴に吹き飛ばされるのを見て、眉根を寄せた。
執務室内には、この時間、彼一人しかいない。
首輪部隊などと揶揄される総長特務親衛隊だが、常に同席しているわけではない。特にいまこの時間帯は、隣室で待機していた。だが、この物音を聞けば、すぐにでも飛び出してくるに違いない。
それだけの轟音であり、衝撃が、執務室内を駆け巡り、神威の顔面を撫でた。吹き飛ばされた扉が、床や壁に激突して、けたたましい金属音を発する。
そして、そんな暴挙に出た人物を目の当たりにして、神威は、冷ややかな眼差しを向けざるを得ない。しばらく前、皆代幸多が確保し、戦団本部に移送されてきた人物だったからだ。
升田麻里安。
情報局副局長補佐・升田春雪の妻であり、元戦団情報局員である。
「ユーラの本体か」
「御明察……なーんて、いうとでも思ったかしら」
升田麻里安の姿と声で、それは、いった。口の端を大きく歪ませ、生理的嫌悪を増幅させるように振る舞うそれは、人類の天敵として相応しくあろうとしているかのようだった。幻魔らしい皮肉と嫌味に満ちた立ち居振る舞いだ。
幻魔。
それ以外考えられないし、実際、そうなのだろうが。
そして、升田麻里安に擬態しているものが一体何者なのか、神威には、その姿を見る以前から理解できていた。
サキュバスのユーラだ。
ついさきほどまで皆代幸多が激闘を繰り広げていたはずのサキュバス。ユーラという個体名を持つ、例外の上位妖級幻魔。〈七悪〉アスモデウスの下僕を名乗るもの。
幸多がどれだけ銃撃を浴びせても、超周波振動弾の弾幕を叩き込んでも全く意味を為さない理由が、そこにあったのだ。
幸多と戦っているユーラは幻躰に近い分身、魔力体であり、本体の遠隔操作によって動いているからにほかならない。
では、本体はどこにいるのか。
それが今まさに明らかになったというわけだ。
升田麻里安は、娘の春花とともに幸多によって身柄を確保された後、速やかに戦団本部へと移送された。その後身体検査を受け、〈スコル〉によってなにもされていないことが確認されたのだが、幻魔の擬態であることは判明していなかった。
それはそうだろう。
ただの身体検査で、固有波形まで調べようとはしない。固有波形の検査を行えば、一発で判明したに違いないが。
「これからは固有波形の検査も必須項目に入れるべきだな」
「今更ね。なにもかも今更よ。そして、全部無駄に終わるの」
「無駄? なぜそうといえるのかね」
神威は、サキュバスが升田麻里安の顔と声で告げてくるのが気に入らなかったが、そんなことを考えている場合ではないということも理解していた。執務室内。当然ながら、監視カメラは機能しており、情報局を通じて、あらゆる部署に通達されているはずだ。
今頃、戦団本部内の待機戦力が動き出しているし、目の前の幻魔がこの状況を理解していないはずもないのだが、しかし、幻魔には余裕すら感じられた。
「あなた、戦団の頭目でしょう? 総長といったかしら。総長であるあなたが死ねば、戦団は終わり。一事が万事、そういうものよ」
「……いかにも幻魔らしい物の考え方だ」
「違うとでもいうのかしら」
幻魔は、神威の反応を強がりだと判断したのだろう。冷笑とともにその本性を現した。升田麻里安の姿が一瞬にして変貌し、サキュバスのそれへと変貌したのだ。
透き通るような肌をこれでもかと露出しつつも長い髪を衣のように全身に絡みつかせ、頭部には角を生やしている。妖艶極まりない美貌の持ち主でありながらも、凶悪に輝く赤黒い双眸が人外を主張し、背から生えた漆黒の翼がその飛膜を広げ、神威の視界を覆うようだった。
上位妖級幻魔サキュバス。
「でも、なにをいっても、もう遅いわ」
サキュバスが、地を蹴った。律像を展開するまでも、魔法を使うまでもない、とでもいわんばかりの猛然たる突進。一瞬にして神威の眼前へと肉迫したユーラは、その細くしなやかな腕でもって彼の首を掴んだ。太く分厚い首に、サキュバスの爪が食い込み、皮膚を突き破る。鋭い痛みだった。
