第四百二十八話 スコル(四)
「まさか、こんなに早く決断して頂けるとは思ってもみませんでしたよ。神木神威総長閣下」
長谷川天璃の声がわずかに上擦っているように聞こえたのは、彼がこの状況に興奮しているからに違いなかった。
葦原市内にある〈スコル〉の本拠地。
そこは、近藤悠生が借りている集合住宅の一室ではなく、小さな雑居ビルの一室だった。
近藤悠生が借りていた部屋は、とっくに警察部と戦団情報局によって突き止められ、徹底的に調査され尽くしているに違いない。彼の部屋に残されたものは数少なく、そこから得られる情報などたかが知れているのだが、そのわずかな情報を力とするのが戦団である。
が、問題はない。
近藤悠生は、既に戦団によって〈おおかみのこども〉の一員であるということが割れてしまっている。その時点で、彼が借りていた部屋を拠点として活用することなどできなかったのだ。
全て、計画通りだった。
全ては、この数日以内に決着が着くことなのだから、居心地の良さで拠点を決める必要はない。
戦団総長を会見の場に引きずり出し、〈スコル〉にとってよりよい条件を戦団に提示させること。それこそがこの一日中続いた連続爆破事件の目的であり、理由だった。
つまりは、脅迫だ。
葦原市そのものを人質に取り、戦団に脅しをかけている。
そんなものが通用するわけがないなどとは、升田春雪も思っていなかったのだが、それにしたって、戦団からの反応は想像以上に早かった。
〈スコル〉の犯行声明から二時間余りの後、戦団からの連絡があった。
〈スコル〉が指定したのは、エーテリアル・ネットワークの回線である。
〈スコル〉は、レイライン・ネットワークを使わない。
それは、〈スコル〉の幹部、近藤悠生の提案だという。
幹部の一人、近藤悠生が、どうやらとんでもない天才であるらしいということは薄々わかっていたことだが、春雪が彼らの内情を知るに連れ、確信を持つようになっていった。
彼は、戦団が情報戦において圧倒的な力を持っていることについて、常々考えていたらしい。それらは、戦団が央都の支配者というだけでは説明の付かないものであり、不気味かつ凶悪な情報網を有していると結論づけたようだ。だからこそ、〈フェンリル〉は戦団に敗れ去ったのだ、と、彼は断言してさえいる。
そこでまず実行したのが、レイライン・ネットワークを使わないという選択である。
この現代社会において、情報通信網といえばレイライン・ネットワークが圧倒的な規模を誇り、支持を集めている。もっとも安定的かつ広域に及ぶ通信網であり、安全性も極めて高いと評判だからだったし、それ以外の情報通信サービスが存在しないも同然だからだ。
誰もが使っているということも、大きい。
あらゆる通信がレイライン・ネットワークを経由して行われているという事実もある。
近藤悠生は、そこにこそ、戦団の情報力の秘密があるのではないか、と考えたようだ。
つまり、レイライン・ネットワークを掌握し、監視しているのではないか。
日々、あらゆる情報が奔流となって交錯する情報通信網を一手に支配しているのであれば、あれだけの精度の情報を得、それらを武器に戦い、暗闘に勝利することも難しくない。
そう彼は考えると、〈スコル〉の構成員には、いまや旧式、旧世代としか言いようのないエーテリアル・ネットワークを使うことを徹底した。
そして、それによって、戦団は、〈スコル〉が秘密裏に進めていた計画を掴み取ることが出来なかったのだから、近藤悠生の考えは正しかったと言える。
実際、レイライン・ネットワークを統合情報管理機構によって掌握し、支配しているからこそ、戦団は圧倒的としか言いようのない情報力を持っているのであり、支配者の如く双界に君臨できている。
情報局副局長補佐の春雪には、近藤悠生の想像力、推理力の確かさに唸るほかなかったし、そんな彼を信用し、全てを一任した天璃にも、長者の風を感じないではなかった。
もっとも、だからといって、春雪が彼ら〈スコル〉に同調することもなければ、同情することなど、ありえないことなのだが。
春雪は、人質を取られている。
だから、仕方なく彼らに付き従っているに過ぎない。
