第四百十四話 スコル(二)
〈スコル〉。
反戦団組織〈フェンリル〉の後継組織であろう彼らが、いつ頃から活動していたのか。
春雪〈はるゆき〉には、全く想像もつかない。
そもそも、〈フェンリル〉に後継組織が誕生するなど、到底考えられないことだった。
〈フェンリル〉は、壊滅した。
跡形もなく消し飛ばされ、組織の構成員は、一人残らず拘束され、収監された。
ネノクニ統治機構による浄化作戦によって。
央都とネノクニ――長らく人材のやり取りしかしていなかった二つの世界は、しかし、確実にその距離を縮めていた。双界間通信が実現し、両者間のやり取りがより身近になった矢先のことだ。
サイバ事件が起きた。
サイバ・ネットワークス社が引き起こした大事件は、ネノクニの反戦団組織〈フェンリル〉が関与していることが判明し、戦団はその対処を統治機構に求めた。統治機構は、双界の秩序を乱す存在を許すわけにはいかない、と、浄化作戦を決行、それまで存在を黙認してきた全ての反政府組織を殲滅したのだ。
〈フェンリル〉のみならず、ありとあらゆる組織が、それによって壊滅した。
故に、〈フェンリル〉の生き残りなどいるはずもなければ、後継者が現れようはずもなかったのだ。
だからこそ、春雪は、自分の人生に過去の過ちが巨大な影となって立ちはだかるとは、想いも寄らなかった。
あるはずもないことが、起きている。
「そうそう、ぼくの名前は長谷川天璃。〈スコル〉の頭目を務めさせてもらっています」
「頭目? きみがか」
春雪は、多少なりとも驚きを覚えた。屋内に入ったこともあり、彼は魔具を脱ぎつつある。春雪も彼に倣い、レインコートのような魔具を脱ぎ、眼鏡を外した。
「不思議ですか? 頭目自ら使いっ走りのようなことをするのが」
「……人手が足りないんだな」
「それもありますが……最も大きな理由は、ぼく以外があなたに会えば、あなたを殺してしまいかねなかった。ぼくだから、冷静に対応できたんです」
「……恐ろしいことをいう」
「もちろん、冗談などではありませんよ」
冷淡な言葉だったが、しかし、だからこそ、春雪は、彼らとは相容れることはないのだろうという確信を強めた。
確かに、その通りなのだろう。
彼らからしてみれば、春雪は裏切り者以外のなにものでもない。
春雪は、なにもしなかった。
サイバ事件にも関わらなかったし、同時期に〈フェンリル〉から戦団に送り込まれていた他の工作員と連携を取ろうともしなかった。
取れるわけもなかったのだ。
〈フェンリル〉総帥・河西健吾は、戦団に工作員を送り込むために慎重を期した。露見すれば、〈フェンリル〉という組織そのものが危うくなるのだから、慎重すぎることは悪いことではない。
むしろ、良いことだ。
少なくとも、戦団内部に工作員を送り込む上では、だが。
当時、〈フェンリル〉が戦団に送り込んだ工作員は、大空兼人、厳島東、そして、升田春雪の三名である。しかし、互いに工作員であるという事実は知らされていなかった。
〈フェンリル〉のそれぞれ異なる施設で工作員として育て上げられた三人は、他に同志がいるということだけ知らされて、地上に上がった。
春雪たち工作員の目的は、地上に〈フェンリル〉の活動拠点を作ることだった。そのためにこそ戦団に送り込まれたのだ。
地上は、戦団が支配している。
地上に拠点を作るのであれば、支配者の側についているほうがなにかと都合がいいのではないか。
その考えそのものは間違いではなかったのだろうが、しかし、その結果、春雪は、誰よりも早く現実を理解してしまった。
戦団が持つ圧倒的な情報収集能力を前にして、〈フェンリル〉の策謀の数々が、全て、児戯に等しいものだとわかってしまったのだ。
失意と絶望の果て、彼は、戦団の一員として生きることとした。
もはや、〈フェンリル〉に未来はなく、故に、導士として戦団に尽くそう。
春雪がそう結論するまでに時間はかからなかった。