「人間は、集団で生きている。組織の長が死んだところで、それで終わるようなものではないのだ。王たる鬼級が死ねばそれまでのきみたちと違ってね」
神威は、告げながら、サキュバスの両目が大きく見開かれるのを見た。
「な……なぜ!?」
ユーラは、そのとき、確かに見たのだ。どういうわけか神威の眼帯が外れる瞬間を目の当たりにしたのだ。そして、その瞬間、衝撃がユーラを突き抜けていた。
「なんで!? どうして!? どういうことなの!?」
ユーラが戦慄のあまり我を忘れたかのような叫び声を上げると、神威から飛び離れた。
神威は、机の上に落ちた眼帯を拾い、付け直した。その間、サキュバスはさらに距離を取っている。既に執務室の出入り口に達しており、さらに逃げの姿勢を見せていた。
「そもそも、おれがきみ如きにやられる道理はないんだが」
「ありえないありえないありえないありえない……!」
「なるほど。鬼級幻魔の命令よりも本能を優先するか」
さもありなん、と、神威は、サキュバスが執務室から逃げ出す様を見ていた。
サキュバスが、通路へ出た瞬間だった。
通路の両側から、様々な魔法が殺到し、サキュバスの全身を包み込んだのだ。強烈な魔法の数々は、総長執務室へと向かっていた導士たちによる一斉攻撃に違いない。
逃げることしか考えていなかったのだろうサキュバスには、想像だにしない事態であり、対処のしようがなかっただろう。
ユーラの甲高くも破壊的な断末魔が響き渡ったのは、強烈な魔法が立て続けにその魔晶体に叩き込まれ、魔晶核が徹底的に破壊されてからのことだった。
神威が通路を覗き見ると、サキュバスの燃えかすのような死骸だけが残っており、総長特務親衛隊を始めとする優秀な導士たちが彼の無事に安堵したような顔をしていた。
「これが……〈スコル〉の目的だったのでしょうか?」
と、サキュバスの死骸を見下ろしながら神威に尋ねてきたのは、親衛隊の一人である。
戦団本部を急襲し、総長の命を狙う。
それが〈スコル〉の目的とあれば、達成寸前までいったということになるのだが。
「違うだろうな。〈スコル〉は、利用されていただけだ。〈七悪〉にな」
「また、〈七悪〉ですか」
「双界に暗躍する幻魔など、〈七悪〉以外にはいないということだ。わかりやすくていいじゃないか」
とはいったものの、〈七悪〉の存在の暗躍が厄介極まりないものであり、〈七悪〉に翻弄され続けているという事実が不愉快以外のなにものでもないのも確かだ。
目論見は、潰えた。
だが、それが本当に〈七悪〉の目論見だったのかどうかは、わからない。
今回の件で、〈七悪〉がなにを考え、なにを求め、なにをしようとしていたのか、皆目見当も付かないのだ。
ただわかっていることは、〈スコル〉と名乗っていた連中は、幻魔に言い様に扱われていただけであり、天燎鏡磨と同じような被害者といってもいいということだ。
サキュバスのユーラは、アスモデウスの下僕と名乗った。
つまり、一連の行動の裏には、アスモデウスがいるということにほかならない。そして、長谷川天璃ら〈スコル〉の構成員たちは、いつからかアスモデウスの計画に巻き込まれ、そのために行動していたに違いないのだ。
彼らの思想や理念など、元より見る影もなかったということだ。
神威は、多少、哀れに思ったものの、すぐさま考えを改めた。
央都に混乱と恐怖を撒き散らした罪そのものは、厳然として存在している。
そもそも、太陽奪還計画が、そうだ。
戦団を打倒し、地上の支配権をネノクニ人のものにするというのが、河西健吾が打ち立てた太陽奪還計画の概要である。
そのためには戦団を圧倒する戦力が必要であり、実行に移すためには膨大な年月をかけなければならない、と、河西健吾は考えていたようだが、工作員の暴走が引き起こしたサイバ事件によって明るみとなり、彼の野望は潰えた。
長谷川天璃は、その後継者を担おうとしたが、それも失敗に終わった。
なにもかもが、徒労に感じるのは、年を取ったからではあるまい。
神威は、サキュバスの死骸の後始末を部下に任せると、執務室に戻った。
後始末は、しなければならない。