第四百三十八話 狼狩り(五)
天璃は、春雪を睨み付けていた。
その秀麗な顔立ちが悪鬼のような形相に変わり果てているのは、彼の感情が爆発しているからに違いない。
怒りが、激情が、彼の表情を歪めに歪めている。
「あなたは……あなたという人は……!」
いまにも春雪に飛びかかろうという気配すら見せる天璃だったが、幸多が春雪との間に入ったことで未遂に終わる。冷水を浴びせられた気分になったのだ。
闘衣を身に纏う幸多の姿は、異物のようにこの室内に存在感を発揮している。重々しく、凶悪だ。
「だから、爆発による犠牲者が一人もでなかった、ということですか?」
「そうなる。おそらくは副局長辺りがわたしの閲覧履歴に不審な点を見出し、対応してくれたのだろうね」
「なるほど」
幸多は、春雪の説明によって、戦団の対応が遅れに遅れていたわけではなかったということを把握し、正しい認識を得た。
戦団は、春雪のいう閲覧履歴などによって〈スコル〉が爆発物を設置する場所こそ把握していたが、そこでなにが起こるのかはわからなかった。だから、その建物の周辺を立ち入り禁止にし、導士を配置することでしか対応できなかったのだろう。
最初から爆弾が設置されているとわかっていれば、爆発物処理のための部隊が編成され、送り込まれたはずだ。
その場合、天璃たちが遠隔操作で起爆したのだろうが。
そして、爆発物処理部隊になんらかの被害が出た可能性もある。
故に、二件目以降の爆発に対しても、戦団は周辺住民に避難を指示し、辺り一帯を封鎖することで対応している。
それが〈スコル〉を調子に乗らせることとなった。犯行声明を発表し、戦団を挑発したのだ。
その結果が、いまだ。
幸多は、天璃の血走った目を見つめながら、その背後に控えているユラが艶然と微笑んでいるのが気がかりだった。この状況でも余裕の態度を崩さず、自分たちの勝利を確信しているようの振る舞いは、怒りに震え続けている天璃とは全く異なるものだ。
どこか、超然とさえしている。
異様だった。
とはいえ、いまは天璃にこそ意識を集中するべきなのは、確かだった。
「まさか、あなたに出し抜かれるとは思っていませんでしたよ、升田さん。いや、最初から想定しておくべきだったのか。あなたは、ぼくたちにとって最大の裏切り者だったのだから」
「そうだよ。わたしは、〈フェンリル〉を見限った人間だ。最初からきみたちの敵だったのだ。敵を利用しようとするのであれば、もっと敵のことを知っておくべきだった」
「……全く」
天璃が、怒気を込めて、息を吐いた。すると、彼の肉体から噴き出すようにして律像が展開していく。複雑怪奇な紋様の数々が幾重にも交錯し、一つの図形を作り上げていくのだ。
彼がそれなり以上の魔法士であることは、それだけで理解できる。
が、幸多が、そのようなことでたじろぐはずもなかった。
幸多は、日夜、天璃とは比較にならないほどの魔法士と対峙し、高密度の律像と対決してきているのだ。多少優秀な程度の魔法士では、敵にすらならない。
そういう意識が、幸多の中にあった。
その程度の魔法士だからこそ魔法不能者に対する決定的な油断があり、幸多の接近にも無防備たったのだ。
「ふっ」
幸多は、鋭く息を吐くとともに踏み込み、その瞬間には天璃の鳩尾に拳がめり込んでいる。天璃の体が二つ折りに折れていく中で、彼の血走った目が幸多を睨んだ。激しい怒りと憎悪が、業火のように燃え盛っていた。叫ぶ。
「きみはっ……!」
怒号が真言となり、魔法が発動する。天璃の周囲に四つの火球が出現し、強い光を発した。それらの光は収斂し、熱光線となって照射される。
四本の熱光線が、室内を縦横無尽に切り裂いていく中、幸多は、春雪を一瞥した。機材が溶断され、机や椅子、調度品の数々が、この一室そのものが崩壊していく中にあって、春雪の周囲には、魔法の壁が展開されているようだった。
そのことに安心したときには、幸多は、召喚言語を発している。
「双閃」
閃光とともに出現した短剣を両手に握り締め、透かさず振り回して四つの火球を切り飛ばしたときには、天璃が立ち上がっていた。目の前だ。幸多よりは上背があったこともあり、憎悪に燃える眼差しが、幸多を見下ろしていた。
「どうして邪魔をするんだ?」
「ぼくが戦団の導士で、あなたが戦団の脅威だからだよ」
