第四百三十三話 スコル(九)
「なんの話だ?」
神威が突然、話題を転換したことには、さすがの天璃も怪訝な顔になった。
天璃だけではない。
春雪も、神威が発した言葉の意味を理解するのに、多少の時間を要した。
情報局副局長補佐ですら、だ。
当然、天璃たちには、神威がなにをいっているのか、全く理解できなかっただろうし、想像も付かなかったはずだ。
『始祖魔導師・御昴直次の最期の言葉だよ。彼は、今際の際、確かに星を視て、ネノクニの守護者になったのだろう』
「突然、なんの話をしたかと思えば、そんなことですか。それが、いったい、なんだというんです?」
『いや、なに。きみらが地上を吹き飛ばし、ネノクニと直通させるというものだから、考え込んでしまったのだよ』
「央都が吹き飛ばされるのは、さしもの総長閣下も困り果てるようですね」
『その結果、人類が滅亡する可能性に直面すれば、誰だって困り果てるだろう』
「人類が滅亡する? ネノクニには三十万の市民がいますよ。それに、滅び去るのは、葦原市だけです。あとの三市には、ネノクニの支配下に入ってもらえばいい。まあ、統治機構の天下になるのは癪ですが、〈フェンリル〉の遺志は、そこにある。ネノクニこそが、地上をも支配するべきであり、太陽を戴くべきなのだと」
『その結果、ネノクニが滅び去っても構わない、と?』
「なにを……」
言い出すのか、と、天璃は、神威を睨んだ。
神威は、困ったような顔で、天璃を見ている。
天璃の狂気が本気に近く、すぐにでも大量の爆弾を用意し、葦原市を消し飛ばそうとしているように思えてならなかったからだ。
神威は、もはや天璃が正気を保っているとは想ってもいなかった。狂気だけが彼を支配し、突き動かしているのだと確信してさえいた。
その狂気こそが、危険だ。
狂気に駆り立てられた人間は、なにをしでかすのかわからない。
正気であれば、理性を保っているのであれば、対処のしようもあるのだが、天璃たちはそうではなかった。
そもそも、〈スコル〉の親である〈フェンリル〉自体が、大それた妄執に取り憑かれていた。狂気染みた妄想そのものが彼らの原動力だった。
狂気が、人々を突き動かしている。
いつの時代もそういうものなのかもしれない。
地上奪還作戦だって、そうだ。冷静になって振り返ってみれば、狂気の沙汰以外のなにものでもなかった。勝算など端からなく、人体実験の如く戦場に放り出されただけに過ぎない。
そして見捨てられたのが、地上奪還部隊であり、神威たちだ。
結果として地上奪還作戦は成功したが、予期せぬ幸運に恵まれただけのことだ。なにもかも予定通りに進まなかったし、数多くの同胞が散っていった。
その光景は、今でも思い出す。
まさに悪夢のような、地獄のような戦場。
神威は、脳裏に浮かんだ戦場から現実に帰還すると、眼前の幻板と睨み合わなければならないという事実に憮然とする。過去の地獄のほうが、余程向き合う価値があるのではないか。
『地上とネノクニは、別世界だといっているんだ。地上の魔素濃度は、魔天創世によって激変した。数十倍から数百倍にも激増した魔素濃度は、それまで地上に存在していたあらゆる生物を死滅させ、環境そのものを作り替えるに至った。だが、ネノクニは、魔天創世以前となんら変わらない環境を維持し続けている。我々地上の環境に慣れ親しんだものが地下に降りたとき、まず最初に覚えるのは、違和感だ。魔素濃度の差が体調にさえ影響を及ぼし、目眩や吐き気を覚えることだってある。それほどまでに地上と地下の環境は違うのだ。それが、どういうことかわかるかね』
神威が言いたいことは、つまり、だ。
ネノクニは、地上の魔素濃度に適応した環境作りをしていないということだ。もし、万が一にでも地上の魔素がネノクニに流れ込むようなことがあれば、ネノクニは壊滅的な被害を受けるだろう。
未だ異界環境適応処置を受けていない旧世代人が人口の三割以上を占めているという事実もある。
