第四百十三話 スコル(一)
午後八時を少し回っていた。
葦原市東街区一色町の自宅から目的地までは、空を飛べば一っ飛びで辿り着いただろうが、さすがにそんな真似が出来るわけもなかった。
いくら透明化の魔法を使っているとはいえ、だ。
いや、透明化の魔法を使っているからこそ、といったほうが正しい。
透明化の魔法は、彼が着込んでいる魔具によって発動し、維持されている。魔具に仕込まれた魔機が、それを成す。
つまり、この全身を覆い隠すコートは、戦団が用いる導衣の役割を果たしているということだ。
透明化の魔法〈透鱗〉が仕組まれた魔具を手渡されたのは、昨夜のことである。そして、この魔具を着込み、透明化した状態で、指定された時刻、指定された地点に赴かなければならなかった。
でなければ、家族の安全は保証できない――。
明確な脅迫である。
普通であれば、即座に上司や同僚に相談するべき事柄だった。
春雪が勤務しているのは戦団の情報局だ。
戦団の根幹、央都の根本といっても過言ではない部署において、それなりの立場にある彼が、〈おおかみのこども〉を名乗る人物たちに脅迫を受けていると相談すれば、その瞬間、戦団は全力を挙げて対応してくれただろう。
それこそ、即刻、家族の身の安全を確保してくれたに違いない。
だが、それだけだ。
それで、終わってしまう。
彼ら〈おおかみのこども〉は、身を隠したままなのだ。所在も、目的も掴めないまま、雲隠れしてしまうかもしれないし、なんらかの犯行を許してしまう可能性があった。
そして、彼の正体も、暴露されてしまうかもしれない。
それによって崩壊するのは、央都の治安などではなく、彼の人生、彼の家庭だけだが、だからこそ、彼には〈おおかみのこども〉のいいなりになるしかない。
もしも春雪に家族がいなければ、最愛の妻と娘がいなければ、どうでもよかったかもしれない。
自分一人の身が破滅するだけならば、なんの問題もなかったかもしれない。
因果応報という言葉がある。
過去の自分の行いが、今になって降りかかってきただけのことだ。
それが自分が心から望んだものでなかったのだとしても、悪行に手を染めようとした過去は消せないし、〈フェンリル〉の工作員として戦団に潜り込んだ事実も、決して消えることはない。
だからこそ、彼自身が〈おおかみのこども〉と対峙しなければならないのだ。
その場合でも、明臣か情報局長・上庄諱にでも話を通しておくのが普通かもしれないのだが。
が、春雪は、自分が〈おおかみのこども〉の監視下にある可能性を考慮し、故に、誰にも話さずに行動に移した。
透明人間に指定された地点は、南海区大国町の一角だ。
一色町からは鼎町を挟んだ南西に位置し、葦原市全体で言えば、南東部に位置する町だ。
そこに辿り着くまでには、春雪は、結局空を飛んだ。ただし、法機は用いない。法機だけが空を飛ぶことなどありえないのだから、発見され次第、通報される可能性が極めて高い。
幸いにも、この魔具を通した透明化の魔法が監視カメラでも捉えることができないことは、わかっていた。
であれば、透明化の状態で空を飛んでもなんの問題もない。
ただし、法機による簡易魔法に慣れすぎたがために、普通に飛行魔法を使うだけでもそれなりに苦労をしなければならなかったが。
目的地は、小さな集合住宅だった。葦原市の建築基準を満たした道幅の広い道路沿いに立つ、やはり、高度制限を満たした建物。なにか目立つ印があるわけでもなければ、なんの変哲もない外観だった。
本当にここであっているのかどうか不安になるくらい、特徴らしい特徴がない。
しかし、指定された地点であることは、疑いようもない。端末がそれを示している。
春雪は、地上に降り立つなり、低い塀に囲われた敷地内に足を踏み入れた。すると。
「指定時刻には間に合いましたね」
「……いたのか」
「もちろん。でないと、あなたの到着を確認できない」