「きみとはわかり合えると思っていたというのに」
「わかり合える?」
「そうとも。ぼくもきみも、持たざるものだった。きみは、魔法を。ぼくは、太陽を。互いに持たざる者同士、理解し合えるはずだった。手を取り合い、この不公平で不平等な世界を正すことだって出来たはずなのに。それなのに、きみは、戦団についた」
「……わからないな」
幸多は、天璃の言い分が全く理解できなかった。その瞳に燃えたぎる怒りが、どす黒い狂気を帯びていて、彼の発言を真っ直ぐに聞き入れられる気がしないのだ。
しかし、天璃は、発言し続ける。
「この魔法社会において、魔法不能者は最底辺の無用の長物だ。そのような扱いを受けるのが当然で、誰もがそのことに意見しない。目くじらを立てない。当たり前のように受け入れて、平然と受け流されている。きみのこれまでの人生を振り返ってみなよ。きみがどれだけ蔑まれ、疎まれ、見下されてきたのか、嘲られてきたのか、思い出せるんじゃないか?」
「……ええと」
『彼の言葉に耳を貸す必要はないぞ。きみを動揺させようとしているだけだ』
幸多が天璃の言葉に困惑していると、幻板の向こう側から神威が警告してきた。
幸多にとっては、いわれるまでもないことだったが。
天璃が、冷笑する。
「動揺? 違いますよ。真実に目覚めさせようとしているだけだ」
『真実だと?』
「この社会が、彼のような社会的弱者を搾取するための強固な機構であり、揺るがすことすらも困難だという現実は、彼自身が誰よりも知っておくべきだ。戦団は、己が社会の万全性を主張するために彼を利用しているんだろうけれど、それではあまりにも哀れだろう。ただの道化じゃないか」
「道化……ぼくが?」
「そうだよ。きみはこのままでは道化で終わる。戦団が魔法不能者でも活躍できるなどという幻想を市民に植え付けるためだけの存在。それがきみだ。きみは、窮極幻想計画などというありもしないまやかしに囚われているだけさ。本当のことなんて、なにも知らないんだ」
「……ふう」
幸多は、天璃の暴言の数々に対する感情の昂りを抑えつけるように息を吐いた。天璃が幸多を説得するために並べた言葉の数々は、当然のように幸多には響かない。
むしろ、神経を逆撫でにされているだけだ。
幸多だけならばともかく、戦団を、窮極幻想計画に携わる全ての人々を蔑ろにしている。
そんなものを許せる幸多ではない。
「きみは、戦団に利用されているだけだ。それはつまり、きみにそれだけの価値があるということなんだよ、皆代幸多くん。きみならば、ぼくたちとともに未来を切り開いていける。それだけの権利と、義務がある」
「権利……義務……」
「そうだよ。きみは、ぼくたちとともにこの戦団が支配する世界を変えなければならないんだ!」
「それは困るな」
幸多が、その熱弁に対して困惑の表情を見せると、天璃は、その目にわずかに怒りを覗かせた。散々説得したというのに、どういう反応を示すのかといわんばかりの態度だった。
「……なんだって?」
「皆、星を視るために必死になっているんだ。ぼくには星なんて決して視えないけれど、皆の邪魔をするなんてこと、考えたこともないんだ」
「なにを……いっている?」
「星を視よ、と、始祖魔導師はいったそうだよ」
「さっきも聞いた……!」
天璃が怒声とともに魔法を発動しようとしたが、そのときには、幸多の短刀を握り締めたままの拳が、彼の腹に埋め込まれていた。天璃が呻き、再び体を折る。なんとか堪えて幸多に掴みかかろうとするも、空振りに終わった。
幸多が容易く躱して見せたからだ。
直後、天璃の体は幸多の足下にくずおれて、わずかに痙攣した。
天璃が意識を失うまで時間はかからない。
幸多は、白目を剥いた天璃を一瞥すると、〈スコル〉幹部の最後の一人と対峙した。
松下ユラである。
彼女は、床の上に崩れ伏した天璃、そして悠生を見比べ、さらに室内を見回した。天璃の魔法によってでたらめに切り裂かれ、熱気でむせ返る室内。煙が立ち込め、警報機が鳴り始めている。
ユラが、軽く肩を竦めて見せた。この状況下で追い詰められているという感覚もなければ、余裕すらあるようだった。
「本当に役に立たない男たちね。人間って、口先ばっかり」
「……あなたは、人間じゃないとでも?」
幸多は、ユラの纏う雰囲気そのものの異様さに気づいていたからこそ、そう問うた。
