第四百三十二話 スコル(八)
春雪は、状況を理解して、ほっとした。
彼にとっての唯一の気がかりは、妻と娘のことだった。麻里安と春花は、彼の人生の全てと言っても過言ではなかったし、なによりも大切な宝物だった。
だからこそ、二人を人質に取られれば、〈スコル〉の言うとおりにするしかない。
それが戦団に対する最大の裏切りであっても、その結果、重罪人となり、裁かれるのだとしても、〈スコル〉の言いなりとなって、彼らの計画に協力するしかなかった。
春雪にとって、妻と娘は、自分の命よりも大切なものだ。
故にこそ、二人の安全が確認されれば、安堵もしよう。
後は、戦団がこの状況を打開してくれることを待つだけでいい。
春雪は、〈スコル〉が戦団を出し抜けるなどとは、微塵も思っていなかったし、この計画が自分の存在とは関係なしに破綻するものだと思っていた。それでも、失敗するのだと理解していても、妻と娘の命と引き換えることはできない。
春雪は、現実を視ていた。
家族という現実。戦団という現実。央都という現実。
この世界の現実を、彼は直視していたのだ。
結局、〈フェンリル〉も〈スコル〉も、妄執に囚われ、現実を直視できていないのだ。
その結果が、これだ。
『さて、どうするかね。きみらは、まだ、我々と戦うつもりか?』
「戦うもなにも、こちらが優位であることに変わりはありませんよ」
天璃が、神威を見据えながら言ってのけた言葉には、明らかな苛立ちと怒りが込められていたのだが、春雪は疑問しか感じなかった。
確かに、十二件にも及ぶ連続爆破事件は、葦原市民に不安を与え、夜も眠れないほどの恐怖を与えたのは間違いない。戦団が敷く秩序に警鐘を鳴らし、戦団に対する世論の不満を噴出させてさえいるのも、天璃たちの想定通りの結果だろう。
そして、今も市内各所に設置された爆弾が、起爆の瞬間を待ち侘びているという事実もある。
それらが一斉に爆発すれば、たとえ犠牲者が皆無であったとしても、大騒動となるだろう。
それによって戦団の対応が問題視され、溜まりに溜まっているであろう不満が爆発する可能性は低くない。
だが、それだけだ。
結局、それ以上のことは、起きない。
市民の誰一人として死なないし、ましてや、〈スコル〉の太陽奪還計画が遂行されるわけもない。
この状況を覆すには至らない。
彼らは、計画の最初の段階で失敗しているのだ。
「ぼくたちは、葦原市を人質に取っている。あなた方は、ぼくたちと交渉するしかない。升田春雪さんには随分と協力して頂きましたし、役に立ってもらいましたが、もう用済みです。御家族の無事が確認されたのであれば、なにより。ぼくたちとしても、いつ解放するべきか、迷っていたんですよ」
天璃のそれは、強がりなどではない、ということは春雪にもわかった。彼は信念の赴くままに行動し、言葉を発している。その言葉には、常に確信があり、揺るぎようがなかった。感情の変動さえあれど。
それが、異様に感じるのは、春雪が天璃のことをよく理解していないからなのか、どうか。
ただ、天璃にしなだれかかるユラのほうが気にかかった。ユラが天璃の首に回す腕の細さが、幻板の発する光に映えている。
『交渉。交渉か。そういえば、そうだったな。この会見は、きみら〈スコル〉と戦団の交渉の場だった。さて、きみらは戦団になにを望むのかね?』
「地上の主権を明け渡して頂く」
『……なにを言いたいのか、わからんな』
神威が、幻板の向こう側で渋い顔をした。元より隻眼であり、眼帯をつけているということもあって厳めしい顔が、さらに険しく、恐ろしげなものになる。
幻魔も一睨みで消滅させるとまでいわれるほどの顔つきである。
今や〈スコル〉とは異なる立ち位置となった春雪が見ても、寒気を覚えるほどだった。
『きみらは、なにか大きな勘違いをしているようだ。我々は、地上の主権者ではないよ。央都政庁こそ、この央都の統治者であり、支配者だ』
「それは欺瞞でしょう。誰もが、戦団こそが地上の支配者にして央都の統治者であることを理解していますよ。子供だって、それを知っているし、そう信じているはずです」
『ふむ……だが、事実として、央都政庁こそが、この央都の政府なのだよ。地上の主権が欲しければ、央都政庁にこそ掛け合うべきだな』
「その場合、あなた方戦団が横槍を入れてこない保証はないでしょう」