透明人間の冗談めかした口調は、しかし、冷え冷えと凍てついてさえいるようだった。春雪が現れなければ、春雪がなにかしらの行動を起こしていれば、春雪の家族の命はなかった、といわんばかりの冷徹さを感じる。
透明人間の全体像は、当然ながら、全く以て見えない。わずかな輪郭が、集合住宅の照明の光によって浮き上がっているくらいだ。それも、監視カメラでは全く捉えられないくらいの僅かな誤差に過ぎない。
「しかし……なぜ、わかった?」
「この透過服は、特別性でしてね。特定の魔機を用いれば、視ることができるんですよ」
「いいのか?」
春雪は、突如、目の前に出現した眼鏡を一瞥し、視線を元の位置に戻した。つまり、透明人間の輪郭の、顔の辺り。
「なにがです?」
「こんなものをわたしに渡せば、透明人間の利点が失われるぞ」
「あなたはもう共犯者なんですから、隠しておく必要はありませんよ」
透明人間は、薄く笑う。近藤悠生ならざる何者か。おそらく〈おおかみのこども〉の一員であるが、決して重要人物ではあるまい。
お使いをさせられるくらいだ。
春雪は、仕方なく、透明人間が差し出した眼鏡を受け取った。一見するとありふれた黒縁の眼鏡のように見える。なんの仕掛けも仕組みも見当たらないのだが、そんなものはどんな魔具や魔機にもいえることだ。
しかし、眼鏡そのものが、もはやありふれたものではない。
魔法の発明が医療分野を大きく発展させた。あらゆる疾患、あらゆる病、あらゆる人体の機能不全が、医療魔法によって、まさに奇跡のように回復するようになったのだ。
視力も、医療魔法が瞬く間に回復させた。
当初こそ高額な医療費が必要だったという話だが、それも遠い昔のことだ。
今や、眼鏡を購入したり、買い換えるよりも、視力回復の医療魔法を受けたほうが余程安上がりだった。
視力を補強するための眼鏡のような道具は、製造さえされていなかったし、。眼鏡の専門店などこの央都のどこにもなかった。
春雪は、眼鏡をかけ、透明人間に目を向けた。レインコートのような魔具で全身を覆った男の背中だけが視界に入ってくる。
「こちらです」
透明人間が春雪に背を向けたのは、場所を移すためらしかった。
春雪は、彼に従い、移動した。
「ここが、我らがスコルの活動拠点です」
そういって、レインコートの元透明人間は、集合住宅二階の角部屋を示した。ごくごく普通の、どこにでもあるような一室。表札には、篠山と記されている。
「スコル? 〈おおかみのこども〉じゃないのか?」
「〈おおかみのこども〉は、あなたにぼくたちの存在を知らしめるための言葉に過ぎませんよ。実際、あなたは、〈フェンリル〉との関連を疑った。〈フェンリル〉の生き残りが、自分に接触してきたのだと。どうでした? そのときの気分は」
「……最悪だよ」
春雪が本音を告げると、元透明人間は、わずかにこちらを見て、笑った。鳶色の目が、どこか超然としているような、そんな男。まだまだ若く、幼ささえ感じさせるのだが、そこが恐ろしいところかもしれなかった。
幼いと言うことは、なにをしでかすかわからないということでもある。
「でしょうね。そしてそれは、ぼくたちの気分でもあるんですよ」
「きみたちの気分?」
「ええ。あなたが〈フェンリル〉を裏切り、戦団の一員として人生を謳歌しているという事実を知ったとき、ぼくたちがどれほど最悪な気分だったか、想像できないでしょう」
「……そうか」
春雪は、〈スコル〉という〈フェンリル〉の後継組織がなぜいまになって現れたのかを、その一連の言葉で理解したような気がした。
春雪が、〈フェンリル〉を見捨てた裏切り者が、央都の支配者たる戦団の一員として、この地上での日々を満喫しているという事実が許せなくなったからなのではないか。
「だから、わたしを巻き込んだのか」
「まさか。ぼくたちは、あなたの存在を知り、最悪の気分になりましたが、あなたの人生をめちゃくちゃにしようだなんてこれっぽっちも想っていませんよ。ただ、あなたは大いに利用できると考えただけ」
彼は、拠点の扉を開くと、春雪に入るように促しながら、告げた。
「ぼくたちの大いなる目的のために」