多少、驚きはあったが、今更だ。
既に人間に擬態する幻魔がいた上、人間でも幻魔でもない未知の存在まで確認されているのだ。
ユラが、人間に擬態した幻魔なのだとしても、なんら不思議ではない。
ユラは、妖艶に微笑んだ。
「そうよ。わたしは人間じゃないの。じゃなかったら、こんな馬鹿げた計画に賛同するなんて、いかれているでしょう?」
『馬鹿げた計画か』
幻板の向こう側の神威が、嘆息するようにつぶやいた。
『確かにその通りだが……きみは何者だ? 人間ではないといったな』
「うふふ……せっかくだから、教えてあげる」
ユラが、神威の問いかけに対し、その肢体を見せつけるようにくねらせると、全身が暗い影に覆われた。そして、影が消えると、ユラの正体が明らかになった。
ユラは、元より美女だった。その美しさがより磨きをかけられたような姿が、影の中から現れる。透けるように白い肌には血管が浮き出ているようであり、長い長い頭髪が全身に絡みついて、その豊かな胸や細い腰、肉付きの良い臀部などを覆っている。
背には一対の翼があり、その黒い翼には飛膜があった。さながら、蝙蝠の翼のようだ。
双眸は紅く黒い光を発していて、妖艶としか言いようのない笑みが顔に刻まれている。
「わたしは、アスモデウス様が下僕、サキュバスのユーラ。艶美な夢を見せてあげましょう」
「サキュバス……!」
幸多は、幻魔の類別名を叫びながら、瞬時にその場を飛び離れた。直後、翼が閃き、虚空に亀裂が走る。魔力を帯びた翼による斬撃が、衝撃波のように駆け抜けてきたのだ。床や壁が切り裂かれ、調度品や機材が吹き飛ばされて散乱する。
幸多も反応が遅れていれば、ばらばらになっていたかもしれない。
サキュバス。
妖級幻魔の一種で、上位に類別される。
幻魔は、等級が上がれば上がるほど能力が高くなり、姿形が人間に近づいていくとされる。実際、上位妖級幻魔に類別されるサキュバスは、極めて人間に近い姿態をしていた。
ただし、近いというだけで、人間とは似て非なるものだ。サキュバスの姿のまま人間として通用するのであれば、人間社会に潜伏することができるのであれば、わざわざ擬態する必要がない。
しかし、擬態しなければ、一瞬で幻魔であることがわかるくらいには、人間とサキュバスには差違があった。
背中の翼もそうだが、硬質感のある肌もそうだろうし、赤黒い光を発する双眸も、幻魔の特徴といえるだろう。さらにいえば、体のそこかしこに人体とは異なる部分があり、それらを見れば一目瞭然なのだ。
だが、上位妖級幻魔である。
それはつまり、目の前の妖艶な美女が、鬼級幻魔に次ぐ力を持っているということだ。
しかも、個体名を持っているという時点で、さらに警戒を強めるべきだった。
「そうよ。わたしはサキュバス。初めて見るのかな?」
「上位妖級幻魔なんて、そうはいないから」
「そうね。そうよね。可愛いわね、きみ。食べちゃいたいわ」
サキュバスが、翼を広げた。律像が幾重にも展開し、魔力が吹き荒れる。機材や調度品の破片が舞い上がり、室内をさらに破壊していく。
「でも、美味しくなさそうね」
「そりゃあ不味いに決まってる」
幸多は、覚悟を決めると、サキュバスの魔晶核の位置を脳裏に浮かべた。
妖級以下の幻魔には、個体差というものがない。能力も、強みも弱点も、心臓たる魔晶核の位置も、全部同じだ。
〈七悪〉の一体であるアスモデウスの下僕であり、固有の名を持っているということを踏まえたのだとしても、だ。
幸多に迷いはなかった。透かさず双閃を投擲する。
「斬魔」
召喚言語を唱えながら駆け抜け、サキュバスを眼前に捉えたときには、二十二式両刃剣を手にしている。残念ながら、二本の短剣は、サキュバスの翼に吹き飛ばされている。
ユーラの双眸が大きく開かれただけでなく、両腕を広げてもいた。まるで、幸多を向か入れるような動作だった。
幸多は、黙殺した。
構わず懐に飛び込み、サキュバスの右脇腹に斬魔の切っ先を突き入れている。サキュバスがもっとも守りを固めている部位であり、サキュバスの魔晶核が隠されている位置。
斬魔は、通った。
だが、幸多に手応えはなかった。魔晶核を貫いたという感覚がだ。
サキュバスの細い手が、幸多の頬に触れた。
「捕まえた」
艶めかしい声とともに、闇が、幸多の視界を包み込んだ。