第四百十二話 おおかみのこども(十四)
「妻鹿局長直々に、ですか」
「副局長殿直々に頼まれたものだから、仕方がないさね」
妻鹿愛は、春雪の反応に苦笑するしかないといった様子だった。
しかし、春雪が驚くのも無理はない。
医療棟に辿り着いた春雪が真っ先に通された部屋に、かの妻鹿愛が待ち受けていたのだ。あの戦団の女神とも名高い、医務局の局長が、である。
まさに女神のような美貌と、その完璧な肢体を隠そうともしない格好の上から白衣を纏った彼女は、医療棟の清廉潔白な雰囲気からは多少どころか大きく離れているのだが、しかし、彼女の存在は医務局そのものといっても過言ではないのも事実である。
春雪が、医務局そのものと対面しているような感覚に襲われるのも当然だった。
「わずかな変調すら見逃さず医療棟に足を運ばせるとは、随分と部下想いの上司じゃないか」
「それは……常々実感しているところです」
春雪は、医務局長に促されるまま、彼女の対面の席に腰を下ろした。
それから軽い身体検査が行われる運びとなったものの、やはりというべきかなんというべきか、なんの異常も見つけられなかった。当たり前だ。不調なのは、肉体面ではない。精神面にこそ、問題を抱えているということは、春雪自身が誰よりも理解していることだ。
そして、その精神的な問題を発見するには、精神面での検査を行う必要があるが、今回の検査ではさすがにそこまですることはなかった。
魔法の影響によって、医療分野も大きく発達し、進歩した。
人間が立ち入ることの困難だった精神の領域にまで、魔法の力は容易く干渉できるようになってしまったからだ。
精神魔法の存在が、それを促進させた。
人の心を制御し、支配する魔法は、同時に、なにかしら精神に問題を抱えた患者を救う力にもなったのだ。
精神面の問題、異常を見抜くためにも、大いに活用された。
が、今回の春雪の場合は、精神魔法を用いての検査をする必要性はなさそうだという判断がなされた。
「身体的にはなんの問題も見当たらないよ。健康そのものさ。ということは、精神的な負荷が表面化したということなんだろうけれどね」
愛は、幻板に表示した春雪の検査結果を一瞥しながら告げる。
「だとしても、あたしからいわせてもらえば、それくらい、誰だって抱えているものさね。心配性なんだよ、副局長殿は」
「全く、仰るとおりかと」
「だろ。美那兎さんからもよく聞かされるよ、副局長の心配性ぶりは」
「伊佐那部長が、ですか」
「ああ、そうさ」
愛がなんともいえない顔で苦笑したのは、美那兎の人柄を思い返してのことかもしれない。
美那兎とは、情報局魔法犯罪対策部の部長・伊佐那美那兎のことである。愛と美那兎の親交の深さは、伊佐那美由理を通じて結ばれたものであるらしい。
伊佐那家の人間は、末弟の義一を含め、全員が戦団で働いている。戦闘部に所属しているのは美由理と義一だけだが、他の兄弟は、別々の部署においてそれぞれに活躍しており、戦団になくてはならない存在感を発揮している。
「それだけ部下のことを大切に想っているということなんだろうけれどね」
「ええ。それは間違いありませんよ」
春雪は、確信を以て、頷く。
明臣が心配性なほどに心配するのは、情報局に所属する全導士をただの部下としてだけではなく、自分の子供のように想っているからだ。わずかな変調も見逃さず、発見次第医務局を頼るようにといってくるのも、それだ。
部下を信頼していないわけではない。
その働きぶりを信頼しているからこそ、無理しているのではないかとまで考えてしまうのだろう。
春雪は、明臣のそういう性格が嫌いではなかった。
「部下想いのいい上司です」
「……まあ、戦団の上司ってのは、大抵、そういうもんだけどさ」
「それもそうですね」
春雪は、愛の意見を肯定しながら、そういう組織だからこそ、戦団は辛くも一枚岩で在り続けることが出来ているのだろう、とも、想った。