そして、それが間違いではなかったことがわかるまでにも、それほど時間を必要としなかった。
工作員の内二名が拘束され、〈フェンリル〉は壊滅した。〈フェンリル〉の痕跡はなくなり、春雪は、晴れて自由の身となった。
もう春雪が〈フェンリル〉の影に脅かされることはない――そう確信して、十数年が経過した。
いまになってその後継組織が現れ、牙を突きつけてくるなど、だれが想像しよう。
不意に天璃が立ち止まったのは、廊下の突き当たり、黒い扉の前だった。
「ここに、〈スコル〉の幹部が集まっています。といっても、ぼくを含めてたった三人ですけどね」
「たった三人の幹部か」
「仕方がないでしょう。〈フェンリル〉は壊滅してしまったんですから」
天璃は、声音にわずかばかりの棘を含めるようにして、春雪に言った。春雪は、表情ひとつ変えなかったが。
天璃は、扉を押し開いて入室すると、春雪に続くようにと促した。春雪に否やはない。
広い部屋だったが、妙に狭く感じられるのは、様々な機材が所狭しと並べられているからだ。まるで技術局棟の一室に迷い込んでしまったかのような感覚がある。
さらには無数の幻板が展開していて、様々な映像や情報が表示されていることもわかった。
春雪は、それらの幻板を一瞬で読み取ったものの、それらがなにを意味しているのかまでは考えなければならない。
幻板に表示されている情報というのは、葦原市内の地理関係であったり、人口密集度であったり、戦団の人員配置についてであったりするのだが。
春雪が入室するなりそれらの情報に注目するのは、やはり情報局に長年勤めているからだろう。どれほど些細なものであれ、情報は力になる。そのことは、戦団の情報局で嫌と言うほど理解した。
ノルン・システムは、わずかばかりの情報から様々な難題の全容を解き明かしてしまう優れものなのだ。
春雪が〈フェンリル〉の未来に絶望したのは、ノルン・システムの存在が大きい。戦団が双界の情報の支配者であるという事実に直面すれば、誰であれ、そうなるだろう。
ノルン・システムを知らずに〈フェンリル〉の工作員としてその使命を全うしようとした大空兼人、厳島東は、まだ、幸せ者だったのかもしれない。その結果が不幸に終わるのだとしても、絶望を知ることはなかったのだから。
「我らが先輩が来てくれたよ」
などと、大仰に言ってのけたのは、もちろん、天璃だ。本音などではあるまいが、春雪を共犯者に仕立て上げるためにこそ、そういう必要があるのだろう。
春雪は、もはやなんとも想わない。
覚悟はとうに決まっている。
〈スコル〉の主要人員は、長谷川天璃、松下ユラ、近藤悠生の三名である。
長谷川天璃が〈スコル〉の頭目であるということは、彼の発言からもわかっていた。松下ユラは、そんな彼の補佐を務める人物であり、同時に恋人でもあるようだ。ユラは、常に天璃を見つめていて、熱っぽい眼差しを向けていた。
近藤悠生は、頭目の天璃以上に〈スコル〉にとっては重要な人物であるらしい、ということは、一目でわかった。
彼が、この室内の大半を占拠する機材を制御していたからだ。
たったそれだけのことだが、それこそが、この少人数の組織における力の源なのだから、当然といえるだろう。
春雪は、機材の設置された机を囲む三人と少し離れた席に腰を下ろしながら、彼らのことを注視する。その挙措動作の一つとっても重要な情報になりうるからだ。
些細な情報が、戦団にとっての巨大な力になる。
だからこそ、春雪は、視線を巡らせ、全てを視るのだ。記憶に書き込み、意識に焼き付け、脳髄に刻みつける。
それだけが、彼に出来る唯一のことだ。
無論、そんなことは、天璃たちも理解しているだろうが。
天璃の鳶色の目が、春雪を見据えていた。
超然とした眼差し。
人を人とも想っていないような、そんな視線。
「では、始めましょうか。情報局副局長補佐殿」
天璃のその言葉が、彼らがなぜ自分を求め、利用しようとしているのかを理解した。
情報を、必要としているのだ。