「もう少し、時間がかかるものかと」
『時間をかければ、また爆破させたのだろう。そうして、戦団が慌てふためく様を見たかったといいたいのかね』
「まさか。そんな悪趣味なこと、考えているわけないじゃないですか」
三人掛けのソファに腰掛け、前のめりになって幻板を見つめる天璃の目は、いつになく輝いているようだった。
室内は、暗い。
幻板が発する光だけがこの室内を照らしており、故にこそ、天璃の双眸が暗くも輝いているように見えるのだろう。
一方、幻板の向こう側では、戦団総長・神木神威が執務机の上で手を組み、天璃を見据えていた。神木神威の隻眼は、ただそれだけで凄まじい迫力を持つ。
敵意など一切持っていない春雪ですら、思わず気圧されそうになるほどだった。
春雪は、ソファに腰掛ける天璃と、彼にしなだれかかる松下ユラ、そんな二人を眺める近藤悠生の三人を視界に収められる位置にいた。
近藤悠生は常に端末を操作しており、いつでもあらゆる状況に対応できるといわんばかりだ。実際、なにか問題が起きたのであれば、即座に各地に設置した爆弾を起爆させるつもりなのだ。
そうすれば、戦団は爆発地点への対応に追われることになり、それだけで〈スコル〉にとって有利な状況を作れるだろう。
もはや、春雪には、どうすることもできない。
爆破事件は、起きてしまった。
そのために彼らに協力し、戦団を欺いてもいる。戦団が秘匿する情報を提供してしまっている。央都史上最悪に近い重罪人に成り果てた、といっても過言ではない。
なにせ、戦団を裏切っている。
それこそ、この戦団を中心とする世界において、最も大きな罪だ。
「あなたが会見に応じてくれなければ、こちらにも考えがあった。ただそれだけのことです」
『それを脅しと呼ばずして、なんと呼ぶ』
「なんとでも」
天璃は、しれっとした顔で告げた。そんな彼の横顔を素晴らしいものでも見るかのような表情で見取れているのはユラだが、きっと神威にもその様子がはっきりと見て取れるに違いない。
神威が、呆れたような吐息を漏らした。
『まあ、いい。おれが知りたいのは、そういうことではないからな』
「そうでしょうとも」
天璃は、神威の心境が手に取るようにわかる気がして、微笑んだ。厳めしい戦団総長の顔に、さらなる皺が刻まれるが、気にならない。
「まずは、名乗っておくとしましょう。ぼくはこの〈スコル〉の頭首、長谷川天璃です。〈スコル〉が何者なのか、説明する必要はありますか?」
『〈おおかみのこども〉たち、だろう』
「御明察。さすがは戦団。情報が早い」
『そういって接触してきたのは、そちらだろう』
「ええ。近藤悠生が本部棟にお邪魔しましたね」
とはいえ、そのとき彼が名乗ったのは、本名ではない。〈おおかみのこども〉という暗号めいた一文だけである。
そこから〈フェンリル〉に結びつけることができるのは、余程想像力が豊かな人間が戦団にいるからだろうし、近藤悠生の危惧したとおり、凄まじい情報力を持っているからに違いない。
『彼は、元気にしているかね』
「彼?」
『升田春雪くんだよ。情報局副局長補佐のね。そちらにお世話になっているのだろう?』
「はて……」
天璃は、困ったような顔をして、ちらりと春雪を見た。春雪は、天璃の瞳に反射する幻板の光が、とても眩しいもののように見えて、胸が痛んだ。その光の中にこそ自分の居場所があるはずなのに、いまや、遥か遠い彼方にあるのだ。
手を伸ばしても届かなければ、もはや二度と触れ得ることのない光。
それは、とりもなおさず、彼が歩んできた人生の末路なのだから、どうしようもない。
因果は、巡る。
原因がどこにあるかと言えば、やはり、太陽奪還計画に殉じようとしたことだろう。
いや、殉じることができなかったから、なのかもしれない。
あのとき、サイバ事件が起きたあの日、春雪が〈フェンリル〉の工作員であり続けたのであれば、このような結果にはならなかったはずだ。
もっとも、その場合、彼には幸福な家庭など持つことは許されず、戦団の監視下に置かれ続けることになっただろうが。
どちらが良かったのか。
春雪には、わからない。