日夜、誰もが誰かのために戦い続けている。
それは自分の恋人のためであったり、家族のためであったり、友人のためであったり、市民のためであったり、と、人それぞれなのだが、一貫しているのは、導士のためであると念頭に置いているということだ。
互いに信頼し合い、認め合い、助け合う。
それこそが、戦団の導士たるものの心構えである。
春雪は、愛との会話の中で、そのことを再認識した。
だから、というわけではないが、足取りも軽くなり、情報局で彼を待ち受けていた上司は、彼の表情を視るなり、心底安堵したような表情をした。
明臣のそうした態度の一つ一つが、春雪の心に深々と突き刺さり、ずたずたに引き裂いていくような感覚があるのは、彼を裏切っているという自覚があるからに違いない。
明臣の春雪に対する絶大な信頼と多大な期待を、尽く踏みにじっているという事実。
それが表情に出ていたからこそ、心配をさせてしまったのだろう、と、春雪は考えていた。だが、もうそんなことはさせまい。
心配させる必要はないのだ。
なにも、問題はない。
少なくとも、春雪は、そう考えることにした。
そう、問題などはない。
春雪が情報局での仕事を終えたのは、午後五時のことだ。
定時に出勤し、定時に退勤するのが、春雪という人間であり、そのことを咎めるものはどこにもいない。
戦団本部は、一年三百六十五日二十四時間営業中といっても過言ではないのだが、当然ながら、人間がそのように働き続けられるわけではない。
央都守護を担う戦闘部の導士たちが三交代制で任務を行っているのと同じように、交代制を取っている。
春雪たちのように朝方から夕方まで働く導士もいれば、夕方から朝方まで働く導士もいるのだ。
幻魔災害は、いつ何時発生するものかわからない。午前中に発生することもあれば、真夜中に発生することだってあるのだ。
故に、戦闘に関連する可能性のある部署は、常に稼働状態でなければならなかった。
つい先日、機械事変と呼称される大規模幻魔災害が発生したが、それも夜のことだった。
機械事変が起きた日、春雪は休養日であり、家族のためにその一日を費やしていたのだが、空白状態を作ることのできない戦団本部には、常に導士たちが詰めていた。
だからこそ、日曜日の夜という時間帯であっても、幻魔災害が発生次第、即座に対応可能だったというわけだ。
春雪は、妻と娘の三人で花火大会を見学していたこともあり、当然のように機械事変に巻き込まれている。そのとき、戦闘部の導士の頼もしさを肌で感じたものだったし、この世界には、戦団が必要不可欠なのだと言うことを身を以て理解したのだ。
この魔界と呼ぶに相応しい地上に再び人類が返り咲くには、まだまだ巨大な力が必要だ。戦団をより強大に、より強力にしていかなければならない。
でなければ、央都に安息は訪れず、春雪の妻も娘も安心して日常を送ることも出来ない。
導士がいればこそ、彼らが命懸けで市民を守ってくれているからこそ、日常を謳歌できているという事実を前にすれば、〈フェンリル〉だの〈おおかみのこども〉だの、反戦団勢力の存在そのものが馬鹿馬鹿しく思えてならないのだ。
だが、春雪は、彼らの存在を無碍には出来ないという事情もあった。
真っ直ぐに家に帰った春雪は、愛娘による全身全霊の出迎えを受け、妻と笑い合い、家族団欒の一時を迎えた。
それから、書斎に籠もる際、彼は妻と娘に断りを入れた。
「少し、集中したいんだ」
ただ、その一言だけで、麻里安と春花は納得し、春雪の邪魔をしないようにと目線を送り合った。
良き理解者である妻と、良く出来た娘だ。
春雪は、家族のことを想うと、それだけで胸が一杯になる。
自分がこのような幸福を得ることが出来たのは、央都に上がってきたからにほかならない。
反戦団組織〈フェンリル〉の工作員として。