それはつまり、地上の、高密度高濃度の魔素がネノクニに充満すれば、それだけで、十万人近いネノクニ市民が死亡するということだ。
さらにいえば、地上とは作りの異なるネノクニの都市部は大打撃を受け、機能不全に陥ることも考えられた。
葦原市が壊滅したから、と、地上に乗り込むだけの余力がネノクニに残るとは考えにくい。
もっとも、と、神威は、先程の言葉を念頭に置く。
星を視た始祖魔導師の願いこそがネノクニを存続させているのであれば、ネノクニが今日まで生き延びてこられたのが、御昴直次の星象現界のおかげだというのであれば、仮に地上と地下が直通するようなことになったとしても、地上の魔素が流れ込むことはないのかもしれない。それによって滅び去ることもだ。
だとしても、御昴直次が星象現界を発現させたのは、彼の今際の際のことだ。今から百年以上も昔のことであり、その星象現界による結界が現在に至っても機能していることのほうが不思議だった。
いつ消滅してもおかしくはなく、故にこそ、慎重を期するべきなのは間違いない。
もっとも、〈スコル〉の幹部たちが星象現界を知っているわけもなく、神威の警告が伝わるかどうかも不明だった。
天璃は、そんな神威の警告を聞き、横目にユラを見た。ユラの眼差しの柔らかさが、彼に力を与えてくれるからだ。そして、再び幻板に向き直る。
神木神威の隻眼が、彼を見据えている。
「なるほど。言いたいことは、理解しました。では、こうしましょう。葦原市は吹き飛ばすが、大昇降機には手を付けない。ネノクニとの直通は止めて、ただ、地上の支配権を戦団から譲り受ける、ということで」
『懲りないな、きみも』
「あなたにいわれたくないな。まるで、ぼくたちが本気じゃないと思っているかのようだ」
『きみらが本気だと言うことは、重々理解しているよ。ただ、きみらがどれだけ本気であろうとも、真剣にこの戦いに挑んでいるのだとしても、どうにもならないということを承知しているだけのことだ』
「どうにもならない……か」
天璃は、神威のその言葉を挑戦と受け取った。おもむろに起爆装置を掲げる。
神威は、天璃の指先が一切震えておらず、覚悟と決意を持って行動しているのだと確信したが、だからといって動じることはなかった。
「では、あなたの言葉が真実なのかどうか、確かめようじゃないか!」
天璃が声高に叫び、起爆装置を作動させようとした瞬間だった。彼は、愕然とした。するほかなかった。
「はっ!?」
手の中にあったはずの起爆装置が、掻き消えていたからだ。
その直前、強い痛みがあったことをいまさらのように認識する。まさに彼が起爆装置を作動しようとした瞬間である。しかし、激痛以上に、手の中から起爆装置が消失していることのほうが衝撃的であり、天璃の意識は全てそこに集中した。
「本当、聞いたとおりだな」
背後から聞こえてきた呆れたような声は、天璃にとっても聞き知ったものだった。
即座に振り返れば、でかでかと戦団の紋章が描かれた衣服を身につけた少年が、起爆装置を手に、こちらを見ていた。
「魔法士って、魔力を持たない相手には無限に不用心でいられるんだ」
その少年が皆代幸多だと瞬時に理解できたのは、彼が今や双界において知らないものはいないほどの有名人だからにほかならない。
今年度の対抗戦決勝大会以来、皆代幸多の話を聞かない日はないのではないか、というくらい、世間を賑わせている。
戦闘部初の魔法不能者であり、双界唯一の完全無能者である彼は、この魔法社会に巨大な風穴を開けかねないほどの存在感を放ちつつある。
なにより、魔法不能者でありながら戦闘部導士として着実に実績を積み重ねている。
魔法こそが全ての世界に唯一対抗しているのが、彼という人間であり、存在なのだ。
「きみが、どうしてここに……!」
天璃は、物珍しそうに起爆装置を見ている皆代幸多を睨みつけ、叫んだ。