『当たり前だろう。我々戦団は、央都の守護者だ。央都の秩序を維持し、市民の平穏と安寧のためにこそ、活動している。きみらが地上の主権を、央都の支配権を欲するというのであれば、戦団は全力でもって相手をしよう』
「それを止めて頂く」
『無理な話だ』
「無理? なぜです あなたの判断一つで、葦原市は壊滅的な被害を受けるんですよ?」
天璃は、そういって、小さな端末を相手の幻板に映り込むように掲げて見せた。
それが起爆用の端末であるということは、天璃が大きく掲げたことで神威にも伝わったに違いない。でなければ、脅迫にならない。
天璃は、神威とのこの会見がただの交渉などではなく、脅迫であるということを理解していた。元より、戦団が反政府勢力、反戦団組織との交渉に応じてくれるわけもない。
さらにいえば、戦団総長をこの場に引きずり出したのも、脅迫によって、だ。
脅迫こそが、最大の力となる。
既に十二個もの爆弾を爆発させていて、その威力の確かさも周知されている。戦団のみならず、央都市民の誰もが、〈スコル〉の破壊工作を恐れている。
この恐怖こそが、戦団が敷いた秩序を引っ繰り返す力となるのだ、と、彼は信じていた。
「ぼくが起爆させた瞬間、あなた方が心血を注いで築き上げてきた戦団の全てが瓦解する。戦団の旗の下に維持されていた秩序は崩壊し、大いなる混沌がこの世を覆うでしょう」
神威は、天璃の目を見つめている。天璃の狂気を孕んだ目を真っ直ぐに見据え、彼が本気でいっているのかどうかを判断しようとしていたのだ。が、どうやら、本気であるらしいということが幻板越しに伝わってくるものだから、途方に暮れかける。
「そうなれば、もはや地上はぼくたちのものだ。ぼくたち〈スコル〉こそが、この地上に君臨し得る唯一の存在となる」
『そうはならない』
「なに?」
『きみらは、地上にどれだけの勢力が覇権争いを繰り広げているのか、なにひとつ理解していないようだ』
やれやれ、と、神威が肩を竦める。
それについては、春雪も同感だった。地上が戦団のみで成り立っている世界だと思っているのは、地上のことをよく知らないネノクニ市民だけなのだ。そして、それによって、大きな勘違いが生まれるのも仕方のないことかもしれない。
ネノクニには、地上は戦団の王国であり、戦団総長こそが神の如く君臨しているのだと、真面目に話し合っているものさえいる。
そう信じざるを得ないほどにネノクニと央都が隔絶していたということもあれば、情報の更新が遅れに遅れているということもあっただろう。
魔暦二百年代、既に数多の企業が地上に進出し、央都においてもネノクニ人による様々な事業が立ち上がり、広がりを見せていた頃だ。
それでも、地下には、地上の光は届かなかった。
ネノクニは、遥か地下深くに蹲っている。
地上に輝く太陽の光など、目にすることは出来ない。
『企業連、央魔連、ネノクニビト……地上は、今や様々な勢力が入り乱れる魔境そのものだ。いずれもの勢力が戦団の隙を窺い、戦団に取って代わろうとしている。きみらが地上に混沌をもたらせば、彼ら諸勢力がそのときを待っていたとばかりに動き出すだろうよ』
「ならば、地上そのものを吹き飛ばすまで」
『ふむ……』
「ぼくたちの目的は、悲願は、太陽の奪還。太陽をあなた方戦団の手から、ネノクニの手に取り戻すためにこそ、活動している」
天璃が、声を励まして、いった。彼の瞳は、今までにも増して狂気を帯び、鈍い輝きを放ち始めていた。
「地上そのものを吹き飛ばし、ネノクニと直通させよう。そうすれば、地上に跋扈する諸勢力とやらを一掃し、太陽もネノクニの元へと帰ってくる。そうか。最初からそうすれば良かったんだ」
天璃が確信を込めて、告げた。そんな天璃の様子を心底愛おしそうに眺めるのがユラであり、どこか安堵したような反応すら見せるのが悠生である。
〈スコル〉の三幹部は、誰もが狂気を帯びている。
春雪だけが、場違いなまでの冷静さでこの空間内にいた。正直、天璃の演説を直接聞き続けているだけでは、頭がおかしくなりそうだったが。
「ありがとう、戦団総長。あなたのおかげで、間違いを正すことが出来ました。これで、ぼくは、本願を遂げることが出来る」
『……星を視よ、と、言ったそうだ』
不意に、神威がいった。